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第六章 一晩中踊れたら(music by Shelly Manne & His Friends)7

 しかしぐいと軽やかな音色に変えて、文彦はフレーズを鳴らす。  間髪を入れずに、サックスが引き取って「フルハウス」へと続けていく。序盤をかろやかに吹いて、テーマでは男性的な哀愁も込めて、力強い響かせ方をした。  叩きつけ、時に拒絶し、その瞬間に嵐の中へと引きずり込もうとする――淳史のサックスへと、文彦は荒ぶることなく細かなリズムを刻んだ。  文彦は弾き続けながら軽く座りなおし、音で合図し、しばらくして「蓮の花」のメロディへ導いた。ケニー・のサックスで表現される究極のダーク・ビューティと言われる導入部を、文彦のピアノがクールさをもって、エレガントに弾く。 (本当なんて何処だ?)  淳史の魂の奥でずっと止まない声が、幾度も文彦へと問いかけられる。 (そうなの? こうしているのは本当だけど)  文彦の顔は徐々に血の色を透かせて紅潮し、呟く。 (いいよ)  いつしか、文彦は惑溺するように、悪戯に、悪魔的に微笑した。 (いいよ。受け止めてやるよ――)  そんなしたたかで挑戦的な、支配を争うかのような文彦の蠱惑的な瞳。闇から突き抜けるように光り、ほどばしっていく大きな瞳の閃光。 (さあ、おいで。高みへと。ここまで――)  両翼は舞い上がって、戻れなくなって、すべて壊れてしまうほど。  それから、ドン・フリーマンのリリックなピアノの調べが切ない「ソー・イン・ラブ」を、音を重ねるようにして弾いていく。  タイミングを計るために、淳史の瞳を見上げた。  すぐに、鋭い光をたたえた眼とぶつかる。 (あ……ッ!抜けた――)  二人の音は、互いの目には見えぬ音楽の扉を、次々と叩いてひらいていく。  駆け抜けて、すり抜けて、誰しもが見るわけではない光景へと。  思いもよらない、胸をうちやぶる熱気は、ジェットコースターのように二人を押し上げ、あおっていく。  目を閉ざし、秀麗な眉を寄せている淳史の顔は、苦悶しているのか、愉悦しているのか。  荒れ狂っていたサックスの音色が、急にぴたりと止まった。 「……ッ!」  文彦は急にハイスピードの車から投げ出されたような衝撃に、全身で硬直した。まるで、旋回し、空から失墜していく鳥の如く。息もつけずに激しく喘いで、快楽の絶頂を迎えてしまったかのように、体中でふるえて痙攣した。  音の途中で投げ出された苦痛に、瞼を閉ざして、咽喉をつかむ。はあはあと喘ぎながら、ピアノに手をかけ、とぎれとぎれに呟いた。 「いつも――どうして――そう、吹かないわけよ」  首筋を、頬を、目のふちを薄紅に上気させて、速い呼吸で喘ぎながら文彦は言った。 ピアノへと今にも突っ伏しそうなほど脱力して、ぐったりとした姿は、まるで愛の情事の直後のようで、直視もできないようないけない艶めかしさに満ちている。 「そうしたら、好きだな」  まるで夢想の中のように微睡んでいる。 「こんな曲もできるわけね。いつもこうだったら好きだな」  先程までの演奏に、頬を赤らめて上気したままに、文彦は夢見るような瞳で、口調で囁いた。 「この淳史が、好きだ……」  赤くうるおう唇、乱れた呼吸、すべてが淳史だけに向けられていて、言葉も感覚もすべては淳史だけを捉えている瞬間。  淳史は霞んだような眼差しで、あらゆる感情をひそめた両眼で、ただ文彦を見つめている。 「本質がいつもよりずっとあって――そうだな、胸に来たな。一晩ずっと演ってみたいな、何処まで行けるのか聴いていたい、みたいな――」  淳史が、そのうすい肩を片手でつかんだ。  淳史と文彦の間に奇妙な静けさが流れて、互いに顔を見合わせた。  互いに驚き、互いに初めてその存在に触れたかのように、二人の間で時は止まり、沈黙は長かった。  淳史の何かを理解した、と文彦は思った。  共感し得る、何か。 「文彦」  静けさを押しひらいて、唇を動かしたのは淳史だった。その声は揺れ、両眼は一度だけまたたき、凪いだ湖面のようだった。  長い指にはだんだんと力がこもって、文彦の肩をしっかりとつかんでいく。その箇所から少しずつ熱くなり、火傷してしまうようで、文彦は思わず身じろぎした。  霞がかったような見ひらかれた文彦の瞳のすぐそばで、彼方に哀しみをひそませた秀麗な淳史の顔がある。視線は弾け合い、からまり、また離れていく。  サックスを静かに置いた淳史が、ピアノの前に座った文彦に向き直った。文彦の首筋から頬までをすべらすように手指で包んでいく。 「文彦……」  囁きは、湖面の静けさに似ていた。慈しむように大切に、愛のすべてを込めてあたたかく。  その声色と、愛に満ちた眼差しにおののいて、文彦は恐れをなして離れようとした。淳史の触れる箇所、視線、吐息のすべてをも熱く感じて、文彦は戸惑い、後退って椅子から滑り落ちかけた。  すぐそばで、素早くその体を抱きとめて、淳史が力強く支えた。腕の中へと抱き込まれるかたちになって、文彦は演奏の後の乱れた呼吸のままで、絶え絶えに喘いだ。 「淳……」  どんな言葉の先も、頬をやわらかく触れたてのひらが包んでいく。  あまりに抜け出て、奥底から交わし合った二人のセッションの直後――ひらいた心の扉のままで、身も心もあけすけなまま、文彦には閉ざしようがなかった。  文彦にとってそれほどの体験は初めてのもので、恐らくその表情から淳史にとっても同じ状態なのは見て取れる。互いに衝撃をひそめ、驚嘆をひそめ、動揺を押し隠して。 「文彦……」  そう囁いて、淳史のやや赤みを帯びた唇が、文彦の唇にゆっくりと近付いた。 吐息の触れる距離で、しばらく窺うように止まっていたが、やがて少しずつ重なって唇をやわらかくふさいだ。そのまま滑らすようにして、額に、頬に、耳朶に、首筋へと淳史の唇が何度もくちづけていく。熱っぽく細められた淳史の目は、留めることのできない情熱を透かせて黒く瞬いている。 「今、は――」  かつて感じたことのない焦りに、文彦は身をよじって淳史の腕に手をかけた。 「淳史、今は――」  声はかすれ、困惑しているのへ、淳史は強く抱きしめた。  ぴたりと合わせた体の感触に、淳史は驚いたように唇をひらいた。すぐにてのひらを滑らし、わずかに触れて、その感触を確かめた。 「……っ」  文彦が息を吐き、うつむいて睫毛をふるわせる。  文彦の下肢は反応を現わしていて、淳史の目の前ですでに隠しようもなかった。 「あ、文彦――」  両眼には驚きと喜びが同時に灯る。  高みへと投げ出された演奏の後の余韻、紅潮した頬、いつしか性衝動の出口を失った文彦の、音楽と密接に結びついてしまったエクスタシー。 今は文彦の扉がひらいて、淳史の扉がひらいて、閉ざすこともできずに高まっている。淳史は衝動を抑えきれずにキスをし、何度もやわらかくくり返した。 「文彦、向こうの部屋に……」  キスの合間に、淳史が囁いた。

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