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第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)2
淳史の返答はゆっくりと穏やかで、落ち着いた表情で文彦を真正面から見据えている。文彦は視線を彷徨わせて、片手で髪を乱していく。
「だって――淳史と出会ってから、今井ミチルのことに巻き込まれるし、嫌な店に行かないといけないし、リングを忘れて来てしまうし、こんな恥さらしをして、良いことなんか一つもない……」
「ああ。うん、そうだ。俺が悪いんだ」
淳史は、うすい肩にゆっくりと腕を回すと、少しずつ引き寄せていく。文彦の体はこわばったまま、何の反応もなく動かない。
「俺が、勝手に気になって、文彦のことを知りたくなって、確かめたかった。ちゃんと答えてくれてありがとう」
淳史は怪我に触れないよう注意しながら、文彦の背中を抱きしめた。しばらくして、頼りなく肩がわなないて、体がふるえだした。文彦は、嗚咽していた。
「もう……いやだ……自分が」
文彦はひどい混乱の中で、額をてのひらで押さえた。
「別に自分だけが悪運だったわけじゃないんだ。人には大なり小なり何かがあって、こんな、自分だけが苦しいような言い方もしたくない――そう、公彦にだって、竜野さんにだって、セイにだって、淳史にだって人生はあって苦しみはあるんだ。なのに、どうして、こんな……」
文彦は混乱に陥ったまま、咽喉を手で押さえて、呼吸をくり返して瞳を伏せた。
「淳史に、嫌な話を聞かせてしまった。もう、忘れて。誰にも、話したことはないのに。俺は、どうしたんだろう。ずっと調子っぱずれで……もう嫌になる」
淳史の長い指が、文彦の乱れた栗色の髪を、そっとすくって整えていく。静謐な時間が落ちて、ただ二人の呼吸の音だけが、静かにくり返されている。
「文彦、ごめん」
文彦は大きな瞳をひらいて、淳史の端正な顔を見上げた。鋭い眼差しは文彦を見据えていて、その奥には、不思議と水面のたゆたうような穏やかさと悲しみをひそめている。文彦は束の間、そのたゆたいに大きく包まれて、動けなかった。
やがて、唇だけで囁いた。
「淳史は……謝ってばかりだよ」
「誰かが謝らないと、済まない気がする」
「誰に?」
「文彦に」
「……」
文彦は、何も答えられずに、何度か瞳を瞬いた。
「可笑しな人だ」
「そうかもな」
淳史は安心させたいかのように、ふっと笑って、文彦の肩をゆっくりと撫でた。
淳史が慌ただしく用意をするのを、文彦は広々とした白いベッドの上で、ぼんやりと眺めていた。
シャワーを済ませた淳史は、スタンドカラーのシャツに黒いジャケットに着替えている。
しばらく出かけていたが、両手に荷物を提げて帰ってきて、キッチンやリビングで忙しそうな音が鳴っている。
(出かけるにも、用意が大変そうだな……)
文彦はうつらうつらと目覚めて、少ないワードローブから服を引き抜き、そのあたりの荷物をつかんでふらりと部屋を出ていくだけだ。
「俺は今から仕事に行ってくるから。帰るのは明日の夜だな――まあ、好きにやっておいてくれ。どうしてるんだか心配だが」
「最後は余計だ」
憮然として言う文彦に、淳史は苦笑して続ける。
「仕方ないだろう? これが、部屋のキー」
ベッドサイドに几帳面に一つずつコトンと並べて置いていく。
「照明と、オーディオのリモコン。テレビはリビングにあるから。あと、リビングの本棚にある本は好きにどれでも読んでいい。食料はさっき買ってきて冷蔵庫にしまったから、腹がすいたらどれでも食べてくれ」
「ああ、それで……」
淳史が部屋を出たり入ったりしていたのは、自分のためだったのかもしれないと、文彦はようやく気付いた。
「それから、もし買い物に行くならカードを」
淳史はキーやリモコンの横に並べて置いた。
「え? いや、そんなのは」
「持ち合わせがなくて不便だろう?何か急に要るものもあるかもしれないし」
「いや、少しはあるよ……」
