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第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)5
「ここだ、ここにいる。文彦」
「寒い……寒い、よ……」
さっきまでのように泣き叫ぶのではなく、泣き方は訴えるようなすすり泣きに変わっている。淳史がもう一度抱きしめようと引き寄せると、文彦はビクッと身を引いた。
「いや――いや……」
淳史は布団を手早く引き寄せて、それで文彦の体をくるんだ。
「これなら、いいだろう? もう寒くないか?」
「……うん」
ふわりとしたやわらかさに包まれて、文彦は幾ばくか安堵した表情を見せる。長い指が、白い額にかかった栗色の髪をそっとすくっては整えていく。
「綺麗だよ、文彦。こうしたら、もっと綺麗だ」
何度もくり返し、細い髪を梳き、囁く。
「文彦が、好きだ。一番大切で。今までも、これからも」
文彦は息に詰まり、しゃくり上げて、首を何度も横に振る。聞き取れないほどにちいさな声で、子どものように言った。
「淳史なんか……きらい」
やや間を置いてから、淳史はかすれた声でうなずいた。
「……うん」
「淳史なんか、勝手に入ってきて、勝手に人の過去をあけて……大きらい」
「うん」
「淳史なんかに会ったから、嫌なことをたくさん思い出した。淳史にさえ会わなければ、全部に蓋をしていられたのに。俺をこんなふうにして……大きらい」
「うん。ごめん」
「勝手に服を脱がして、隠していたことを見て――大きらい」
「うん。暑いって言ってたから着替えさそうと思って、ごめん」
ローテーブルには淳史がクローゼットから引き出してきた服が、きちんと畳まれて置かれている。
「もう淳史なんか、絶対にいや――」
すすり泣いて、いやいやをするように、そばにいる淳史の肩を突っぱねる。
「うん。文彦のことを聞かせてくれて……ありがとう。これだけは覚えておいて欲しい。その体も、心も、魂も、文彦の全部は強くて綺麗なんだと」
「淳史なんか、大きらい! 大きらい!」
文彦は何度も、淳史の肩を叩き、叫んだ。
何も言わずに淳史はただ受け止めて、身じろぎもしなかった。
「うん」
そのやさしい声色に、文彦は歯を食いしばって泣いた。
「淳史……淳史!」
溺れるように名を呼んで、すがるようにその肩を叩いて。
そのうちに淳史の肩に指をかけ、顔を伏せて、しゃくりあげ出した。
淳史はしばらくためらっていたが、やがてそっと文彦の肩に手をかけた。そうすると、文彦の体は雪崩れるように淳史へと傾いてくる。淳史は驚きながら、その体をゆっくりと腕を回して抱きしめてみた。抵抗はなく、二人の体はやさしく寄り添っている。
「文彦が俺を嫌いでも……俺は、文彦が好きだよ」
淳史はおずおずとそう言うと、文彦の様子を窺った。
「淳史なんか……大きらい……大きらい」
すすり泣いてくり返す声は、かすかに甘えを含んでいて、指先は淳史の肩をぎゅっとつかんで離さない。
幼少から駄々をこねたこともなく、できる環境にもなく、安心して嫌々をすることも出来なかった文彦の、初めての激しい駄々こねだった。
淳史のシャツを握りしめて、文彦はその肩へと顔を伏せて、淳史の体にくっつきながら泣き続けた。
「うん」
淳史はそのまま、文彦の背をさすった。やがて、文彦は少しずつ落ち着きを取り戻し、そしてようやく淳史を目を合わせた。文彦の目は真っ赤になって、目元は腫れて、唇は呆然とひらいている。
淳史は、ゆっくりと話しかけた。
「俺は、文彦に信頼してもらえるように頑張るよ。そしていつか叶うのなら、安心して身を任せてくれるように」
「そんな日が、来なかったら……? 来ない、かもしれない」
「じゃあ、それを待ちながら隣で死ぬだけさ」
「莫迦言わないでよ……」
「別にセックスがしたいから、文彦のそばにいたいんじゃない。文彦がしたいと思うまでしない」
「う……ん」
文彦は戸惑いながら、ぎこちなくうなずいた。
「この刺青、どうしても嫌なら、消す方法もあるかもしれない――」
「えっ?」
文彦がパッと瞳をみひらいた。
「でもどうなんだろう――傷痕に色を入れているわけだし、手術しても痕は消えないとも聞いたな。墨がケロイドに変わるだけで――手術も痛いらしいし」
「そう――やっぱり海に入ったりはできないね」
「……」
恐らくこれを彫られてから、人前でいっさい下着を脱がなかった文彦のちいさな囁きだった。
「このままでも――下着で隠れる場所だし。俺と一緒に行けば大丈夫じゃないか?」
「そ……う? わからない?」
「ああ。前に傷を手当した時も、下着で隠れていたから、わからなかった」
淳史はためらいがちに、聞きづらいことを口にした。
「言いたくなかったら答えなくてもいい――公彦、とは、どうしてたんだ? 知ってたのか?」
「え……」
文彦は戸惑って逡巡していたが、やがてゆっくりと答えた。
「知らないよ……公彦とは、触れ合うことしか――俺は服を全部脱がなかったし……」
ためらいを含んだ、ひどくちいさな声だった。
「そうか……」
どれほどに文彦が隠し、覆って生きてきたのか。それほど恥じ、忌み、嫌悪してきたかの証だった。
「答えてくれて、ありがとう」
淳史は文彦の髪を、なだめるように静かに撫でた。
「これは――星だ。文彦の体に刻まれた、星の紋章。俺だけが見つけたもの」
淳史はやさしく微笑すると、何度も文彦の頭を撫でた。
夜明けへと向かう夜の底で、ベッドの上で肩を寄せ合って、じっと二人して並んで座っている。
「隣に、文彦がいるんだな。本当に」
「ん? うん」
「それだけで、いい。今、ここにいるのなら」
ふっと息を吐くと、淳史はそれ以上は何も言わなかった。
じんわりとしたあたたかさが、二人の触れ合う肩からつたわり、お互いの熱が広がっていく。無言の時間は長く、お互いの存在を肩のぬくもりから感じとって、時計の針は右回りに少しずつ動いていく。
「もう、こんな時間か」
淳史は名残惜しそうに呟き、溜め息をついた。
「家に戻って、出かける用意をしないと」
「朝早い?」
「まあ、寄るところもあるし。少し詰まってるな、最近は」
「ごめん、時間取らせちゃって」
「どうして? 俺が勝手に来たくて来たんだ。顔が見たかった。このまま置いていくのは心配だな――」
淳史がうつむいて考え込むのへ、文彦は泣き腫らした赤い瞳のまま、軽く笑った。
「別に、大丈夫だよ」
「俺が、安心したいだけだ。そうだ、約束をしよう。次に会える日の」
「約束……」
文彦はほそい指先で唇を引っ張った。それから、ふっと笑った。
寄り添って予定をくり合わせる二人の上に、やわらかく朝がやって来ようとしていた。
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