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第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)4

 機械的にくり返しスプーンを口へと運んでいたが、途中で、文彦の胸がぐっと詰まった。  同時に咽喉が締まって、激しく咳込んだ。そこからは、もうスプーンを先へと運ぶことはできなくなっていた。 「ごめん――美味しかった、ありがとう」  美味しいかどうかはわからなかったが、文彦はやんわりと笑顔を取り繕って、淳史へと囁いた。淳史が何か口をひらこうとしたが、それより先に、文彦が一足早く椅子から立ち上がった。  皿をキッチンへと運ぶこともしないまま、急いで廊下へと足早に去っていく。文彦の背中を見つめて、淳史は口にしていたグラスをテーブルへと置いた。  文彦は慌ててトイレへと入ると、バタンと後ろ手に鍵を閉めた。  そのまま身を折って、真っ白な便座に手をついて、ぐうっと咽喉を鳴らした。今しがた食べたものを吐いて、文彦はてのひらで咽喉を押さえた。嘔吐しきった後、文彦はふるえる手でペーパーをつかんで、何度も唇をぬぐった。 「ふ……」  何度も呼吸して、嘔吐感に耐える。  ずっと食べられなかったオムライスは、初めて口にして味などまったくわからないし、むしろ苦しみを呼び起こした。はあはあと乱れた息を整えようと、文彦は頭を振った。  水を流し、手を洗い、完全に落ち着いてから、トイレのドアを開けた。  外へ出ると、背の高い淳史の姿がドアのすぐ横に立っていて、文彦は青白い顔でビクッと立ち止まった。 「あ……占領してた? ごめん」  軽く肩をすくめ、うっすらと笑う。  すぐ横をすり抜けるように行こうとするのへ、淳史は後ろから静かに声をかけた。 「食べられ……ないのか?」 「何、が?」  ぎこちなく振り向いた文彦の、こわばった顔。てのひらをひらいては握り、淳史はやがて息を吐いた。 「いや――何でもない。ちょっと、こっちへ」  手招きする淳史に、文彦はためらっていたが、廊下にあるうちの一つの扉がひらかれて、視線を上げた。淳史は文彦がやって来るだろうと疑っていないのか、さっさと部屋に入っていってしまう。 「淳史、何?」  文彦は気が乗らないまま、重厚なドアの向こうへと入っていった。 「あ……」  そこにあったのはグランドピアノ、それから管楽器、スコア代、白い壁際に並んだ機器と、楽譜の羅列。部屋はまるごと防音室になっていて、淳史は並んだ楽器のケースのうちの一つを開けた。  壁際の簡易な椅子に座るように文彦を促して、淳史は表情を浮かべない端正な面差しで距離を取る。文彦のすぐ前のデスクには、書きかけのスコア、パソコン、資料などが積まれている。  淳史は厳しい顔つきになって、ポジションを取る。  楽器は、銀色に美しくきらめく、フルート。よく磨かれた繊細な輝きを手にし、すらりと立った長身は、ルネサンスの彫像のように見えた。  サティの「最後から二番目の思想」を、ジャージィにアレンジを加えて吹き出す。サティとジャン・コクトーの出会った年に作られた曲は、勝手気ままで摩訶不思議なメロディを残したまま、かろやかにスウィングしていく。  文彦はふと、壁の高いところに、色彩の線で描かれたジャン・コクトーのオルフェのポスターが貼られてあることに気付いた。  文彦はその絵と音に囲まれて、ふいと体が浮いたように、鮮やかに異国の空気の中へと落とされていくのを感じた。抵抗せずに瞳を閉じて、身を委ねると、全身の力が抜けていく。  技巧は精緻で確かだったが、文彦が以前に聴いた、追い詰めてしまいそうなほど頭脳派の鋭角さや、激しい振動はなりをひそめて、ただサティの世界観を壊してしまわずに音はつむがれ漂っていく。 「これ、いいな……」  演奏が終わってしまった後も、文彦はしばらく抜け出ることができずに、ゆるやかに意識は浮遊していた。無意識に指先は動き、唇はリズムと同じ呼吸をしている。 「早く弾きたいだろう?」 「ん……」  朧気に応える文彦に、淳史は思いがけないほどやさしい眼差しを向けた。 「そうだな、『グノシェンヌ第二番』とか……」  脳内では音が続いているのだろう、文彦はふわりと微笑して、囁いた。 「文彦の手が治ったら、ここを好きに使ったらいい」 「ピアノ――ピアノも弾くの? 淳史は」  突然にパチリと瞳を見開いたかと思うと、文彦ははっきりとした口調で尋ねた。 「一応、音大出身なもので」  淳史は皮肉そうに片眉を吊り上げて笑いながら答えたが、それだけが理由なわけでもない。