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第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)5
また淳史のいない一日を、文彦はほとんどソファーで過ごした。時間はほとんど意味をなさず、文彦のまわりをとろとろと過ぎていく。
本を手にしたまま、いつしか眠って、短い睡眠から目覚める。ふらりと部屋を横切ってみては、防音室の楽器を眺め、置き放しのスコアを手に取ってみる。
しんとした真夜中にソファーで寝入って、目覚めるとリビングの白いカーテン越しに、朝日はくるくると円舞して部屋へと射し込んでいた。文彦は体に薄い毛布がかかっていることに気付いて、不思議そうにそれを手にした。
文彦の鼻先を、あたたかな匂いがかすめていって、キッチンから鳴る規則的な音に、ふと瞳をひらく。
「おはよう」
かけられた言葉に驚いて、文彦は半ばまどろんだ頭で、今は淳史の部屋で過ごしているのを思い出した。
「淳史――帰ってた?」
「ああ。昨晩に帰って来た時には、文彦は寝てたよ。よく寝れたか?」
そういえば、これほど長く眠ったのも、淳史が帰宅しても気付かないほど熟睡したのも、久しぶりなことに文彦は気付いた。
「またソファーで寝てたんだな。体が痛くないか?」
「別に……久しぶりによく寝れた」
「まあ、それならいい。今日は食べたらすぐ出ようか?」
「え……」
文彦は、淳史が今日休みで出かけようと話していたことを、ようやく思い出した。
「あ、うん。わかった」
文彦は忘れていたことを隠すように、慌ててテーブルへと座った。そこはすでに朝食がセッティングされていて、文彦が席についたのを見て、淳史は黒くきらめく液体の揺れるコーヒーカップを滑らすように置いた。
「いただき、ます」
そこまで言って、文彦は止まってしまった。今までの一人ずつの皿に料理を盛っていたスタイルではなく、文彦の前には空の白い皿が置かれていて、テーブルの真ん中に食事が盛られた食器がいくつか置かれている。
籐籠にナフキンを敷いて盛り上げられたパン、オレンジ色のドレッシングとフライドオニオンのかかったグリーンサラダ、くるりと巻かれたハムに、切り分けられたチーズ、うすくスライスされた林檎の白い果肉。
「食べられる量だけ取ったらいい。今まで、全部多かったんだろう?」
「多かった、っていうか……」
文彦はどう答えるべきか困惑して、瞳を伏せた。
「好きなものだけ取ったらいい。パンは食べられるんだろう?」
「好き……な……」
文彦はカトラリーを渡されたまま、握りしめていつまでも動かない。
「普通の、人は、どれくらい食べられるんだろう……どれが、美味しいんだろう……」
しん、と落ちた沈黙に、文彦は自分がまずいことを言ってしまったことに気付いて、ハッと顔を上げた。慌てた拍子に、カラン、とフォークを皿の上に取り落とした。
「ごめん。俺は、また、変なことを……」
急いで盛られたパンから一つを取ろうとして、どれを選ぶべきなのか、指先は止まった。向かい側に人がいる食卓で続く逡巡に、文彦は苦痛になって、顔を歪めた。呼吸が乱れて、てのひらが咽喉をつかみ、文彦は立ち上がろうとした。
「これくらいから、始めたらどうだ?」
淳史はパンの中から、こんがりと焼かれたシンプルなロールパンを取って半分にちぎり、静かに文彦の皿へと置いた。その横にハムを一切れ、サラダを器用に少しだけ盛り付ける。
「食べられそうなら、また取ったらいい。食べられなければ、置いておいたらいい。コーヒーにミルクを入れようか?」
淳史は話題を変えて、ミルクのゆらめくピッチャーを手にした。
「……うん」
文彦はテーブルを見つめると、思い直して座り、黒いコーヒーに純白のミルクが入って、どちらの色でもなく混ざりあって色が移り変わっていくのを見つめた。
片手でパンとつかむと、白い歯でちいさく噛みちぎり、咀嚼する。その文彦の姿を横目で見て、淳史は安堵したように食事に手をつけ始めた。
「体は、どうだ?」
「うん、大丈夫。見た目のインパクトほどのダメージはなかったと思うよ。歩くのは問題ないし、もう指も動きそう。後は、戻していかないとね。これだけ弾いていないと、大変だ。怪我もあったからちょっと感覚鈍ってるだろうし」
