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第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)1
走馬灯のように駆け抜けた過去のかえらぬ記憶は、永遠のようでいて刹那の間だった。
凍り付いたように固まった文彦の肩を、背中を、淳史がくり返しさすっている。
文彦のちいさな青ざめた顔、何をも見ていない眼差し、冷たくこわばった肌――現世にいるのか、違う世にいるのか、あやうい揺らめきで微動だにしない。どれくらいそうしていたのか、二人には過ぎた時間の感覚もあやふやだったが、部屋に射し込む朝の日射しは少しずつ高くなっている。
白い陽光に頬をさらして、文彦はほとんど唇を動かさずにちいさな声で呟いた。
「公彦は、死んだんだ。もう二度と、俺の前には現れない」
淳史はさすっていた手をゆっくりと止めて、眉を寄せて、文彦の顔を覗き込んだ。無表情に宙をみた青白い顔は、まだ夢幻の中をさまよっていて、淳史を見もしない。
「もう……公彦は、俺の前には現れない。死んだ人間は、二度とはやって来ない」
「死んだ――」
「目の前で死んでいったのに。二度とはよみがえらない。別の人のために、その人を庇って死んだ。かれ、らしい。これ以上ない、かれらしい最期」
「文彦」
ぐらぐらとした視線を危ぶんで、淳史は文彦の肩に手を回して、正気づけようとやさしく揺さぶる。
「ああ、そう。大事だった、好きだった。他の誰を好きでも、愛していても。ただ生きてくれさえすれば。この世界で同じ時代を生きてさえいてくれたら。それだけで良かった」
文彦は突然、おこりのようにふるえ出し、すべてを振り払いたいように両手で顔を覆った。
「愛していた――愛している。愛している。愛している」
歌うように、壊れた音楽のように、何度もくり返す愛の言葉。
どれほどリピートし、摩耗するほど想ったのか、かすれた声のフレーズ。
「出会ったあの日から、心が離れたことなど一度もなかったくらい。それでも、最初に裏切って出て行ってしまったのは俺だった。いつかその理由をも、この心をも。話せたら、と思っていた。そういつか、許されるなら」
あのやさしい理解に満ちた賢しい瞳に話せたら、と思っていた。西風のように微笑んで、いつもあたたかな温もりで立っていたかれ。
(愛している、愛している、愛している――)
「公彦が、幸せなら良かった。その相手が俺でなかったとして――他の誰を愛していても。それでも、生きてくれてさえいれば、それが希望になった。そういつか『レフトアローン』を弾いて――だけど、そんな日は二度と来ない!」
文彦は頭を振り乱して、包帯を巻いた手で、自分の咽喉を強くつかみしめた。
「自分の苦しみに耐えかねて、武藤さんを頼って逃げた。公彦を勝手に裏切って、何も話せなかった。それでしか、公彦を守ることができなかった――」
それでも、やさしい理解に満ちて、文彦に最後までありがとうと言った愛しい声。
(文彦! まだ切らないで!)
どんな気持ちで公彦がそう叫んだのか――文彦は時折、思うのだ。
(俺の大切な――)
そう言ってくれた心を、どうして手放してしまったのか。手放さなくてはならなかったのか。
「俺は、ばかだ」
文彦は、うっすらと笑った。笑いながら、泣いた。
「何年経ったって、忘れられるわけがない。せめて公彦が、他の人を好きになってくれていて、良かった。俺じゃない――そうもっと、相応しい人と」
「文彦、そんな――」
「あんなにあたたかな季節はもうない……」
思い出せば胸から体から、文彦の意思とは関係なく、追憶を取りすがり求めてしまう。そのふるえを、文彦は肩を腕で抱いて抑えた。
公彦のあけっぴろげで高貴な魂の贅沢なぬくみに包まれて、本当は訪れはしないはずだった奇跡を見たのだ、と文彦は思う。公彦の音はいつも生を愛し、人を愛していた。
(公彦――俺がカルテットをやめなかったら……)
運命は変わっていたのだろうか?と文彦は時折考えるのだ。それがあまりに虚しい過去の仮定だったとしても。
《絶望》という歌をぬぐい去るのは難しい。《かれ》の消えたこの世界で。
レフトアローンを弾いてしまえば鎮魂になるのだ、と文彦は思う。
