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第六章 一晩中踊れたら(music by Shelly Manne & His Friends)5

 淳史は少し呼吸した後、言葉を続けた。 「周りでもドラムの評判は良かったし、確かにずば抜けて良かった。佐田川清忠が今、アメリカで活躍しているのも、当時のプレイを思えば当たり前のレール――だが、そうだ――俺の中で、心に入ってきたのはこの曲だったんだ。あの時、あのステージで、ピアノを弾いていたのは、その時の俺と変わらない二十歳ほどの男だったのに」  文彦の大きな瞳の奥に、夜とライブの熱気とざわめきがよみがえり、そしてあのステージの音が始まる―― 「物憂くゆらいでいるのに、やさしくてメロウ。それなのに何処か悲しくて、苦しい。その苦しさは胸に迫って、俺へと流れてきた」  ぐるりと視点は回って、客席へと降り、そこには在りし日の淳史が人いきれの中でコートをまとって立っている。  そこからは佐田川清忠カルテットのステージが見え、白いスポットライト、高まる演奏とまだ隣り合っていた二人を視界に映して―― (来いよ)  清忠のアイコンタクトで始まるカウントされるリズム、悪戯に始まるイントロ、すべては客席の、周りよりも背の抜きん出ていただろう淳史の視点で、思い出はもう一度ひらいていく。 「そう、俺と変わらない歳だったのに。そこには逃げようのない何かが見えて、たぶん俺は衝撃を受けたんだな。物狂おしくて苦しかった、その時の俺には。この男は今弾いていないと死ぬんじゃないかとさえ思った。そんな思いを抱いたのは初めてだった」 「淳史があの時、いた……」  黒いピアノの前に座る、まだ苦悶と希望のただ中にいた文彦、そして一気に羽ばたく翼になってサックスをかまえてアイコンタクトを投げた公彦、そしてもう一人、そこにはじっと唇を引き結んで客席からすべてを見ていた淳史――三人ともが、胸には何かを秘めて。  偶然のトライアングル――思いもよらない三角形は、時の中へと投げられて、くるりと回転して、この現在に頭上へと落ちてくる。  文彦、公彦、淳史を頂点として、ぐるぐると回り、気まぐれに運命の中へと渦巻き、埋め込まれ、あの日の夜空からまっすぐに文彦へと。 「俺は気楽に考えていたんだ。すでに決定していた留学に行って――帰国すればまた聴きにいけるだろうと思っていた。けれど、帰国してみたら、佐田川清忠カルテットは解散していた。佐田川清忠が渡米した、という噂があるだけで、他のメンバーについては一切わからなかった。特にピアニストについてはまったく」 (たぶん、俺が武藤さんを頼って逃げる直前に淳史はライブを見て……帰国した時にはあの事件の後だったんだ……)  文彦はぐらぐらする頭で当時のことを時系列を追って思い出していく。 「時間をかけてしばらく探してみたが、どうしようもなかった。まあ、一番早い方法を取った。佐田川清忠に連絡を取ったわけさ。あのピアニストは誰だったのか――返って来た答えは、日本でならピアニストは二人、佐田川侑己と高澤文彦。このどちらかだろう、と」 「探して……清忠――に?」  あまりの驚きに、文彦は声を上げた。あまりにも懐かしい名前、懐かしい思い出。 「高澤文彦ならその時に若手で上がってきたピアニストだった」 「……」  文彦が竜野のいるミスティのドアを開けて、それから地道に活動を続けていくらか立った頃。 「ステージへと聴きに行って確かめた。何年も何年も前のこと――どんな男だったのか記憶にもあやふやになっていたし、ピアノを聴いたところで今さらわかるのか――不安はあった。過去の記憶を美化しているかもしれない。落胆するかもしれない。だが、そこにいたのは、確かにあのピアニストだとはっきりわかった。エウレカ、そう言ったのは俺のほうだった。あの頃よりも技術も表現も変化して、そこにいた」  ふっと笑った淳史は白黒の鍵盤を見つめている。 「ずっと、その音を探していた。長い時間、心の何処かにひそめて。あの衝撃を与えて、俺の感覚をもう一度取り戻させ、出口へと向かわせた音を。そう、ずっと、文彦のピアノを」 「あ……」  文彦の目の前で、過去の景色はめまぐるしくページをめくられていく。  カルテットのステージ、苦痛と苦悩に満ちた二重の生活、武藤を頼って生まれた町を捨てた日、たった一人の王国で誰もいないと思って生きていた日々、予想だにしなかった事件、それからのミスティを中心とした活動――  苦しみがあった、痛みがあった、愛があった、絶望があった、音楽を止められずにのたうち転がり回りながら生きていた日々。  世界でただ独りだと思っていた時間もあったのだ。誰にも知られず、忘れられて、ひっそりと。  その間も、誰かが自分のピアノを探しているなどと、文彦は思いもよらなかった。  わけのわからない衝撃は、文彦の心を覆い、視界いっぱいを覆っていく。 (文彦もまた一つの恒星なんだ)  そんな風に言っていた公彦の言葉が鳴り、ふっと過ぎていく。  文彦は不思議な想いにとらわれて、瞬きをした。ずっとある記憶のあの時に、この時に、その反対側で同じ時代、同じ時間に、確かに淳史が生きていたのだということをまざまざと感じて。 「そして、この前のフェスで初めて本人と言葉を交わした。どんな人間なんだろうと、知りたくなった。だんだんと知って、近くにいて、その人を感じているうちに心は止められなくなった。まさか本人に恋に落ちるとは、思っていなかった。それとも俺は、いったいいつから恋していたんだろう――?」  淳史は最後にテーマを弾き終えると、静かに指を上げた。  無音の沈黙が落ちて、文彦の中のシークレットダイアリーは淳史の視点を加えて、めくり終わっていく。  もう一人、世界の片隅で、文彦のあずかり知らぬところで生きていた人生。  その中で、知らないはずの誰かが文彦を気にかけていようとは。  ひどく奇態なものを眺める眼差しで、文彦は顔を上げた。  目前で散らばっている時間のかけらをかき集め、再構築しててのひらに乗せてひらいてみる。  淳史がまったく知らないと思っていた過去の一つの点。そこから文彦自身が、現在へと線を引いて結んでしまった。淳史の目の前へと過去の様々なページがもう一度、引きずり出されるようで、文彦は顔を歪めた。 「淳史が――」  切れ切れな息をして、文彦はよろめいて両手で頭をつかんだ。  過去からの苦痛、懺悔、罪悪、狂気、後悔と狂おしい感情が文彦の体を叩き、肌を打ち破り、荒れ狂っている。どうしようもない怒号が文彦の心を腐食していた。 「文彦」  名を呼んでも返事はなく、瞳は淳史を見返さない。  淳史はやにわに立ち上がると、すぐそばからアルトサックスを強くつかんだ。 「行くな」  それは希望を一つ、ただ縋るように込めた、哀願であったかもしれない。  淳史がサックスを構えて、大きく呼吸した。  雷鳴のように音量に幅のあるサックスの、腹に響く音色が部屋中に振動した。

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