「そうだな。防音室はいつでも使っていい。今日か明日あたり、出来そうならピアノを弾いて、少しずつやっていくべきかもしれないな」
「うん、だから、もう自分の家に戻るね。長い間、どうもありがとう」
「……」
淳史はフォークを置くと、押し黙った。
文彦はパンを口に押し込み、飲み込みづらそうにいつまでも噛んでいる。淳史の表情の変化に気付かずに、最後にはコーヒーと一緒にごくりと飲み込んだ。
白い車はゆっくりとGをかけながら、海沿いの道路を加速していく。
何処か行きたいところはないかと訊いた淳史に、文彦はあまり人がいないところ、と答えた。車窓からは、海岸に沿って伸びていく線路の向こうに、午前の海が広がって、文彦は助手席で身を起こして眺めている。
出かける直前まで、着るのを渋っていた空色のニットとベージュのズボンをまとって、文彦は明るい色に包まれている。
「海……ここらへんは綺麗な海だね。あっちは砂浜かな」
「あの砂浜はずいぶん昔に泳ぎにきたな」
「へえ……俺は海で泳いだことないな」
淳史はしばらくして、海沿いの駐車場で車を停めた。それから、助手席のシートに身を沈めている姿をしげしげと眺めた。
「やっぱり、よく似合ってる。髪の色と、目の色と、こういう色も似合う」
「何?」
「服が。こういううすい色の服も、顔が明るくなっていい」
平日の昼下がりというスーツを着た人々が働いている時間に、空色のニットの文彦と、白と紺のツートーンの服をまとった淳史と、人気のない寒い海近くにとどまっている。
「すごく、綺麗だ」
ぽつりと呟いた淳史の言葉に、車内は音を失くして静かになり、空気が止まる。
「はは、いい歳の男が男に向かって言うセリフでもないね」
文彦はくるりと瞳を回すと、軽く肩をすくめて笑った。
「まあ、ありがとう。俺は似合ってないとは思うけど。淳史は、そうだな。いつでも、格好良いよ」
半ば冗談じみて投げた言葉だったが、淳史は唇をひらいたまま生真面目な眼差しで真正面からじっと見つめていて、文彦もつられて静かになった。
駐車場で停まった車の中で、淳史が助手席のほうへと身を近づけようとした時、文彦は窓からの景色に目を奪われて、呟いた。
「水族館……」
文彦は惹きつけられて、ガチャリと車のドアを開けて、ふらりと降り立った。
昼の日差しに透けるうすい白さの重なった雲、右手にはぐるりと建物や壁があって水族館になり、木々の向こうにミニ遊園地が見えている。車から降りれば、水族館のテーマソングや小さな遊園地の音楽が聴こえてきた。
国道の向こうには高いマンション、飲食店、左手には駐車場を出た先から砂浜となっていて、その先には波打ち際が見えている。
風の抜ける街に潮の匂いが満ちている。それは懐かしいような、切ないような幼い記憶を呼び覚ます。
「水族館に入りたいか?」
いつの間にか車から降りた淳史の長身が、文彦の隣で地面に影を並べた。
「ううん。砂浜に行きたい」
文彦は引かれるように、無心に歩き出した。
「文彦」
休日には家族連れで賑わうだろう場所は、平日の午前、さらに寒い季節に人はまばらで、砂浜には誰も人影はない。
振り返らない背中に追いついて、淳史はうすい肩にバサリとコートをかけた。足早に歩いていく後ろでは、メリーゴーラウンドの回る音、イルカショーの楽し気なアナウンス、遠くにかすかに幼子の歓声などがないまぜになっている。
「小学生の時に」
「うん?」
文彦はアスファルトからスロープを降りて、砂浜へとためらいもなく歩いていき、どんどんと進んでいってしまう。
「行き損なった」
「水族館に? 風邪でも?」
靴の中へと白砂がさらさらと入っていくのも気に留めず、波をしか見ていない文彦の言葉を、淳史はすくいとり、正確に返した。
「ペットボトルに水を詰めて、おにぎりを買ったんだけどね。なんだか、朝になって遠足に行けなかったんだ――リュックもあったのに。どうしてだろうね」
文彦は何かを振り切るように、突然に靴も靴下も脱ぎ棄てた。
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