42 / 91

第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)18

 文彦は突っ伏したまま、鍵盤の上へと指を引っかけた。偶然に鳴った最初の音は、文彦に一つの曲名を呟かせた。 「モリタート……」  武藤は音もなく腕を組んだ。 「三文オペラ、メッキー・メッサー」  間髪を入れずに、強く低い声で武藤が返した。盗賊と乞食と娼婦の世界へ、文彦はのろのろと次の音へと指を伸ばし、鍵盤を押さえた。確かな音で、響きは向こう側へと鮮やかに飛んでいく。ゆっくりと両手をかざし、文彦はひどくスローテンポで「モリタート」を弾き出した。 (ち、がう)  何がどう違うのかは判然としない。  文彦は宙に手を伸ばした。それは空しく落ちていく。  その手を武藤の大きな右手がつかみしめ、くずおれていく文彦の背を左手が押し返した。 「弾け」  それは闇の中の悪魔の赤い囁きだったのか、気まぐれに嗤う運命神のあくどい悪戯だったのか。凍てつくように硬く尖った声は、文彦の中へといっぱいに広がって刺さっていく。  文彦はその痛みに呻いて、眉をきつく寄せて喘いだ。  それは情事の最中の恍惚とも見分けがつかない表情で、洩れる吐息はハラハラとあえかにこぼれ落ちていく。 「う……あ……あっ」 「それでも、弾け!弾くんだ!」  武藤は、文彦の肩をひどく強い力でつかむと、大きく揺さぶった。ぐらぶらと文彦はゆすぶられ、苦悶するように呼吸を乱し、左手をかざした。  リングを嵌めたその手の隙間から、逃して落ちていってしまった想い。  体の奥にひそめていた奔流が、荒く渦巻き、外に出ようと文彦の肌を手あたりしだいに叩いている。  ひどく何かを壊してしまいたい想いに、文彦は暴れ回りたかった。  やさしく慈しみに満ちていた愛するひと、くちづけて、くちづけられた微笑み。 (このまま……じゃ、ない)  自分を金で切り売りされたことをひたすらに隠し、まるでただの二十歳の男ように口を拭って、大切なはずのひとと隠し事をしたまま愛を語り、人前で音楽を演っていた。 (終われ、ない)  両足でリズム鳴らし、大地を激しく駆けて、踊り狂いたいような衝動に、文彦は頭が割れそうになって、フォルティシモで鍵盤を大きく響かせた。  唇はわななき、瞳は思い詰め、肌は内側から発光するようにあやしくぬめっていく。 「……マック・ザ・ナイフ」  ジャズアレンジさせた「モリタート」を、のろのろとした速度で始め、やがて文彦は半音低くして転調してしまう。左手のコードを変え、複雑な響きは重厚になり、とち狂ったバランスは黒い悲しみとなって、どこか可笑しく、不吉に鳴り響いた。 (何処だ)  売った奴は、殺した奴は、そして、あがいていた奴は。  哀れな人間たちの営みと、ある日ぷつりと途絶えてしまった生命の行方は。  今、誰かに訊けばわかるのか?  否――ということだけは、文彦には感じられる。  あまりにも辛すぎる現世を捨てて、文彦は自分だけの、この世界から半音だけ別の扉をひらいた。 (俺の音は何処だ)  その姿は深い絶望と諦め、傷痕と恋情、憎しみと恐怖、憧れと望み、あらゆる感情を壊れそうにひそめて、武藤が点けた細い一筋のスポットライトを浴び、まさに今、後輪がさすように臈たけていた。  濁流となった感情は噴出するのではなく、圧倒的な力で奥深くまでひそめられて、響きは物憂く狂っているのに、指先は冷たく精確なポジションを追っている。  白く浮かび上がる横顔は、現実の者ではなく、白い霧の中からふっと湧き出てきたかのようにあやうい。  それは尋常ならざる者。  文彦は、まるで踊りの一振りのように、狂うほど優雅にピアノへと両のかいなを広げた。    はっと文彦は顔を上げた。 「あ……何処……?」  弾き終えたピアノから視線を上げ、あたりを見回し、そこが武藤の経営する店であり、すぐ横に武藤が腕組みしたまま、微動だにせず立っていることに気付く。 「あぁ……」  さっきまでの蠱惑的な姿とは打って変わった、戸惑うような、寄る術もない、か細い声。  このどうしようもない現実に帰ってきたのか――深い失墜と、今までの集中に、ぐったりとしたように、文彦は椅子の背にもたれかかった。  武藤は腕組みをゆっくりとほどき、止めていた息をふっと吐いた。  武藤の顔は、その奥に驚きと熱気を押し隠して、唇は強く引き結ばれていた。武藤はこの日、初めて圧倒的なまでに空気を支配した、極限の音楽を聴いたのだ。  文彦という、決して肉体的に逞しくもない細い肢体の、ましてや死にかかっていた絶望の淵の人間から。 