65 / 91
第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)6
冬の雲は鈍色となり、十二月上旬ともなると、街のあちこちに赤と緑のクリスマスのポップが上がり、今年の新しいクリスマスソングと、これまでのヒットナンバーとが混在して街角に流れていく。
あちこちがイルミネーションで飾られて華やかに光またたくようになり、人々は一つの年の終わりへの慌ただしさに向かう中にも、ざわめきと高まりを含んでいる。
文彦はワインレッドのチーフをスリーピークスにして、ジャケットの胸元のポケットに丁寧に差し込んだ。
今夜はクリスマス前の、港町の街路に大々的に点灯するイルミネーションのオープニングに、十組ほどのミュージシャンが演奏するうちの一人として、文彦はピアノを弾くのだ。フリー観覧での野外ステージイベントで、沿線の私鉄電車内にも広告されていたものだ。
リフレイン・ストリートが近いせいで、ジャズは文彦ともう一組のクインテットが出演する。他もこの土地にちなんだミュージシャンで構成されていて、ヒップホップ、ロック、ダンスグループと多様性のあるステージだった。
文彦は全体的な舞台構成を考えて、ドラムとベースを誰かつけてトリオで演奏することを提案したが、文彦が単独で、というのが依頼だった。
文彦はピアノと弾き語りで曲を組んで、会場が盛り上がる前のトップバッターを申し入れたが、蓋を開けてみれば一番最後に組み入れられていた。
ステージはすでに進んで、文彦の前の順番になっている、ダンスステージだ。
(この曲、最近聴いたな)
何処でだろう? ――と思いあぐねて、それが淳史とついこの前に訪れたアイリッシュパブでかかっていた曲だったと思い出した。世界各国のビールが集まっていた店は物珍しく、ざわざわとした人いきれの中で、淳史の隣で飲んだビールの美しいレッドエールの色を思い出した。
(キルケニー……)
しばらく記憶は淳史と一緒に訪れた場所に飛んだが、ステージからのダダダダとエイトビートを刻む音ですぐに引き戻された。
(うーん、どうなんだろう。この後に俺で)
文彦は舞台袖に腕組みをしたまま、突っ立っている。ステージでは衣装の裾がひらりとはためいてなびき、若い女性ダンサーたちのフォーメーションの変化が美しく、観客席から驚きのどよめきが上がる。男性ファンたちが前のほうにおしかけていて、ついさっきまでのヒップホップともまた会場の流れが変わっている。
(だから最初って言ったのにな。どうするかな)
文彦は悩むのを楽しむように、わずかに微笑して首を傾げた。そして、ステージの上でくり広げられる熱気あるダンスに惹かれて見入った。
すっかり夜となって、一面に白、青、オレンジ、緑と羅列していく、地上に落ちた星々のように輝いているイルミネーション。それは螺旋階段のように続いて、万華鏡のように色をなして眩いている。
その輝く光景のそばの野外ステージで、ざわざわと客層の入れ替わる会場へと、文彦はふらりと現れて会釈した。
「あっ、文彦!」
「文彦ー!」
声を上げたのは女性客だった。ダンスが終わればさっさと引き上げにかかっていた、興味なさげな男性客たちが何事かと振り返る。文彦はワインレッドのシャツに、黒のベルベットジャケット、民族調の織りのタイをして、ポケットにはチーフ。栗色の髪が頬にかかり、夜の中で白い霧のようなスポットライトを浴びて、白い顔はひときわ臈たけていた。
すらりとした姿は夜をまとって気だるく、物憂い大きな瞳で会場を一度だけ見渡して、うっすらと微笑を浮かべた。
「しーっ」
人差し指を唇につけて、軽くウィンクを投げると、声を上げていた女性たちは手で口を覆った。
「どうもありがとう。最初にご挨拶代わりに『All I Want For Christmas Is You』」
ほとんどの人が知っているだろうマライア・キャリーの冬のヒットナンバーを、いつものメロウさを抜いて、力強ささえ感じるテイストでいながらジャズアレンジにして、スウィングさせて弾いていく。耳慣れたメロディのいつもと違う曲調に振り返り、人々はややあって足を止めて会場に寄って来る。
弾き終えると軽い仕草で座り直し、設置されていたマイクを引き寄せた。
「こんばんは、高澤文彦です。今日が初めましての方もありがとうございます。自己紹介をすると、ジャズピアノを弾いています。近くの『ミスティ』というジャズバーによく出ています。マスターが愛嬌があって面白いので、ひやかしがてらにでもまたお顔を出してくださったら嬉しいです。今日はソロですが、さっきのクインテットみたいにバンドで聴く醍醐味はやはりあるので、『ミスティ』でも聴いてくださったらと思います。ここまで宣伝なんですけど」
