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第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)6

「文彦、風邪ひくぞ!」  淳史が止める間もなく、文彦は砂浜を駆けていった。びゅう、と強い潮風――文彦の栗色の髪を巻き込んで乱し、水族館や乗り物の音をも乱していく。  文彦は両手で強く耳を覆い、波打ち際を駆けていく。寄せては返す波の、白く泡立つ行方を追うように。 「サッカーが好きだったな。チームに入ってみたかった」  軽々とした足取りで砂浜を走って行く姿は、見えない幻影のボールを追いかけているようで、果てしない。足取りは砂浜の上で軽く、走りは速く、空の水色と、海のこまやかな輝きと、文彦のニットの空色と――すべては明るい光の下できらめいている。  文彦はふっと立ち止まり、遠く光走る水平線を見た。 「また、つまんない話だな。俺に、あんまり話させないで。つまんない話しかないんだ」  くすん、と笑った文彦の、悲しげな白い横顔。 「ねえ、淳史は何が好きだった?」 「俺は――」  言いかけて、淳史は唇を止めた。目の前の文彦の消えてしまいそうな佇まいに目を奪われて、答えは出てこなかった。いつか、何処かへ高く飛び立っていきそうな、白い鳥。いつか、ふらりと消えて、根のない草花のように流れていきそうな姿。  文彦の問いには答えずに、淳史はまったく違うことを言った。 「もし、文彦が俺の家に生まれていたらどうだったんだろうな」 「え、何?」  吹き過ぎていく強い海風に、淳史の声はまぎれて、文彦は聞き返した。 「やっぱりピアノはしたんだろうな――三歳でクラシックから初めて、そのままクラシックに進んだかもしれない。留学して、どこかの音大に行って――その前に発表会は、小さい頃は膝丈のズボンの黒いスーツで。何歳でリサイタルホールに出たんだろう」 「何?どんな想像?」  文彦は軽く笑いながら、淳史のそばに寄り添った。 「きっと我儘なちいさな王子様になって、皆その外見に騙されて甘やかすんだろうな。それを見て笑ってるくらい性格が悪い」 「何それ? 全然褒めてないよ。けなしてるよね」  可笑しそうに声を上げて笑い、踵で弾んで砂を蹴る。 「音楽に頑固で譲らなくて、皆ご機嫌取りに振り回されるんだ。そのうち文彦の綺麗さも話題になって取材がきて――」  淳史は話しながら、知らずのうちに、涙があふれて落ちていった。 「どう……したの」  文彦は驚いて、淳史へと冷たい素足のまま、さらに近付いた。 「わからない――自分でも」  淳史は指先で涙に触れて、その指を見つめた。 「寒い」  今さら気付いて、文彦は濡れた足やズボンの裾に視線を落とした。冷えてかじかんだ足、重くなった裾、茶色い砂に覆われて汚れた足指。 「文彦」  淳史はゆっくりと文彦の肩へと腕を回し、体をあたためるようにそっと抱きしめた。文彦は触れられた箇所からひどく熱く感じられて、その感触に驚いて淳史を見上げた。  戸惑うように揺らめいて、ただ淳史を見上げている物憂い大きな瞳。悲しみと、老成と、絶望と、激しい鼓動をひそめて、ここで生きている。  淳史は、息を止めた。 「文彦が、好きだ」  淳史の唇からこぼれ落ちた言葉は、白い砂へと落ちていって、そのまま吸い込まれた。  文彦は、時間が止まってしまったかのように、動かなくなった。わけのわからない衝撃に打たれて、よろめいた。 「ああ……あれだ――同情?」  かすれた声で文彦は呟き、唇だけで微笑する。 「人のね、あまり楽しくもない過去を知ると、その人すべてを知った気になるよね。でも、俺だよ? 別に俺を好きにならなくても、淳史ならほかにふさわしい相手が、いっぱいいるよ。そして、ちゃんと好きになってもらえる。止めたほうがいいよ。