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第六章 一晩中踊れたら(music by Shelly Manne & His Friends)3

 唇にキスをして、何度も何度もやさしいキスをして――冷たい体を温めるように。  何度もてのひらで肌を撫でて、慈しんでいく。  冷たい体の中で、長らく忘れ去られていた感覚がうっすらとよみがえり、肌はやさしさに包まれた。  それは忘却の彼方に葬り去られた、それとも、文彦が永劫に封じ込めて閉ざしてしまった重い扉の向こう側。綿菓子のように渦巻き、甘くふわりと溶けていたはずの、何度かだけ味わったことのあるやさしい瞬間の鮮やかな羅列。  ある日を境に、苦悶と性の技術だけを残して、失われてしまった遠い感覚。 「文彦が感じてくれたら……嬉しい」  喜びを含めた口調に、文彦はキスの中で気付いた。 「え……」  戸惑いに彷徨う視線は、文彦自身の下肢をとらえ、ゆっくりと勃起しかかっている中心部をとらえた。 「どう、して……」  長い指が伸ばされ、限りないやさしさで、そっと文彦の中心部を握り込んだ。 「この感触も、嬉しい。今……感動してる」  照れたように耳元で囁かれて、文彦の肩がビクッとふるえた。淳史のやんわりと動く手の中で、文彦は熱さが肌から下肢へと集まっていき、完全に屹立していた。 「文彦の心も体も全部が、大切なんだ……」  吐息まじりに耳元で低く囁いては、淳史は丁寧にてのひらで熱くなった昂ぶりを愛撫し、上下に動かし始めた。てのひらで何度も撫でさすり、指先で包み、弾力のある熱さを楽しむように愛撫し続けている。 「……!」  文彦の体にぎゅっと力が入り、困惑をたたえて瞳は見ひらいた。  ためらいをなだめるように、手を上下し続ける合間に、淳史の唇が唇の端から端までをたどり、熱い舌が文彦の口腔へと割り入ってきた。舐めとるように舌に触れて、確かめるように舌をゆっくりと沈めていく。  文彦の白い咽喉が反り、指先は強くシーツをつかんだ。  淳史は文彦の手を握ろうとしたが、指先は頑なにシーツをつかみしめて離れなかった。  性の悦びの体験が明らかに少ない緊張と戸惑いに満ちた反応に、淳史は無理強いしなかった。  溜め息まじりに淳史は唇を離し、そのまま首筋、鎖骨へとキスは落ちていく。ぷつりとした乳首に何度も愛おしむようにキスをくり返して、臍、下肢へと滑っていく。文彦の白い脚の付け根を撫でながら、淳史はゆっくりと身を沈めた。 「……っ」  身を固くして、文彦は腰をよじった。  その弾みに、淳史が両手で腰骨をつかんでとらえ、文彦の色づいた昂ぶりをためらいなく口に含んだ。  淳史の形のよい唇が昂ぶりを含んだまま上下していき、指は根元を抑え、熱い舌は咥内で濡れた先端をまさぐっている。大きな瞳は霞んだようになって、睫毛はふるえてていた。ぎゅっとシーツをつかんで、瞬間、切なげに眉をよせると目を閉じる。  文彦は、何の前触れもなく、ごく静かに淳史の口の中で果てた。  淳史の唇がすべてを搾り取りたいように何度も窄まって、その下で白い体はちいさくふるえた。  ごくりと淳史が精液を飲み下す音が響いて、文彦はおののきと恐れの表情でそれを見ていた。 「文彦のは美味しいな」  淳史は微笑みながら唇を舌で舐めて、こわばって力が入ったままの文彦の脚から腰をあたためるようにさすっていく。  どうすればいいのか固まってしまった体で、文彦はぎこちない声色で尋ねた。 「挿れ……る?」 「え――?」  何を言われたのかわからない表情で、淳史は聞き返した。それからようやく気付いて、ぴったりと肌を合わせて文彦を抱きしめる。 「いや……今日はこのままで――」  合間にシャツがからまっていたが、それでも素肌の触れ合う喜びと果てた多幸感に包まれて、淳史は満足そうに微笑して文彦の頭をかき抱いた。 「文彦を、朝まで抱きしめて眠りたい」  栗色の髪の中へと唇をうずめて低く呟いた淳史から、文彦はこわばりの解けない体をわずかにずらした。 