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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)17
「あの女を知ってるのか? おもしれえな。ヤクの取引の現場に出くわしやがって。涼香お嬢の友人だか何だか知らねえが、見た奴は殺す。それだけだ」
文彦が叫ぶ前に、後ろから大きな手で口を塞がれた。
「ちっ。うるせえな。そいつは連れていけ。早くしろ。一発で決めろ」
「……ッ!」
文彦が引きずられていき、抵抗するも店から出されようとする最後の瞬間だった。サイレント銃は、まっすぐにステージへと狙いをつけ、何のためらいもなく発射された。
大きく瞠った文彦の瞳が最後に見たのは、公彦の背中。
スローモーションのように、抱きしめるようにして庇った――侑己を腕の中に、倒れていく背中。白鳥の羽根がもがれて飛び散るように、血しぶきをあげて。
「公彦!」
左手をのばすと銀色のきらめきの向こうに、あまりにも純潔すぎた、白百合。天使が差し出した花びらは、文彦の手は届かず、真紅の花粉を撒いて散っていく。
銃弾を受けた姿は、その場で、ゆっくりとあお向けに倒れていく。公彦の濁っていく瞳が、一瞬、客席を見る幻想に文彦はとらわれた。たった一瞬、公彦がこちらを見て、視線が合って、わずかに微笑した気がした。そんなはずはないのに。
「うわあ……うわああーッ!」
「ちッ、外しやがって。無駄足じゃねえか。行くぞ!」
担がれるようにして連れて行かれ、文彦は錯乱の中で、ただ一つのやさしい名前を呼び続けた。
ライブハウスは騒然として、混乱にどよめき、急スピードで去っていく車を逃がした。
文彦は殴られるままに連れて行かれたのは、初めてこの男と出会って、拘束されたあの忌まわしい部屋だった。何人もの屈強な男に囲まれて、文彦は生贄だった。
「まあ、よくもコケにしてくれたな。誰に媚売って逃げたんだ。まあいい。これで終わりにするか。最後に金にだけしてな。おめえ、ちょうどいいや。注射を初めての奴とやってみてえって客がいるんだ。そいつとやれ。おい、もってこい」
文彦は度重なる衝撃に頭が停止していたが、それでも体はおののいた。文彦は床を這うようにして後退った。
(それ、は……)
ここまで培った感覚も、技巧も、指の感覚さえも失うのかもしれない。それはつまり、文彦の世界の死を意味する。
(でも、もう、終われる……のかもしれない……)
それがどれほど酷く、むごい苦しみの終わりであったとしても。このまま弱って、心臓が耐え切れず、動かなくなったのなら。文彦は止まらないふるえを感じながら、瞳の光を失ってく。
(公彦……公彦)
大きな音を立てて、部屋のドアが突然に開いた。
「警察だ!」
警察官たちが雪崩をうつように集団でワッと押し寄せ、驚いて反応した男たちと取っ組み合いになり、刃物が光り、銃声が鳴る。文彦はあまりのことに驚いて、その場から動けずに硬直していた。
ガチャン! と突然に部屋中が真っ暗になった。
闇の中でワーッと押し合い、争い合う声と音が充満し、文彦も激しく殴られて床に倒れていく。
「文彦」
落ち着いた囁き声は、聞き覚えのあるものだった。圧倒的な力が、文彦をぐいとつかみ上げると、有無を言わさずに文彦を担いだ。文彦は闇の中を、大きな背中に伏せたまま、揺られながら抜けていった。
「武藤……さん」
転がされるように放されたのは、武藤が経営する店でだった。薄闇の誰もいない店は、がらんとしていて、ライブステージはうつろに楽器だけを乗せている。一番奥のソファー席に、文彦はうずくまり、呆然と武藤を見上げている。
「莫迦か。どうして、戻って来た?」
「武藤さんが……助けてくれたの……?」
「相変わらず答えになっていない。まあな――俺が警察に電話した。あいつらにつかまったところは気付いていたが。とりあえずあの場所の奴等は一斉に検挙だろう」
「そ……う」
唇は動いていたが、文彦は何を話しているのか自分でもわからなかった。一番聞かなくてはならないことがあるのに、それを聞くのが恐怖なのだ。その逡巡を切り裂くように、武藤は告げた。
