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第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)7
(足りない)
イベントステージのスタッフや責任者から挨拶や言葉をかけられる中、文彦はまだふわふわと意識は漂っている。
うわの空で対応しながら、文彦はようやく礼を述べてその場を後にすることができた。
街路へと出れば、あたりはビルの間、頭上にも光り輝くイルミネーション――手を伸ばせば届きそうで、文彦は手を伸ばした。いくつものまたたく光をどれにするか選びかねて、幻想のような夜の中で、白い手はゆらゆらと舞っている。
「文彦」
急に後ろからかけられたよく通る低い声に、驚いて瞬時に振り返る。
「あ……どうして?」
振り返った先にいたのは、端正な長身――黒いコートの襟を立てて、薄い色のサングラス、高い鼻梁に引き締まった唇。そのサングラスを外せば、切れ上がった両眼が真正面から文彦を見据えるはずだ。
「淳史――」
人込みの中で立ち止まって、人とぶつかりかけた文彦をうながすように淳史は歩き始めた。
「どうしてって。聴きに来てた」
「えっ? 淳史が聴いてた?」
「そう。少し時間が空いたから。今日はビートル?」
「ううん。電車でぶらぶら。近いし」
「そうか。寒いだろう? 車で送っていこうか。文彦と――少しでもいたいし」
文彦はカーキ色のショートコートのポケットに指を引っかけて、黙ってうなずいた。
二人は、駐車場までの距離を並んで歩いた。恋人たちや会社帰りの人々がイルミネーションを見渡して行き交う中を、二人は静かに寄り添って並んでいる。
「ああいうステージもするんだな」
「まあ、何でも弾いてた頃もあったし。淳史とはまた違うよ。その日の空気で変えていかないと。別に俺だけを聴きに来てるってわけでもないんだから」
「文彦のファンはたくさん来てたじゃないか」
「うん、そう。どうしてだろう。不思議だ」
文彦は首を傾げると、コートの首元からワインレッドのシャツの襟が見えた。
「それ、俺が選んだシャツだな」
「そう。似合う?」
「もちろん。似合うと思って選んだのに――嬉しいよ。とても……」
淳史がその先を言いかけて、手を上げると、文彦の指とぶつかった。
軽い衝撃に、ふっとお互いに視線を交わして見つめ合う。文彦はうすく唇をひらいて、ぼんやりと淳史を見上げている。演奏の高揚の後に目元は薄紅に染まっている。
淳史はしばらく立ち尽くしていたが、深く呼吸し、何かを振り切るように呟いた。
「こっちだ」
ほど近いパーキングに駐車してあった白い車へと二人して乗り込むと、すいと発進してく。
文彦はひと時、窓に映る景色に目を奪われた。車は青いイルミネーションの点灯する街路樹を抜けて、遠くには高速道路の長いオレンジの色の灯りの羅列が果てなく続くよう。高層ビルやマンションの光が細かく瞬き、強い風は夜空の雲をはらって月は雫のように輝いている。
両手を窓際にかけて、指先でトントンとリズムを刻み、文彦は無心に流れゆく街並みをいつまでも眺めている。
淳史は運転しながらそれを横目に見て、ふっと笑った。
「明日は休みなんだろう? 俺も午後なら空けられる。どこか出かけないか?」
「え、そうなの? それなら人の少ないところ」
「いつもそれだな。まあ、いい。見せたいものもあるし」
最後の声はちいさくなって、淳史は自分自身に呟いているかのようだった。
「クリスマスはどうしてる?」
「え? ミスティでノエルライブだよ。二十三から二十五日まで」
「そんなにか」
「そんなにだよ。竜野さんに言って。何か用?」
「用――って。一緒に食事でも」
「食事? ああ――なんか、広告でやってるやつ? チキンとか、ケーキとか」
文彦はくるりと振り返って、瞳を見ひらいてまじまじと淳史を見た。
「どうして皆、クリスチャンでもないのに、イエス・キリストの誕生日にめでたいの? どうしてケーキ食べてんの? どうしてデートする日になってんの? よくわかんないんだけど。新約聖書を読んでも、そんなこと書いていなかったよ」
「それは――家族とか、大切な人といたい日なんだろう。大切な人とシェアをして」
「そうなの?」
「家族とは……していないか。やってみたら少しわかるかもな」
「ふうん。曲だけは好きだ。綺麗な曲が多い」
それきり興味を失ったように、文彦は窓へと向いた。家族、キャンドル、チキン、ケーキ、プレゼント――幼少からそんな記憶を持たない文彦には、あまり重要なことには思えなかったのだ。淳史は少し考え込んでから口をひらいた。
「まあ、そのあたりは確実に時間が取れるか俺も疑問だな――時間が足りないな。年末年始は?」
「三十日で終わりだったはず」
「じゃあ、夜に迎えにいく。久しぶりに俺の部屋でもいいか?」
「――うん」
文彦がそう答えたところで、車は文彦のアパートの手前へと到着して、二人きりのドライブはあっという間に終わりを迎えた。
すとん、と身軽に降り立った文彦は、くるりと淳史へと振り向いた。しかし、淳史は車内にはおらず、気付くと文彦の隣に静かに佇んでいた。ぶつかりそうな距離にいたことに驚いて、文彦は淳史を見上げて数歩よろめいた。咄嗟に淳史がその手をつかみ、それからやさしく両手で包みなおした。
互いに冷たい手指が、触れ合うことで少しずつぬくもりを持って、穏やかに広がっていく。文彦はうつむいて二人の重なる両手を見つめ、どちらも動こうとはしなかった。
先に口をひらいたのは、淳史のほうだった。
「明日、迎えに来るよ。何時頃なら?」
「何時だって――いいよ。どうして大してすることもないんだから」
「練習以外は?」
「そうだね」
文彦は笑って、軽く肩をすくめた。
夜空の下で冷えた白い頬を、ふわりと淳史の両手が包んだ。さっきまで重ね合わせていた手はあたたかく、文彦は心地よさに瞳を閉じて、そっとてのひらを上から添えた。
「淳史の指だ」
「うん」
文彦は淳史の手を取ると、それを自分の耳へと押し当てた。何か文彦にしか聴こえ得ない音を聴き出しているかのように、文彦は微笑したまま、うつむいている。淳史は唇を引き結んで、じっと文彦の顔を見つめている。
ややあって、淳史は名残惜しそうに、低い声で静かに囁いた。
「文彦、また――明日」
「うん、また明日」
何度目かの約束をして、また会う日をくり返して、二人は微笑みながらそっと離れて手を振った。
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