「これが、音楽か」  破壊された人形の擬態のように、文彦の瞳は何処も見ておらず、何の返事もせず、機械的に浅い呼吸をくり返しているだけだった。 「これが――高澤文彦の音楽か」  武藤はそっとその白い手を取り、スラブ神話のセマルグルのように文彦の傍らに立って、いつまでも不可思議な視線を投げかけていた。あたりには夢幻の精霊たちが現れて、心躍るほどに快哉と狂乱を駆け巡るようだった。  文彦の白い頬に、涙が一つ、二つ、何の前触れもなくころがり落ちていった。 「もう……」  その先の言葉は続かずに、がくりと体は傾いて倒れ、武藤が外さずに支えた。  自らの意思に反して体を弄ばれた時も、愛するひとを失った今でも、文彦は運命が廻る勢いから逃れらずに、怒涛のごとく打ちのめされて押し流されていく。  文彦は青白いまぶたを閉ざして、あたり構わずむせび泣いた。うすい肩は痙攣し、細い首は力を失って傾き、指をからめて両手を握りしめ、歯を食いしばる。  文彦の頭の中で、永劫の約束がよみがえった。 (いつか俺のためだけに弾いて)  レフトアローン――  その声とともに、店には吹かないはずの風が、ふうっとやさしく吹き過ぎていった。  海を見下ろす観覧車にちかりイルミネーションが灯りはじめた夕暮れ、ハーバーに停泊していた白い大きなクルージング船の近くで、文彦はさらりと細いチェーンを取り出した。  港沿いの店でさっき買ったばかりのチェーンは、新しいきらめきで、文彦の目の前で輝いている。  文彦は何も言わずに左手の指から、鳥の文様のシルバーリングを、時間をかけてゆっくりと引き抜いていく。  息を止めて、大きな瞳を見開いて、そのリングをチェーンに通した。  腕を上げて夕暮れの空へと翳せば、深紅に燃える傾いた太陽の最後の陽を受けて、リングチェーンもはぜた火の粉のように赤くこまやかに光った。  文彦は少しずつ息を吐いて、チェーンを首筋に回すと静かに留めた。  ゆるくネクタイを締めた白いシャツの中へと、すとん、と仕舞い、シャツの上からてのひでリングをぎゅっと押さえた。  それは誰にも見えない場所で、人からは知られずに、文彦の胸にいつも寄りそい、生きている鼓動をともにしていく。  束の間、幾つかある武藤の拠点のうちの一つの部屋に世話になっていたが、文彦はすぐにそこを出た。この近くのアパートに、自分の名前で部屋を借り直し、それでほとんど貯めていた金は失ってしまったが、構わなかった。  港町の近くで、ジャズが盛んなこのあたりは、リフレイン・ストリートと呼ばれて店が集まっている。文彦は、一つ道を決めたのだ。  清忠と侑己はアメリカへ渡ったのだと聞いた。  まだ開店前の「CLOSED」と札がかかった店の扉を、文彦は迷いもなく開けた。扉の横には従業員募集の貼り紙があり、「MISTY」と青くネオンが光っている。 「お客さん、まだ準備中で――あれ、このあたりにない感じやなあ。雰囲気のある人や」  中から出てきたのは、面長の顔に、間延びしたような関西弁、くすりと笑ってしまいそうな雰囲気で、ひょろりとした三十代の男だった。 「客じゃなくて――まだ従業員募集してます?」 「そう、仕事? 俺はここをやってる竜野っていうけど――」  ふいと真剣な目になって、竜野はしげしげと目の前にいる文彦を眺めた。  頬に落ちる栗色のゆくる波打つ髪、気だるくにドアに手をかけて立って、ネクタイに白いシャツを纏っていようと、仄昏い夜の雰囲気が漂っている。片手にかけた黒いスーツの上着、それと対をなす白くなめらかな肌、竜野に向かって、底の知れないアルカイックスマイルをうっすらと浮かべた。  竜野は何度か目をぱちぱちとさせて、複雑そうに目を細めた。  文彦はじっと真正面から竜野を見ている。  その瞳は深い縹いろをして、そこだけは永い生を過ごしてきた者のように、ひどく老成した、疲れ切って悲しみをひそめた、物憂い揺らめきがあった。  その瞳を見ていると、底のない悲哀に引きずり込まれそうな、あやうい予感がする。 「名前は?」 「高澤文彦」 「まあ、入り。何ができるんか聞きたいから」  文彦は、リフレイン・ストリートの一つの店、ミスティの扉をくぐり、未だ見ぬ人生を始めた。 (ずっと、文彦の輝きを忘れないで)  それは、かれの如く、夕陽になって、海のきらめきになって。  舞う指先のあちらに、胸の鼓動のこちらに、歩み続ける足取りを促すように。  紫色の薄暮に、白い昼下がりに、金色の朝焼けに繰り返し。  この世界中の朝は、いつもかれを謳っている。  幾度でも――いつまでも。

ともだちにシェアしよう!