「知ってるー」
合いの手がかかって、マイクを調整しながら、文彦は笑った。
「ありがとう。去年も出させていただいたんですけど、今年はまた違った雰囲気で素晴らしいなと思います。今までのパフォーマンスも良かった?楽しんだ人?」
文彦が軽く片手を上げて振ると、会場からも手が上がったり、拍手が上がったりする。
「今夜はお客様があたたかいですね。今日は、普段はジャズにあまり馴染みのない方にも知っていただきたいなと思って、クリスマスにちなんだ曲をジャズアレンジにして、それからスタンダードジャズ曲も入れようかなと思ってます。と、思っていたんですが」
文彦は会場を見回して、息を継いだ。
「リクエストを募集したいなと思います。素敵なクリスマスリクエストがあれば、いくつか入れようと思います。いかがですか?皆様が思いつく曲があれば」
ワッと歓声が上がって、いくつか曲のタイトルが大きな声で上がった。文彦は正確に聞き分けて、そちらの方向へ手をかざした。
「じゃあ、白いニットの――ウサギみたいな方」
「え……『We Wish You A Merry Christmas』です」
三十代くらいの女性が真っ赤になって小さく答えたのへ、文彦が微笑した。
「ありがとう。すごい、発音が良いね。あとは、そちらのピンクのお花の方」
「『サンタが町にやってくる』を文彦さんの歌で!」
「え……歌? あれだよね、『Santa Claus is Coming to Town』――わかんない歌詞、アドリブでいい? もっとこう、今のヒット曲でいいんだよ? 知らないと思われてる? まあ、そんな雰囲気はしてるかもしれないけど――ねえ」
ドッと会場に笑いが起こり、苦笑しながら文彦は指先をひらひらとさせて、鍵盤の上の空気を切っていく。
「ラストは歌っていいのかな? 大丈夫? じゃあ、出発――『Last Christmas』」
これもほとんどの人が知っているだろう洋楽のクリスマスソングからスタートし、邦楽でやや切なさのある曲調のヒットソングへと移り、だんだんと文彦のピアノのジャージィなリズムに引き寄せていく。会場の空気が文彦によって変えられて、だんだんと揺らめきとウェットさの中へと引きずり込み、物憂く染め上げていく。
(さあ、ここから行こうか――まだ先へとおいで)
「『セント・トーマス』、『クレオパトラの夢』」
ここでスタンダードジャズへと切り替えて、一気に文彦の得意とする世界を展開した。その中でもテンポの弾む選曲をして、ピアノ一本だけで音を重ね、飛ばし、音の粒を正確に転がし、噴水の飛沫のようにきらめかせていく。ソロでは音を畳みかけ、両腕で白黒の鍵盤を制御して、幅広い音階を行き来し、走り上がる階段の頂点までいって、次の曲へと繋げてしまう。
文彦の顔つきは変わり、頬はうっすらと紅潮し、瞳は揺らめきをたたえて、唇は赤くあやしい微笑みにかたちづくられる。オリジナルキーA♭mに忠実に、シンプルなコード進行による世界観を大切に、しかし指は自由に動き、音のバイブレーションが続いた。
「『カーニヴァルの朝』」
ボサノヴァへと入り、静かになった会場へと、ふいに唐突に哀愁を帯びたメロディが広がっていく。いつかどこかで聴いたような、振り返り泣きだしてしまいそうな、胸に迫る切なさに、ぎゅっと手を握りしめる観客も見えた。
「リクエスト、二曲続けて」
有名なクリスマスキャロルを、文彦は相当にアレンジを加えて、会場の雰囲気を壊すことなくインティメイトな文彦のジャズスタイルへと変換した。それは未来の聖なる夜に、天使が舞い降りて祝福を与えてくれそうな、静謐な輝きを秘めている。
ぐっとスローテンポに落として、原曲とは違う静けさからテナーで歌い始める。それは物憂く、波のような心地よい揺らぎの中にあって、そのうちに大きな波に押し上げられるように、歌はクレシェンドし、微細に弾んで眩いていく。
「You better watch out! You better not cry. あなたのサンタになって、僕がプレゼントを届けにゆくよ」
ラストは文彦が歌詞をアレンジして、視線を会場へとぱちりと投げかけて歌い終えた。
文彦が白く美しい指をゆっくりと鍵盤から上げたところで、ワアッと会場がどよめくように拍手が起こった。
「今夜はありがとう」
文彦は立ち上がり、軽い仕草で手をひらめかせると胸にあて、深く一礼した。
歓声に手を振り、微笑だけを残像のように残して、文彦はステージを後にした。
ともだちにシェアしよう!