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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)18
文彦は突っ伏したまま、鍵盤の上へと指を引っかけた。偶然に鳴った最初の音は、文彦に一つの曲名を呟かせた。
「モリタート……」
武藤は音もなく腕を組んだ。
「三文オペラ、メッキー・メッサー」
間髪を入れずに、強く低い声で武藤が返した。盗賊と乞食と娼婦の世界へ、文彦はのろのろと次の音へと指を伸ばし、鍵盤を押さえた。確かな音で、響きは向こう側へと鮮やかに飛んでいく。ゆっくりと両手をかざし、文彦はひどくスローテンポで「モリタート」を弾き出した。
(ち、がう)
何がどう違うのかは判然としない。
文彦は宙に手を伸ばした。それは空しく落ちていく。
その手を武藤の大きな右手がつかみしめ、くずおれていく文彦の背を左手が押し返した。
「弾け」
それは闇の中の悪魔の赤い囁きだったのか、気まぐれに嗤う運命神のあくどい悪戯だったのか。凍てつくように硬く尖った声は、文彦の中へといっぱいに広がって刺さっていく。
文彦はその痛みに呻いて、眉をきつく寄せて喘いだ。
それは情事の最中の恍惚とも見分けがつかない表情で、洩れる吐息はハラハラとあえかにこぼれ落ちていく。
「う……あ……あっ」
「それでも、弾け!弾くんだ!」
武藤は、文彦の肩をひどく強い力でつかむと、大きく揺さぶった。ぐらぶらと文彦はゆすぶられ、苦悶するように呼吸を乱し、左手をかざした。
リングを嵌めたその手の隙間から、逃して落ちていってしまった想い。
体の奥にひそめていた奔流が、荒く渦巻き、外に出ようと文彦の肌を手あたりしだいに叩いている。
ひどく何かを壊してしまいたい想いに、文彦は暴れ回りたかった。
やさしく慈しみに満ちていた愛するひと、くちづけて、くちづけられた微笑み。
(このまま……じゃ、ない)
自分を金で切り売りされたことをひたすらに隠し、まるでただの二十歳の男ように口を拭って、大切なはずのひとと隠し事をしたまま愛を語り、人前で音楽を演っていた。
(終われ、ない)
両足でリズム鳴らし、大地を激しく駆けて、踊り狂いたいような衝動に、文彦は頭が割れそうになって、フォルティシモで鍵盤を大きく響かせた。
唇はわななき、瞳は思い詰め、肌は内側から発光するようにあやしくぬめっていく。
「……マック・ザ・ナイフ」
ジャズアレンジさせた「モリタート」を、のろのろとした速度で始め、やがて文彦は半音低くして転調してしまう。左手のコードを変え、複雑な響きは重厚になり、とち狂ったバランスは黒い悲しみとなって、どこか可笑しく、不吉に鳴り響いた。
(何処だ)
売った奴は、殺した奴は、そして、あがいていた奴は。
哀れな人間たちの営みと、ある日ぷつりと途絶えてしまった生命の行方は。
今、誰かに訊けばわかるのか?
否――ということだけは、文彦には感じられる。
あまりにも辛すぎる現世を捨てて、文彦は自分だけの、この世界から半音だけ別の扉をひらいた。
(俺の音は何処だ)
その姿は深い絶望と諦め、傷痕と恋情、憎しみと恐怖、憧れと望み、あらゆる感情を壊れそうにひそめて、武藤が点けた細い一筋のスポットライトを浴び、まさに今、後輪がさすように臈たけていた。
濁流となった感情は噴出するのではなく、圧倒的な力で奥深くまでひそめられて、響きは物憂く狂っているのに、指先は冷たく精確なポジションを追っている。
白く浮かび上がる横顔は、現実の者ではなく、白い霧の中からふっと湧き出てきたかのようにあやうい。
それは尋常ならざる者。
文彦は、まるで踊りの一振りのように、狂うほど優雅にピアノへと両のかいなを広げた。
はっと文彦は顔を上げた。
「あ……何処……?」
弾き終えたピアノから視線を上げ、あたりを見回し、そこが武藤の経営する店であり、すぐ横に武藤が腕組みしたまま、微動だにせず立っていることに気付く。
「あぁ……」
さっきまでの蠱惑的な姿とは打って変わった、戸惑うような、寄る術もない、か細い声。
このどうしようもない現実に帰ってきたのか――深い失墜と、今までの集中に、ぐったりとしたように、文彦は椅子の背にもたれかかった。
武藤は腕組みをゆっくりとほどき、止めていた息をふっと吐いた。
武藤の顔は、その奥に驚きと熱気を押し隠して、唇は強く引き結ばれていた。武藤はこの日、初めて圧倒的なまでに空気を支配した、極限の音楽を聴いたのだ。
文彦という、決して肉体的に逞しくもない細い肢体の、ましてや死にかかっていた絶望の淵の人間から。