俺じゃ、ないよ」  軽く肩をすくめて、文彦は逃げるように淳史の腕から離れようとした。淳史は、その肩に顔をうずめ、強く抱きしめた。文彦はパチリと電流が走ったようになって、身を硬くした。 「逃げないでくれ。文彦までも、俺の隣から……」  哀願でさえあったかもしれない。それはすぐに日差しに溶けた。 「淳、史……」 「このまま一緒にいたら、気持ちを止められない。友人でいても、文彦が近くにいたら、好きでいつづけてしまう。それはきっと、文彦の話を聞く前から。そして、聞いても変わらなかった。文彦の音も、文彦自身も、俺には必要で――好きだ」  広い海を、駆け抜けていくデイライト――きらめいて、くるめいて、淳史の涙となって、熱く光っていく。 「こうして触れれば、自分が止められないくらい。他の誰をも考えられない。どうやったら伝えられる? どうやったら文彦に言葉が届く?」  畳みかけるような問いに、文彦は何も答えられないでいた。 「淳史、は……」  そういえば、淳史はずっと文彦に問いを投げていたことに、今さらながら文彦は気付いた。  出会った最初に枕なのかと尋ねてきた時から、リングについても、食べ物の好みも、過の噂にも、武藤の関係にも、文彦に質問を何度もくり返していた。 ふとした拍子に文彦に向かって、嫌じゃないか? とうかがうように確かめて。 「俺じゃない誰かが心にいるのは、わかっている」  淳史は文彦の肩に顔をうずめたまま、苦し気に浅い呼吸をしている。そうして、ほとんど独り言のように呟いた。 「それでも、俺には少しでも可能性がないんだろうか――文彦は、少しでも、俺のことを好きじゃないんだろうか……俺のことは、嫌なんだろうか……ただ、そばにいて欲しい。この手を離すのが怖い――すぐに何処かへ去ってしまいそうで」 「淳史……」 「ミチルを壊してしまったのは俺だ。俺は、時に人に恐れられてしまう――文彦も、俺を嫌だろうか……」  文彦はフェスで初めて目にした時の、淳史の冷たく鋭い両眼を思い出した。淳史の中にある孤高さが、文彦の中へとなだれ込んできて、胸を締め付けた。 「嫌じゃない、よ」  言ってしまってから、胸に受けたやわらなか衝撃に、文彦は自分で驚いた。淳史といたしばらくの生活、こまやかな気遣い、淳史が鳴らしていた音楽、どれも心地よく、文彦の心に穏やかに溜まっている。  ミチルを探しに行くのに連れ立った時から、淳史の言動と心の清廉さを感じていたから、淳史の問いに答えてしまっていたのだと、文彦は気付いた。  これまでの人生で、真正面から問われたこともなかったこと――それゆえに、答えたことも話したこともなかったことを。その問いに真意がなければ、文彦も恐らく答えなかっただろう。 「だって、あんな、こと――淳史にしか、話してない。淳史があんなことを訊いて、心がスリップしたからだけど、でも……」  共に過ごす時間の中での無償の献身さに、気付かぬうちに信じていたのだ。 「文彦……本当に?」  淳史は、文彦の冷たい頬をそっと両手で包み、切れ長の眼で真正面から見つめた。その眼差しは熱く、目元にはうっすらと涙が浮かんでいる。  自分の一言だけで、淳史の心にこれほどの影響を及ぼしたことに、文彦は信じられずに衝撃を受けた。  恐らく人から理解され難い淳史の心と音楽を、文彦は垣間見て、そのやわらかな胸のうちの真ん中に今、立っている。  それを感じて、文彦は指先ひとつ上げることができなくなった。 「俺が近付いたから、文彦の心を乱してしまった、また。俺は、人を乱してしまう」  そう低く呟いた声色に、文彦はまた淳史が持っている人生の業を感じた。  淳史の持っている音楽もオーラも、時に雷鳴のように強過ぎるのだ――淳史の内面に関わらず、外へと噴出する力は雪崩れをうって押し流してしまう。 「淳史――今井ミチル、だけじゃないんだろう?」  