小銭程度が財布に残っているのを、文彦は思い浮かべた。淳史はその言葉には反応せずに、時計を見ると急いで紙袋に手を伸ばした。
「あと、着替えと。俺のはサイズが違うだろう?」
「え?」
紙袋から淳史が取り出して、文彦へと差し出したのは、二セットの服の上下だった。明るい空色のニットにベージュのズボン、もう片方は、鮮やかなボルドーの厚地のシャツに紺色の細身のズボン。
「身長からすると、これで合うと思う」
「俺……こんな色、着ない……」
様々な色合いの服を手渡されて、文彦は所在なさ気にわずかに身じろいだ。
「そうか? きっと似合う――ほら」
淳史は静かに笑いながら、文彦の肩に空色のニットをあてた。
「とても、似合ってる」
その先を続けようとして、淳史は唇を止めた。眉をよせて、やや困惑した文彦の表情に、明るい色合いの服がやさしく映えている。栗色の髪と相まって、何処か遠い国のポートレートのようで、午前中の時間にやわらかく留まった雰囲気に、淳史はしばらく言葉を忘れた。
「……ありがとう」
ちいさく呟くと、文彦は受け取った服を横に置いて、ふっと気付いて淳史を見上げた。
「キーとかカードとか、大丈夫? 簡単に渡して。悪用されるかもしれないのに。しまっておいたほうが良いよ」
「文彦は、そんなことをする人間じゃないさ。ああそう、だいたいそんなすぐ足がつくことをするほど馬鹿でもないだろう?」
「……」
淳史は黙りこくった文彦を見て、可笑しそうに笑うとベッドの傍らから静かに離れた。
「じゃあ、行ってくるから。何か急変があったら電話を――それから」
「ああ、うん、もう大丈夫。悪いけど、部屋に居させてもらうね」
「ああ。じゃあ、また明日。行ってくる」
部屋から立ち去り際、一度だけ微笑んで手を上げた淳史の長身を見上げて、文彦はぼんやりと見送った。いってらっしゃいの言葉も思い浮かばない文彦の心は、ただガチャリと淳史の出て行くドアの音だけを聴いていた。
文彦はしばらく何もせずに、しん、と静かになった淳史の部屋で、一人ベッドに座っていた。
先ほどまでの淳史の生活音は失われて、冷蔵庫のモーターの音や、外からの雑音が文彦の耳へと入ってくる。
文彦はふと思い出して、淳史がベッドサイドへと並べていたスマホを手にした。タップして一つの名前を探す。電話をすると、相手はほどなくして通話に出た。
「竜野さん?」
「あぁ、文彦か。なんや声おかしいな。風邪?」
「ああ――そうじゃないけど。ちょっと手を怪我して」
「ええ? 大丈夫なんかいな?」
「まあ、一週間くらいで大丈夫になりそう」
「そうか――今、家におるんか?不便やろ?何か持っていこか?」
「あ、いや。ううん。大丈夫」
「なんで? また何も食べんと寝てんねやろ?」
「そうでもない――あの、人の家にいて」
「人の家ぇ? 文彦が?」
竜野は驚きを隠さずに、素っ頓狂な声を出した。
「えーっと、ああ。あの、そうか。武藤さん?」
「まさか、そうじゃなくて――萩尾淳史の、家に」
「……」
「ちょっと色々あって」
「色々って、大丈夫なんかいな?」
「あ、うん」
「そうか――まあ、誰かのところに居るんやったらええわ。どっかで野垂れ死にされたら困るから」
「すごい言われようだな」
「本気やで。なあ、文彦は、この先はどうするつもりなん?」
「どう、って……」
「ずっとうちの店にいてくれんのは嬉しいけど、もう昔とは違う。律儀におらんでも、行きたい方向へ飛んでいってもいいと思うで」
「俺は――このまま音楽ができれば、何でも良いよ……たとえスポットライトがあっても、なくても」
「まあ、具合の悪い時にする話とちゃうな。俺はそう思ってる、っていうだけの話やねん」
「うん、ありがとう」
ほどなくして通話は切れて、文彦は静かな部屋にまた一人になった。
力を失ったように、どさりとベッドへと体を倒すと、天井を大きな瞳でじっと見上げている。
文彦の鼻先をウッディな香りがかすめていき、その思いがけない心地よさに、ゆっくりと瞼を下ろしていった。
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