「公彦は死んだ」
文彦はからくり人形のようにゆっくりと、ぎこちない動きで武藤を見つめた。
(き、み、ひ、こ)
青ざめた唇は、声もなくその名前をくり返している。文彦の小さな頭はぐらぐらと揺れ、そのたびに栗色の髪が波打った。
「もう……いいんだ……俺は……ずっと――この一生は長すぎる……」
不明瞭な呟きは文彦自身が認識しているとも思えず、深い縹いろの瞳は、幻影の中をゆらゆらとさすらっている。武藤は無表情に、片手を上げた。
「殺してやろうか?」
文彦はぼんやりと、幼子のように武藤を見上げた。
「文彦を? それとも、あの男を? 殺ってやろうか」
「殺し……たい……自分も、あいつも……」
ふるえた声は一気に老いたようにしわがれていて、文彦は自分の咽喉をつかみしめた。その上から、武藤は大きな手を重ねて、器用にぐっと外さずに力を込めた。
「死にたい奴の顔なんてすぐわかる。死にたいのか?文彦。あいつらも、出所するのを追ってでも始末してやってもいい」
武藤の声には、抑揚も感情も一切ない。機械的に的確に文彦の咽喉を締めあげていき、文彦は青白い顔でのけ反っていく。
(公彦と……死んでしまいたい……)
「まあでも、俺は死にたい奴の助けをするほど優しくはない。そんな自慰に付き合うのは、さして愉しいことでもないからな。さあ、愉しいことをしようか」
両眼は闇の底のようで、まったく笑っていない。
「まずは手首を切り落とそうか」
悪魔がふいにやってきて、地響きのような不穏さで、文彦の耳元で囁いていったようだった。
「――手……」
ぎょっとして初めて文彦は言葉を返した。
「その後に体中の血を抜いていこうか。蝋人形みたいに青白くなって、徐々に動かなくなる。その死に際に抱くのは興味があるな。どうした? どうせ死ぬんだから、いいだろう? だったらその手を切り落とすくらい、何でもねぇじゃねえか。それとも、死にてえ顔してるのは嘘だ、てことか?」
文彦の中で、ゆらり、と赦しがたい怒りが湧き上がってくる。
(ねえ、文彦。文彦の手は不思議だね。俺はこの手が好き)
武藤のがっしりとした手に咽喉を締めあげられたまま、顔を真っ赤に染めて、唇をわななかせた。
文彦の心で、懐かしい幻聴は鳴り続けている。
(ふみひこ)
涼やかで、いつも少し照れたように微笑んで、そしてやさしく名前を呼んで。
その呼び方を思い出すだけで、心はふわりと浮遊して、そしてやさしさに包まれる。
「公――彦……!」
文彦はあらん限りの力で、ドン! と床を両手で殴りつけた。
「公彦! 公彦!」
その名前を呼ぶ時が、こんなに苦しい時が来ようとは。
ダン! ダン! と激しく床を叩きつけ、その拳の肌は破れて血が滲んだ。
「うわあ……ああ! あああッ! 公彦さえ生きていれば! それだけでよかったのに!『レフトアローン』を弾くって約束してた! 二度と、もう二度とその日は来ない……!」
いつの間にか、武藤の手は文彦の細い咽喉から離れ、見下ろすようにして立っている。
文彦の体の中で、あらゆる音が荒れ狂い、嵐のように狂乱し、さらっていく。
文彦の顔は夢遊病者のようで、その瞳は焦点が合っていない。唇をひらいたまま、ただゆらゆらと体を揺らし、オフィーリアの最期の狂気のように、深く狂っている。
武藤はその様子を見ると、素早く文彦の腕をつかみ、店の狭いステージのピアノの前へと引きずっていった。そのことに文彦は気付いているのか、いないのか、ピアノの前に座るとがくりと鍵盤の上へと突っ伏した。
ガァンと不協和音が響き、あたりに音が飛び散っていった。
不協和音は文彦の脳内で大きくなり、そして胸に押し上げ、怒涛のように流れ出していく。
(俺には必要な音だったのかもしれない。文彦の弾く悲しさが)
遠くから、さざ波のようにその言葉は、幾度も文彦の胸に押し寄せ、やがて噴火するように喉元まで込み上げた。
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