言い放ってから、文彦は自分の言葉の重みに、ハッとした。 (淳史と演ってきて――ついてこれなかったのは。壊れてしまったのも)  いつしかの淳史の言葉がよみがえる。 (俺がすべての元凶だ) (俺がいられなくする)  淳史もまた一つの運命を背負い、弾かれ、嵐のただ中に立っている。  この場所に至るまでの階段を、一人きりで、確実に一歩ずつ重荷を背負って登りながら。華やかで、冷たく、傲岸に見えて、文彦へと語りかけた音楽とこまやかな気遣いが淳史の内面なのだと、文彦はもう知っている。  淳史の心は、今、開け放しで文彦の前にあった。 「文彦」  溺れたものがすがるように、淳史は両手で何度も文彦の頬を撫でた。大切な宝物に触れるように繊細な手つきで、さすっている。その指先がひどく熱いもののように感じられて、文彦は戸惑った。 「淳史のせいじゃ、ない」  そうして、文彦を見つめる、仄暗さをひそめながら今にも落ちていきそうな眼差し。まなじりの切れ上がった眼のふちに、かすかに血のいろをのぼらせて、常でない光を凝っと湛えている。 「淳史のせいじゃないよ。俺のことも。俺は、大丈夫――」  文彦は我知らず、おののいた。文彦自身にも名付け難い感情がこみ上げた。 「俺は、そんなヤワじゃないし……」  果てのない孤独――人それぞれに背負う色は違えど。それがからまり合い、もつれて、巡り合うはずのない混色になっていく。  目の前がぐるりと回転するように眩暈がし、淳史の魂の深淵が烈しく渦巻いて、文彦の心を押し流すようだった。 (俺が、いれば、淳史は束の間でも救われるんだろうか……)  それはあまりに思い上がりだという気がして、文彦は恐れた。  いつまでも続く波の音。永劫に寄せては引いて、くり返していく泡立つ白い飛沫。  寒さにふるえた体は砂浜に足を取られてよろめき、淳史がすくい取るように両腕で支えた。  触れ合う箇所から熱が伝わって、それはひどく至純な微熱のようで、思わず互いに顔を見合わせた。長い指が栗色のゆるやかな髪をほどくように梳いて、丁寧に整えていく。 「文彦の髪に触ると愛しくなる……この頬も、指も、瞳も大切で、好きになっていた……」  髪から首筋へ、そして頬へと指先は、迷うように探すように触れていき、やがて顎にゆるやかに触れて止まった。  淳史の両眼は、すべての景色の中で文彦だけを見つめていて、摯実なほどに熱を帯びている。追い詰められたいろをして、今にも壊れそうな繊細な光彩で。  ゆっくりと淳史の顔が降りてゆき、文彦の唇にかすかな吐息がかかる。  文彦のすぐ間近で淳史の黒い眼は瞬き、窺うように見据えている。文彦はその真っ直ぐな視線に捉えられて動けずに、鼓動を押さえようと睫毛を下ろした。  唇に、やわらかな感触がわずかに触れて、チリッとした熱さに文彦は驚いた。淳史が首を傾けて唇をよせて、文彦の頬を首筋をてのひらで包んでいく。 (な、ぜ……)  文彦は拒めなかった。  それは静かで密やかな、長いくちづけだった。  唇と唇で触れあい、その存在を確かめるためだけの、やわらかな訪い。  安らかで、静謐な、その時間は長かった。  壊れものでも扱うように、淳史は音もなくそっと唇を離して、文彦の白い頬にかかった髪を指先で耳へとかけて梳いていく。  淳史を見上げた文彦の、唇に残像のように残った熱さに戸惑って、弱々しく濡れた縹いろの瞳。  淳史は、文彦を静かに引き寄せると、その首筋に顔をうずめた。淳史の頬を、一筋、白い涙がつたっていって、ぽたりと文彦の首へと落ちた。  静かに碧い水平線が、雲のかかっている薄いブルーの空を分断している。  遠くには太陽の車輪が回っていて、光のきらめきは何処までも海の上へと走って輝いていた。  

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