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第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)7

 ぶらぶらと靴をぶら下げながら、文彦は車へと帰った。  いつもの足取りではなく、ぺたりぺたりとうつむいて歩いている。素足にアスファルトは硬かったが、動揺にゆさぶられた心はそれも気にならなかった。  車のドアを開け放して、助手席へと腰かけて靴を置いた。淳史は、車の中から手早くブルーのタオルを取り出していて、文彦はそれを借りようかと顔を上げた。しかし、淳史はそれより前に文彦の前に屈んで、文彦の砂まみれの足を手に取った。 「あっ」 「何? 痛かったか?」 「違う。汚いよ。自分でする」 「うん。もう拭き終わる」  文彦は足を引っ込めようとしたが、激しい動揺にぎこちなく身をすくませた。淳史は白い足をつかんだまま、タオルでやさしく包んで手早く拭き上げた。 「ほら、綺麗だ」  淳史の長い指が、最後に文彦の足をなぞっていく。  目の前には、見たこともないような淳史のやさしい眼差しがあって、ただ文彦を見つめて静かに微笑んでいる。 「……」  文彦は顔を赤らめて、パッと足を引っ込めると、乱雑に靴下を履いて急いで足を靴へと押し込んだ。 (どうしたんだ、俺は……)  ゆるやかに発車した車内で、文彦はぎゅっと両手を握り合わせた。戸惑いと、不安と、おののきと、ない交ぜになって、心を乱して唇の感覚を乱していく。  文彦は、横目で淳史の端正な横顔をとらえた。ハンドルにまわされた指、伸ばされた腕、そして改めて初めて見たような淳史の顔。 (俺は、淳史に、何かしてあげられるんだろうか……)  もしも、今もなお自分が生きていることに意味があるのなら。  ふっと兆した思いに、文彦は名をつけることができずに、瞳を閉ざした。  白い車は、ゆっくりと道路を走り抜けて、なかなか帰路にはつかなかった。淳史は運転しながら、思い馳せるように考え込んで無言で、文彦はフルバケットシートにおさまって両手を組んでいる。  すでに午後になって、景色は坂道と木々の中を抜けていく。  文彦には見慣れない景色で、ここが何処なのかももう定かではなかった。窓からは白い雲のたなびく山の端が見え、麓から山あいに向けて遠く小さくロープウエーのラインが見える。葉の上の天道虫のようなロープウェーが上下していくのを、文彦は目で追った。 「何か、飲もうか?」  淳史が気遣うように尋ねたのへ、文彦は少しうつむいた。 「まだ、何処かに行くの?」 「いや……別に。だって家に帰れば文彦は、もう……」 「何?」 「何でもない。あそこでいいだろう」  坂道を登っていった途中で乗馬クラブの看板を右手へと曲がり、木々の間からの木漏れ日のアーチをくぐって、車は白と緑の洋館の前で停車した。「Green」と掲げられた木製の看板の下にメニューがあって、それでようやくここがカフェなのだと判別できる。  淳史が躊躇なく重い木製のドアを開けて入っていくのへ、文彦は後を追った。  店内は円形になった窓側の、街の景色を一望できる席と、奥まって広くとってある席とに分かれている。 壁際にはスペイン絵画のような草花をあしらった織物をかけられたアップライトピアノがあって、ぐるりと鈍い金色の額縁に入った油絵が飾られている。  全体的に重い色調の店内には、窓側に女性客が一組いるだけで、がらんとしていた。  淳史はそちらではなく、入ってすぐ右側にある白いドアを開けた。そちらには三席の白いテーブルがあり、そこへと淳史は文彦を招き入れた。 「ここ、入っていいの?」 「まあ、俺はいつもここだから」 「よく来るんだ?」 「昔は」  ここの店主だろう白いシャツに黒いエプロンをまとった年配の男がやって来て、注文を取っていく。文彦は店内に漂う匂いにつられてコーヒーを頼み、淳史はいくつかメニューを注文した。 「何か腹に入れておいたほうがいい。もう昼も回ってる」 「なんていうか……採算の取れなさそうな店だね……」  店の奥からは豆を挽く音が聴こえてくる。淳史は眉をひょいと上げて皮肉そうに笑った。 「まあ、店長が変わり者だからな。