「もう、終わった?」  淳史の動向を窺うように、見上げられた縹いろの瞳。 「ああ……まあ――」  困惑気味に淳史が曖昧に答えて頷くと、文彦はシャツの前かき合わせるようにして動いた。もう一度しっかりと袖を通し、裾で下肢を覆って、すとんとベッドから降りると迷いもなく部屋から出て行った。  足早に去っていく背中を淳史が追うと、バスルームへと消えて、ガチャリと鍵が閉まる音がした。  広いバスルームでざっと体を流して、外に出ると、文彦は置いてあった服を見た。さっきまでの情事に使ったシャツを着るか、指先が逡巡して惑う。 「文彦、着替えをドアの外に置いておくから。一緒に寝よう。もう時間も遅いし。部屋で待ってる」  そう声をかけられて廊下を見ると、フローリングの床に畳まれた部屋着が置いてあって、淳史の姿はなかった。厚地でやわらかな素材のサックスブルーシャツは淳史のもので、文彦には袖が長く手指を隠した。ジャージ素材の黒いズボンも長く、裾を折り返す。  洗面所の端に寄せて置いてあった銀色のチェーンを取ると、文彦は首へとかけた。  文彦がベッドルームのドアをゆっくりと開けると、紺色の部屋着で待っていた淳史が振り返り、ドアノブにかけられた手を静かに握った。 「今日は、一緒に寝よう」  文彦はうつむいたまま、うすく唇をひらいて何も答えなかった。 「文彦と初めて、したんだから」  淳史が微笑すると、文彦はかすかに頷いた。  ベッドで腕枕をして抱きしめて、淳史は栗色の巻き毛へと顔をうずめた。  文彦は所在なさげにベッドの上で、淳史と同じ布団の中でこわばったまま瞳をひらいている。淳史の熱と布団のあたたかさが、冷えた肌へと伝わっていく。  やがて、淳史は目を閉じて静かに寝息を立てだした。規則正しくやすらかなリズムは、この夜にふわりと回ってやわらかく重なっていく。 「淳史、寝た……?」  ちいさく問うた声に応えはない。  文彦はふっと吐息を吐くと、みじろぎして、淳史が回した腕の中から抜け出た。  ベッドの端までいくと、そのままずるずると床へと滑っていく。壁際とベッドの間できちんと畳まれていたうすい毛布を手に伸ばして取ると、ぐるりと肩に回してかける。  誰かとベッドにいる居心地の悪さは、文彦にはぬぐえないものだ。  家族とのあたたかな添い寝もなく、同じベッドに横たわる記憶は、望まない獰猛な性行為のあとの緊迫した惨めな時間だけだ。  しばらくして、そのまま淳史に背を向けるようにして、床に寝そべって背中をまるめてうずくまる。 「Now you say you`re lonely……」  ごくちいさな歌声が「クライ・ミー・ア・リバー」をつむいでいく。 (寂しくて泣いていたなんて、今になって。それなら、川のように泣いて。裏切って別れたことを謝るのなら、川のように泣いて――)  細い銀色のチェーンのようにさらさらと鳴って、かすかに物憂くつづく、インティメイトなウィスパーボイス。 「I cried river over you……」  文彦は胸元で揺れたリングをカットソーの上から押さえて、青白いまぶたを降ろした。ちいさな歌声もいつしか止んで、静かな寝息へと変わっていく。  薄闇の中で、切れ長の両眼がうっすらとひらいた。音を立てずにゆっくりとベッドから降り立つと、うずくまった背中をじっと見つめている。  床にひざまずいて、淳史は投げ出された白い手をすくい取ると、そっと右手の上に手を重ねた。  夜は静かに流れていって、その行方は人には見透かすことはできない。果てない運命の向こう側も、気まぐれな人生の輪舞も、その先にあるものは、人という存在では抗えこそすれ見定めることはできない。  疲労を色濃く映した寝顔は、ぐったりとしていて青白く、体は力なく冷たい床に横たわっている。  ただ悲しげに、淳史の眉はひそめられて、白い涙が一筋、流れて闇へと消えていった。

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