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第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)8
マゼンタに染まる薄暮も過ぎて藍色に夜に向かう時間に、二人はようやくマンションへと帰りついた。結局は夕飯も外で取って、空気は日中よりさらに冷たくなっている。
文彦はシャワーを借りて、ざっと洗い流した後、淳史の部屋へと運ばれてきた時に着ていた自分の服へと袖を通した。それも綺麗に畳まれていて、かすかにウッディな香がする。それが淳史自身の、そしてこの部屋の香なのだと、文彦は気付いた。
洗面所でドライヤーのスイッチをカチカチ入れてみて、ブーンと乾かしていく。栗色の髪は軽くはずんで、ゆるやかに頬へと落ちていく。
シャツとダークカラーのスーツのズボンをまとって、空色のニットを畳んで手に持ち、文彦はリビングへと歩いた。
「ありがとう。綺麗にしておいてくれて」
「ああ」
淳史はリビングのソファにもたれてぼんやりと座っていて、ゆっくりと文彦を振り返った。文彦の姿を見て、長く息を吐いた。
「疲れなかったか? 思うより、連れまわしてしまった」
「うん。それは大丈夫。ありがとう。この服はどうしようか? 俺のサイズだし――俺が持って帰って、またお金はちゃんと払うね」
「いいんだ。それは俺が、文彦に着て欲しかったものだから。プレゼント――今日、着てくれただけで、それだけでいい」
「そんなわけにもいかないでしょ。バーの酒代と、治療代と、服と、そうご飯もたくさん――」
「いいんだ。俺がしたくてしたことだから。文彦が、ここで過ごしてくれた。それだけで」
「いや、ちゃんと払うよ。どう――したの?」
いつになく長い脚を投げ出して座り、低い声で話す淳史へと、文彦は近寄った。
「たくさんありがとう。すごく助かった。ああ、そう。たぶんね、初めて――人と一緒に寝起きしたんだ。親とか……そういう立場の人じゃない人と。すごく不思議で、たぶんもう俺の人生にはない時間をありがとう。こんなに良くしてもらって……うん、不思議だった。魔法みたい料理ができて、いっぱいご馳走が並んで。俺、食器を置き放しだったから淳史が運んでくれてたんだよね。もしも、家族と暮らしたらこんな感じなのかなって……違うのかな? ごめん、俺、わからないんだ――」
文彦は少しはにかんで微笑し、長い睫毛を伏せた。
「俺、迷惑かけてただろ? ごめんね。淳史も忙しかったのに、たくさんしてくれて」
「文彦」
「きっと妹さんともこんな風に暮らしてたんだろうなって想像した。俺、あまりちゃんと生活してこなかったから、色々とわかってなくて――ごめんね。きっと、人と暮らすって色んなことわかっていないと駄目なんだよね」
「いいんだ、文彦がいてくれる、それだけで俺は――」
淳史は前のめりに座り直し、目の前に立つ文彦のほっそりした姿を見上げた。
「今日だって、本当は休みだった?」
「それは、ちゃんと予定をくり合わせて……」
「うん。休みを取るために仕事詰めたんだろう?」
微笑した文彦に、淳史は押し黙った。
「たぶん、俺はよくわかってなかったから、淳史に負担をかけてたんじゃないかな。ごめん――ううん、ずっとありがとう」
「どうして?」
「え?」
急に手をつかまれた熱さに、文彦はビクッと身をすくめた。驚きに手を引っ込めようとしたが、淳史は強い視線を文彦へと向けて放さなかった。
「どうして、もう、お別れみたいな……」
「……」
「好きだって言った。キスしたのは――あれは幻?」
「ううん」
「じゃあ……」
「俺が、淳史のそばにいたら、何かしてあげられるんだろうかって思った」
文彦は、つかまれた手の熱さにおののきながら、ゆっくりと呟いた。
「でも、淳史のそばにいても、俺は何かしてあげられるだけのものを持ってない。この手には何もない、音楽以外は」
その声は何かを諦めるのに慣れていて、深い諦念は心に根付いてしまっている。淳史はその物憂く大きな瞳を、悲し気に見つめた。
「文彦が何かをしてくれなくてもいい。迷惑にも、負担にもなってない。ただ愛しい……文彦だけが……」
淳史はそこから何も言えずに、混乱したように両手で顔を覆った。しばらく沈黙が落ち、やがて、食いしばった歯の間から抑えきれずに言葉を洩らした。
「苦しい」
「淳、史……」
「文彦がいないと、苦しい」
淳史は強い力で腕を引っ張り、ソファーの上へと巻き込むようにして文彦の体を抱き寄せた。
「せめて明日までここにいて欲しい。でも、その後も、俺のそばに――」
「淳史……」
抱きしめられて触れ合う肌から、押さえようのない淳史の熱さが雪崩れてきて、文彦は押し流されていくようだった。
「文彦、愛してる」
ふっと二人に静かな沈黙が落ちた。
淳史はかすかにふるえる手で文彦の頬をとらえた。何度も栗色のゆるやかな髪を指で梳き、やさしく頬をまさぐり、首筋をたどっていく。
淳史の切れ長の目元は潤んで、熱を帯びた真剣な眼差しを文彦だけに向けている。淳史が、髪を、頬を、首筋を触れていくたびに体が痺れて動けなくなって、文彦の鼓動が高まっていく。
文彦の目のふちが薄紅に染まり、戸惑いとおののきの表情の奥に、かすかにちいさく何かが蕾んでいる。
淳史はやさしく白い顔を見つめ、両手で頬を囲むと、少しずつゆっくりと唇をよせた。
文彦は動けずに、二度目のくちづけを受けた。
やわらかについばまれ、熱さに包まれて、文彦はふいと体が浮いていくような、ふわふわとした感覚に包まれていく。
目の前は霞がかかったようになって、唇の感触がすべてになっていく。
淳史のてのひらが、首筋から肩、腕、脇腹へとゆるやかに滑っていき、やがて腰骨のほうへと落ちていく。
「淳、史」
文彦はくちづけの合間に、その手に手を重ねた。
「ど……こまで、何を、するつもり……?」
ちいさな声に、淳史は顔を上げた。
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