「これが、音楽か」
破壊された人形の擬態のように、文彦の瞳は何処も見ておらず、何の返事もせず、機械的に浅い呼吸をくり返しているだけだった。
「これが――高澤文彦の音楽か」
武藤はそっとその白い手を取り、スラブ神話のセマルグルのように文彦の傍らに立って、いつまでも不可思議な視線を投げかけていた。あたりには夢幻の精霊たちが現れて、心躍るほどに快哉と狂乱を駆け巡るようだった。
文彦の白い頬に、涙が一つ、二つ、何の前触れもなくころがり落ちていった。
「もう……」
その先の言葉は続かずに、がくりと体は傾いて倒れ、武藤が外さずに支えた。
自らの意思に反して体を弄ばれた時も、愛するひとを失った今でも、文彦は運命が廻る勢いから逃れらずに、怒涛のごとく打ちのめされて押し流されていく。
文彦は青白いまぶたを閉ざして、あたり構わずむせび泣いた。うすい肩は痙攣し、細い首は力を失って傾き、指をからめて両手を握りしめ、歯を食いしばる。
文彦の頭の中で、永劫の約束がよみがえった。
(いつか俺のためだけに弾いて)
レフトアローン――
その声とともに、店には吹かないはずの風が、ふうっとやさしく吹き過ぎていった。
海を見下ろす観覧車にちかりイルミネーションが灯りはじめた夕暮れ、ハーバーに停泊していた白い大きなクルージング船の近くで、文彦はさらりと細いチェーンを取り出した。
港沿いの店でさっき買ったばかりのチェーンは、新しいきらめきで、文彦の目の前で輝いている。
文彦は何も言わずに左手の指から、鳥の文様のシルバーリングを、時間をかけてゆっくりと引き抜いていく。
息を止めて、大きな瞳を見開いて、そのリングをチェーンに通した。
腕を上げて夕暮れの空へと翳せば、深紅に燃える傾いた太陽の最後の陽を受けて、リングチェーンもはぜた火の粉のように赤くこまやかに光った。
文彦は少しずつ息を吐いて、チェーンを首筋に回すと静かに留めた。
ゆるくネクタイを締めた白いシャツの中へと、すとん、と仕舞い、シャツの上からてのひでリングをぎゅっと押さえた。
それは誰にも見えない場所で、人からは知られずに、文彦の胸にいつも寄りそい、生きている鼓動をともにしていく。
束の間、幾つかある武藤の拠点のうちの一つの部屋に世話になっていたが、文彦はすぐにそこを出た。この近くのアパートに、自分の名前で部屋を借り直し、それでほとんど貯めていた金は失ってしまったが、構わなかった。
港町の近くで、ジャズが盛んなこのあたりは、リフレイン・ストリートと呼ばれて店が集まっている。文彦は、一つ道を決めたのだ。
清忠と侑己はアメリカへ渡ったのだと聞いた。
まだ開店前の「CLOSED」と札がかかった店の扉を、文彦は迷いもなく開けた。扉の横には従業員募集の貼り紙があり、「MISTY」と青くネオンが光っている。
「お客さん、まだ準備中で――あれ、このあたりにない感じやなあ。雰囲気のある人や」
中から出てきたのは、面長の顔に、間延びしたような関西弁、くすりと笑ってしまいそうな雰囲気で、ひょろりとした三十代の男だった。
「客じゃなくて――まだ従業員募集してます?」
「そう、仕事? 俺はここをやってる竜野っていうけど――」
ふいと真剣な目になって、竜野はしげしげと目の前にいる文彦を眺めた。
頬に落ちる栗色のゆくる波打つ髪、気だるくにドアに手をかけて立って、ネクタイに白いシャツを纏っていようと、仄昏い夜の雰囲気が漂っている。片手にかけた黒いスーツの上着、それと対をなす白くなめらかな肌、竜野に向かって、底の知れないアルカイックスマイルをうっすらと浮かべた。
竜野は何度か目をぱちぱちとさせて、複雑そうに目を細めた。
文彦はじっと真正面から竜野を見ている。
その瞳は深い縹いろをして、そこだけは永い生を過ごしてきた者のように、ひどく老成した、疲れ切って悲しみをひそめた、物憂い揺らめきがあった。
その瞳を見ていると、底のない悲哀に引きずり込まれそうな、あやうい予感がする。
「名前は?」
「高澤文彦」
「まあ、入り。何ができるんか聞きたいから」
文彦は、リフレイン・ストリートの一つの店、ミスティの扉をくぐり、未だ見ぬ人生を始めた。
(ずっと、文彦の輝きを忘れないで)
それは、かれの如く、夕陽になって、海のきらめきになって。
舞う指先のあちらに、胸の鼓動のこちらに、歩み続ける足取りを促すように。
紫色の薄暮に、白い昼下がりに、金色の朝焼けに繰り返し。
この世界中の朝は、いつもかれを謳っている。
幾度でも――いつまでも。
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