それは、公彦との永劫の別れのような気がした。まだ生きている。まだ世界の何処かで生きている。そう信じなければ、文彦は生きていけないのだ。
「結局は、どんな時も、音楽を止められなかった……」
「文彦」
「ねえ、ウリをしていたかだって?」
文彦は、いつになくかすれた低い声で、疲れ切ったように両手を投げ出した。うつむいた顔に、笑いは貼り付いて固まり、ひどく老成した眼差しでぼんやりとしている。光を失った瞳は遠くを見つめて、紫色に影を刷く長い睫毛はふるえていた。
「そんなこと訊いて、どうする? ただ貧しい奴がいた、それだけのことさ。腹をすかせた奴がいて、父親の借金のカタにされたよ。今だって、父親の古い友人ってやつに金をたかられた。その挙句に、こんな怪我のざまさ。金は人を変える――堕ちてしまう。ピアノは売るための付加価値じゃない――その通り、あまりにも正しい。俺はあの時、最後まで拒めば良かったの? どうやって拒否すれば良かったの? 死にたくても死ねずに、生きているんだ、俺は――腹がすくと食べて、眠いと寝てしまう。自分とはあまりにも浅ましい。ねえ、どうすれば、公彦を裏切らずに、抜け出せたの? すべてを話しても、話さなくても、どちらにせよ傷つけたのに!」
「文……」
「武藤さんにも売ったかだって? ふふ、あの人がいなければ今は俺は死んでるか、ジャンキーだろうよ。それだけのことさ。そんなつまんない人生の話さ。そんなことを聞いて、面白い?」
文彦の瞳は、かつて淳史が目にしたことがないほど、ぎらりと狂おしく、怒りと絶望をひそめて赤く光るようだった。淳史は全身が痺れたように、視線のすべてを奪われて、硬直したように動けなくなっていた。
「ねえ、面白い? ゴシップみたいに知りたかった? もう、満足した? これで、満足した?」
「文彦」
淳史は息を呑むと、ゆっくりと手を伸ばして、文彦の冷たい指先に触れた。文彦はそれに気付かないまま、呼吸を乱して矢継早に言葉を続ける。
「さあ、次は何を訊くの? 男に抱かれるのは好きでしたか? その間、感じましたか? どんなセックスをしたんですか? ねえ、愉しい?」
ふふ、と文彦は唇だけで笑った。その瞳は淳史に向けられていたが、淳史を見ているのかも定かでなかった。何処か遠くへと意識は飛んで、ふらふらとしている。
「文彦――すまなかった。そんなつもりだったんじゃない――ただ、噂が違っているのなら、そんな噂を消さないとと思って――今の文彦と、音楽と、その噂は違いすぎて……だから、こんなに傷つけるはずじゃなかった。すまなかった」
「傷……?」
文彦は瞳を見開いた。
「傷ついてなんかない!」
それは絶叫のような、文彦の全身の叫びだった。
それだけ叫ぶと、文彦は全力を使い切ったようにぷつりと言葉を途切れさせた。がくりとくずおれるのを、淳史がかろうじて支える。
「文彦――大丈夫か?」
淳史が慌ててその肩を抱き、心配気に覗き込もうとするのへ、文彦はぱちりと瞳をひらいた。
黒目を動かして、はじめて淳史を見たように、ハッとした。
「大……丈夫……」
気まずい表情を浮かべて、文彦はかすれた声で淳史に向かって答えた。
「大……丈夫……ありがとう。大丈夫――」
「文彦……すまなかった。こんなつもりじゃなかった」
淳史の切れ上がった両眼は、深い悲哀を浮かべていて、文彦だけを見つめている。
「わか、ってる……わかってる――俺が勝手に思い出したこと――」
「思い出させた。すまない」
「いや……淳史のせいじゃ、ない。ごめん、ただの八つ当たり……こんな、わけのわからない話を……」
「俺が話させたんだ。すまない」
「いや、違う。俺の問題なんだ。こんなこと話すつもりなんかなかった……淳史には、何も関係がないのに」
淳史は一瞬、ひどく複雑な表情を浮かべて、唇を強く引き結んだ。文彦は視線を逸らして、うつむいている。
しばらく押し黙っていたが、やがてぽつりと低く呟いた。
「俺の、せいで、いい」
もう一度、今度ははっきりと言った。
「俺の、せいだ。悪かった」
文彦は沈黙し、奇妙なものでも見るかのように、不可思議な眼差しを淳史へと投げた。
「もう――何、なの……」
「何が?」
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