もともと資産家だし、こだわりの道楽――といって、夜は夜景が綺麗だからまあまあ流行っているみたいだ」 「へえ……隠れ家みたい」  頬杖をついて笑った文彦に、淳史は和んだ表情で目を細めた。 「あの、乗馬クラブに」 「うん?」  淳史は格子窓から片隅に見える、乗馬クラブのほうを指さした。 「ナツが通いたいっていうから、送り迎えしてたんだ。もう十年も前だな。免許も取り立てで。馬具も揃えないといけないし、大変だったな。ナツを待っている間、この店にいたんだ」 「淳史も一緒に習えば良かったのに。似合いそう」  淳史は初めて思いついたように、驚いた表情で文彦を見た。それから、ふっと笑った。 「そうか。ナツと一緒にしても良かったんだな」 「そうだよ。淳史のほうが妹さんより先に究めてしまいそうだけど。淳史は器用だし、そういう突き詰める性格だろうし」 「それが……駄目なんだ」  横を向いた淳史の眼差しは、在りし日を思うようで遠かった。恐らく器用で人より抜きん出てきた淳史の、それゆえに孤高であった横顔。  何日かを淳史と生活を共にして文彦がわかったのは、その几帳面さと真面目さ、手を抜かないこと、だった。料理もしそうにない外見なのに、手先の器用さで難なくこなしていく。  文彦は想像するのだ。淳史がこうして人前に出す時にすでに出来上がっていることは、本当は人に見せない努力があったのだろうと。  妹に対しても恐らく無償の努力があったのだろうし、淳史と過ごしてみて音を思い返せば、その精緻さに至るまでのたゆみない努力は、人の想像を絶するものがあったろう。  淳史にとって努力する、最善を尽くすことは当然であり、それは文彦との時間にも向けられていた。無償の誠実さはこまやかで、近くに寄り添ってみて、初めてそれがわかったのだ。 (でも、遠巻きに見ている人間には、わからないだろう……人はただ淳史を羨んでしまうかもしれない)  文彦は、淳史の遠い眼差しを見て思った。  文彦自身にも向けられていた嫉妬、悪い噂、悪意はこれまでの淳史の人生にもあったかもしれない。その強さで撥ね退けたとしても。  毎日くり返し長時間を努力できること、それ自体がすでに才能であり、そこにセンスや感覚の高さと鋭さ、そして時代の流れが乗ってこないと世には出られない。すでに淳史はその世界へと一歩踏み出しているのであり、その厳しさの中へと身を投じている。 (それでも、淳史には、まだきっと先がある)  今、淳史が認められている技巧と頭脳派の怒涛のようなプレイだけではない――文彦に向かって鳴らした音楽は、文彦の心深くに不思議と残っている。 「本当のところはさ、突き詰めれば、人とわかち合えないのかもしれない」 「何?」  急に言い出した文彦に、淳史は我に返った。 「感じている感覚を。でも寄り添うことはできる。トークして、お互いが違うからこそ、そのかたちがわかる。淳史は、この先、どうなりたいの?」  それは、文彦自身が竜野に問われたことでもある。 「世界を見たい。高みに立ちたい」  はっきりと、迷いなく淳史は言った。 「文彦は?」 「さあ、野垂れ死ぬまで弾けたらいいな。どうしようもないくらい舞い上がって、もう駄目になるくらい何もかも忘れて。全然、違うね」  くすり、と文彦は笑って、軽く肩をすくめた。少しうつむいていたが、やがてふと気付いて淳史を見上げた。 「免許が十年前……えっと、淳史って何歳?」  文彦は初めて興味をもって、首を傾げて問うた。 「二十八歳。文彦と同い歳。文彦は三月生まれなんだろう? 俺は一月生まれだから年も一緒だ」 「え、どうして……」 「シルバーリングの内側に、月日が彫ってあった。だから、そうなんだろうと」  文彦の胸の素肌の上で、チャリンとチェーンとリングが擦れる音がした。文彦はすうと顔色を変えて、空色のニットの上から、てのひらでぎゅっと胸元を強く押さえた。  窓枠に置かれた花瓶には、午後の日差しに透けるうすい花びらの重なった淡黄の薔薇に、冷めたグリーンから赤茶をわずかに帯びてグラデーションしている葉。  その向こうに広がる街の景色もぼんやりと遠くなって、文彦は浅い呼吸をくり返した。  ふわりとコーヒーの深い香とともに、テーブルには料理がやって来て、二人の会話はそこで途切れた。  空は、過ぎていく風をまとって、何処までも青かった。

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