だが淳史はその言葉だけで済ませてしまい、それ以上は何も言わなかった。  文彦の顔は生気を取り戻して、そばにあったスコアを指でなぞっている。  ふと、スコアの下敷きになって、オレンジ色のファイルがひらかれたままになっていることに気付き、文彦を視線を落とした。 「あ、綺麗」 「え?」 「たくさん写真――淳史は、このモデルのファン?」  文彦がひらいたオレンジ色のファイルには、綺麗に切り取られた雑誌のページが並んでいる。几帳面にファイリングされているのは、亜麻色に染めた長い髪を美しく流し、くっきりとした切れ長の瞳が神秘的な、すらりとした手足をした女性モデルの、数多くの写真。 「ネフェルティティ――って感じ。神秘的だな、特にこれとか」  パラパラとほそい指でめくっていったうちの一つの写真で止まり、指さす。  そこにあるのは、白黒のモノトーンの服を着こなして、椅子に浅く腰かけ、脱力しているような何かを諦めたかのような物憂い姿。アーティスティックであるのに、エロティシズムをひそめていて、女性の眼差しは自分だけを見ている錯覚に陥ってしまう。 「あ、うん? これだけ全然ちがう。これが一番いい」  文彦は最後のほうにあるページを見つめた。 そこには、肩より少し長い黒髪を風にたなびかせ、緑の木々の中で遊ぶように白いドレスの裾ひるがえし、幹に指先をかけて、やわらかな素足で弾む姿が写っている。活き活きとした笑顔の、真珠のような白い歯と、ピンクに染められた頬はうら若い少女で、同じ顔をしているのに印象はまったく違っている。それだけは雑誌の切り抜きではなく、一枚のフォトだった。 「妖精みたい」 「そんな、いいもんじゃない」  淳史は、苦虫を噛み潰したような顔で、低い声で呟いた。 「妹」 「えっ?」 「俺の、妹だ。萩尾ナツ――ってどこかのページに載ってるだろう?」 「え? そう? 気付かなかった」  文彦は急いでページをめくって、はたと手を止めた。 「え、妹?」 「そうだ。最後のそれは確か、高校の時に、ナツの友人のみどりが撮ったやつだ。映像関係にいきたいとは言っていたが、モデルになるとは思わなかった」 「あ、まあ、淳史の妹なら――美人だよね。でも、すごく雰囲気がある――背も高くて、手足が長くて。エキゾチックさもある」 「また本人に伝えとく」 「えっ、もうそんな誉め言葉は、きっと言われ慣れてるでしょ。そうか、淳史はお兄ちゃんだったのか。なるほど、お兄ちゃん、ね」  文彦が意外そうにいつまでも笑うのへ、淳史は難しい顔をしてフルートを置いた。 「そんないいもんじゃないぞ」 「そうなの?」 「とんでもないはねっかえりの、我儘娘だぞ。どれだけ俺が振り回されてきたか。両親とも忙しかったから、可哀想さもあって、言うことは聞いてきたけど――俺でないと耐えられないぞ」 「ええ、意外だ」 「市販のお菓子が不味いから、パンケーキ作れとか。部屋が汚れているのが耐えられないとか。出来立ての米じゃないと口に合わないとか。買い物に付き合え、アイロンをかけて欲しい。出来合いのご飯は飽きるし、お洒落なメニューを作って欲しいとか」 「まさかそれ、全部やってあげたわけ?」  文彦は呆れ気味に言って、笑いながらファイリングされたいくつもの記事を、指先でなぞっていく。そこには、振り返り、歩き、両手を広げ、ソファーにしなだれ、いくつもの流麗な萩尾ナツの姿が幻惑の万華鏡のように並んでいる。  文彦は想像した。まだずっと年若い淳史が、この美しい妹の破天荒なお願いも聞き入れて、端正な顔に苦々しい表情を浮かべながらでも構い続けている姿を。今こうして、文彦にも向けている気遣いやこまやかさのすべてを、妹に注いでいたのではないかと思った。  文彦への態度でも、どこか世話をしなれている感じが確かにあった。 「可愛いんだね」 「まさか」 「結局、全部言うこと聞いてあげたんだろう? それで、この淳史が出来上がったわけか――それはあれだ、仲が良いっていうんだよ。こんなにファイルしてるのに」  文彦は声を上げて笑って、ファイルとゆっくりと閉じた。 「これ、大事なものだね」  デスクの上のものを避けて、閉じたファイルをそっと置く。 「ありがとう」  文彦は長い睫毛を伏せてそう言うと、楽器の並んだ防音室から背を向けて出て行った。  淳史はその背中を追うように、長らく文彦の出て行った扉を見つめていた。

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