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第六章 一晩中踊れたら(music by Shelly Manne & His Friends)4
目覚めは、今日も冷たい朝のはずだった。
ふわりとやわらかな感触に包まれて、たゆたう温水に浸かっているような温もりの中で、文彦は意識を浮上させていった。水面にぷくりと浮くように、顔は生気を取り戻していく。
かすかに瞳をひらくと、てのひらは心地の良いなめらかなシーツの上を滑り、体はすっぽりとベッドの上で布団にくるまれていた。
ただ一人で大きなベッドの上で、睫毛を何度かしばたいたが、今しがたまで他に人の温もりがあったように、文彦の体も布団の中もあたたかかった。
文彦はベッドの上で上半身を起こし、奇妙な感覚に首を傾けた。
確かに、昨晩は淳史の腕の中にいることができずに、硬い床に丸まって寝たはずだった。それなのに、ベッドの真ん中でぬくぬくと寝ており、それから、もう一つ――
かすかに流れてくるピアノ音が奇妙な気持ちにさせているのだと、文彦は気付いた。
自分の音楽で目覚める――という体験を文彦は初めてしたのだ。
だがそれは聞き覚えがあるのに、心は弾いて外側を滑り落ち、朦朧と何だったかを思い至ることが難しい。
(何だか……)
ぬぐえない心のざわめきは、文彦の心の中を嵐の如く駆け巡っていっている。
軽い仕草でベッドを降りて、白い素足でぺたりぺたりと歩いていく。廊下から防音室の重厚な扉の前まで来ると、そこは少しだけ開いていた。そこから音がわずかに洩れて出ていたのだ。
文彦は思い切って扉をひらいた。
黒い艶めくグランドピアノの前に座っていたのは、早朝に黒い前髪も額に落ちて、長身の片脚をエコーペダルへとかけ、精確な指さばきをしている淳史の姿だった。ピアノの前でも姿は瀟洒で垢抜けている。
曲は流れて、かすかだったピアノ音を目の前で聴いて、文彦はとある曲の名を心に浮かべた。
文彦が栗色の乱れた髪で、瞳を見ひらいて立っているのを見て、淳史はギョッと顔を上げて驚愕した。
そこで音はぴたりと止まり、淳史はひどく気まずそうな表情になって顔を歪めた。
「ど、う、して……」
あまりのことに先の言葉を続けられず、文彦は息を呑んだ。
止まってしまった音、どちらも無音になった呼吸、不可思議にぐるりと張り詰めた緊張。
回る回る運命の輪の、一輪をてのひらで触れて、そしてまた失っていってしまう。
真実の行方、真理の彼方、ごっこ遊びのように追いかけても捕まらないままに。
それは輪転、それは夢幻の先の、文彦が葬り去って昏い墓場に埋めてしまったはずの、暗喩する音の羅列。
「どう、して……」
淳史はしかめつらしい表情をして気まずい居心地の悪さを現わしていたが、心を決めて何かを振り切ったようにするりと変化し、鋭い光を湛えた両眼で文彦を真正面から見据えた。
それから、ピアノに向き直ると再び、その曲をピアニッシモでイントロからスタートさせていく。
「ライブでしか、演ったことはない……それもあの頃に――清忠と榊さんと、それから――」
最後の名前を、文彦は口に出せなかった。それは唇で凍りついて、出口を失っている。
続いていく音は遥かなる旋律となり、放物線を描き、ひとつの曲を構築していく。
淳史の手によって、それは物憂いゆらめきよりも、モダニズムと粒の転がるような音へと変遷している。
サクソフォンを演奏した時ほどの飛び抜けた上質さはないが、淳史はピアノも上位のほうにあると言ってよかった。技術分でやや物足りないだろうが、根源にあるのは独特の感性であるのに変わりない。
長い指は音でさざ波を作り、大きく広げ、打ち寄せる海へと変幻して、走り出していく。
「はるか、海は、碧なりき……」
その曲の名を、再び唇に乗せる日が来るとは、文彦は思ってみもしなかった。
淳史の手によって紡がれるピアノに広がる幻影の光景は、文彦がかつてこの曲を謳いながら眺めていた早朝の海ではない。
在りし日に文彦が、公彦と並んでともに見た海――あの埠頭に隣に立って、コンクリートの先へと続いていた波の無限に続く一つ一つ。
美しく悲しい思い出のドレープは重なって、そのすべてを忘却の彼方へと葬り去ったはずだったのに、どうしてメロディは文彦の心を訪うのか。
今こうして目の前で鍵をひらいて、扉をひらいて。
淳史の指がくり出す音に、メロディは同じなのに海のイメージはまったく違っている。それは何処か海沿いの街の高所から見渡しているような、それとも白い船に乗って海風になびいていくような――海風はきらきらとした水面を素早く吹き過ぎて、沖遥か彼方まで渡っていく。
(このまま――)
走り抜けて、あの青く広くまっすぐに光りつづける水平線へと。
文彦は驚きの中で、同時に淳史が導いていく音に揺られている。
(ここ――は)
少年の淳史がいつの日か泳いでいた、そしてつい昨日に文彦が素足で走った、波打ち寄せては返していく、あの砂浜だ。
音は恐らく長い年月を経て、淳史の手の中で変成され、何度も奏でたのだろう――その曲は再構築されて目の前にあった。
瞳を見ひらいたまま、よろめく体を支えるように、文彦は壁に片手をついた。胸元には二羽の鳥の彫られたリングの感触、それなのに流れていく音はつい昨日の砂浜と白い飛沫のこまかな波打ち際。
「この曲は清忠とのカルテットでしか、弾いてない――」
佐田川清忠カルテットを抜けてから、一度足りとも文彦は弾いたことがない。
音源もない、以前に何度かライブハウスで演奏しただけの曲を、淳史が知りようもないはずだった。唯一、文彦の現在いる周りの人間で知っているとするなら、武藤ただ一人なのだ。
淳史はピアノで曲のテーマを終えるとトレモロをかけて、またテーマへと戻る。
ややうつむいた端正な横顔は彫刻のように動かない。長い指は大きく白鍵をとらえて、鷹揚に弾いていく。
「ある日の話をしようか」
低い声はゆるやかなリズムに乗って、歌うように囁くように文彦の耳へと流れて入ってくる。
「あの頃の俺には多くの選択肢が、多くの可能性があった――その中から音楽を択び、だが、いったい何処へと進むべきなのか迷っていた。“何者か”になることを期待されて、周りは俺という人間を決めていく。音楽へも勝手に期待して、望んでいく。善意にせよ悪意にせよ――その中で、気付けばスランプに陥っていた。感覚は曇っていく。世界は輝かない、響かない、感動は遠くなって手は止まった」
「それは……」
恐らく年若い頃から優秀であり、勤勉であり、着実なたゆみない練習の果ての高い奏法を持った淳史は、只者ではなかっただろうし、周囲からの期待も高かっただろうことは文彦にも想像できた。
(俺とはまったく違う道を)
歩いてきた淳史の己への厳しさは、その佇まいからもよくわかることだった。
「トンネルは暗く長かった。誰とも共有できない、ただ一人の道――それでも、日々をこなして何事もないように進んでいかなくてはいけない。先の出口は見えなくとも」
淳史はピアノの休符とともに息を継ぐと、音とともにまた静かに語り始めた。
「ある夜に、佐田川清忠カルテットのライブを訪れた。まだ出会わないものに出会ってみたかった。何かを探していた。そうまたあの感覚を取り戻せる何かを」
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