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第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)4
文彦が暴れ出したのを、淳史は驚いてとっさに力ずくで押さえつけた。そうすると文彦はますます手がつけられなくなり、大きく喚いた。
「殺……して! もう、殺して……!」
絶叫して、痙攣する。悲痛に顔が歪み、体はがくがくと揺れている。
淳史は覆いかぶさるようにして文彦の体を力で押さえこんでいたことに気付き、慌てて手をはずした。様子を見ながら、細心の注意を払ってそっと抱きすくめた。
「文彦、文彦」
「痛い……痛いよ……」
白い涙は幾筋と頬に痕をつけて、つたっていく。
「どこが――どこがだ? 文彦!」
痛かったのはこの「×」印を彫り込む時だったのか。それとも、体を無理にひらかれた時だったのか。
「痛い……痛い……」
文彦は錯乱して、何処に、何時、誰といるかも認識できていない。
乱れて額に貼り付いた栗色の髪を整えようと、淳史が腕を文彦の頭の上へと大きく上げた時だった。
頭上へと上げられた手に、反射的に文彦は体を海老のように丸め、瞬時に両手でガバッと頭をかばった。あまりに素早い防御反応に、淳史は絶句した。
暴力にあまりにもさらされた人間が、反射的に身をかばって、ふるえている。
「ごめん――ごめんなさい……」
文彦の何かが呼ぶのか、それとも文彦の容姿がおびき寄せるのか、あるいはそういう扱うのに難しく、誰もが避けたがるような客を弱みのある文彦へと押し付けていたのか――文彦には嗜虐的な客が多かった。抵抗は面白がられ、反発はより欲情を引き起こし、やり過ごすには相手を満足させるしかなかった。
「首……首は許して」
どのような行為があったのか、それは性的搾取をも超えて嗜虐的な行為にまで及んでいた。
「ごめんなさい……」
「文彦」
淳史は思い切り頬を殴られたような衝撃に、動きを止めた。やがて悲痛に顔を歪めて、歯を食いしばった。
「文彦の体は――」
唇はふるえ、拳は握りしめられた。
「文彦の体は、玩具じゃない……! 俺の、大切な――」
それ以上言えずに、淳史は泣いた。
淳史はてのひらで荒く頬の涙をぬぐう。
「時間を、戻したい……」
まだ戻ってこない文彦の意識に、なるべくやさしく腕を回して肩を抱いた。
「俺だ――文彦、いいんだ……」
何と言えば正しいのか――淳史はただ声をかけ続けた。
「文彦、どこが痛い? 何か怖いのか?」
忍耐強く、しばらくやさしく声をかけ続けると、やがて文彦の瞳がまたたき、深海の底から浮上してくるように焦点が合い出した。ほそい指は無意識に胸元をまさぐり、シルバーリングを握りしめ、それからふっと瞳の色が変わった。
「あ……淳、史?」
よるべないちいさな呟き。文彦はゆっくり凍り付いたような微笑の仮面を、顔にぴたりと貼り付けた。
肌を合せている淳史と、服をはだけられた自分の姿を見て、それからゆっくりと首を傾げた。
「あ……今から、したいんだよね? する?」
淳史は、意識が遠のきそうになって、文彦から手を離した。
遠のいていく淳史へと、文彦は闇のように沈んだ瞳のままで、ゆらゆらと揺れるように微笑し続けている。
「あ、でも……準備が何も……用意も何もないや……どうしよう」
うつむいて凍り付いた微笑でそうぶつぶつと呟き、反転するように顔を上げた。
淳史は狂いそうに痛くなった額を、指先で押さえた。
「あ、そうか。見た、んだ? あれ。興ざめした? 萎えた?」
「文彦」
「そう、だよね――汚かった? 醜い、だろう? そうだ――今までしたのも、嫌になったよね?」
淳史は止まったままで、すぐに何を返すべきかも口にできなかった。
「ごめんね。そう、だよね。しない、よね。俺には――」
笑い続けて、かすれた声で呟く。
この体はピアノに座り、その手は音をつむいで、その唇は物憂い旋律を歌うはずなのに、そのすべてはここではかき消され、潰され、叩きのめされている。
「そうじゃ――ない」
「そ……う?」
不思議そうに首を傾げている、ちいさな青白い顔。
「じゃあ……口で、しようか……?」
「いいんだ――文彦。もう、いいんだ」
淳史はてのひらで顔を覆った。
その目の前にあるのは、相手の欲望に従順であれ、奉仕せよ、隷属すべきだと――そう暴力と支配で、何度も叩きこまれて歪まされ、潰されて抑え込まれた文彦の心と体。
「文彦が、大切なんだ」
淳史が抱き込もうとすると、文彦はビクッと身を引いた。ちいさな顔は、かすかに恐怖の中にあって、ふるえている。こわばった微笑のままで、淳史の下肢へと機械仕掛けの人形のように手を伸ばす。その指を取って、淳史は握りしめた。
「もう、いいんだ。何もしなくていいんだ。もう誰も文彦を脅かしたりしない」
冷たい指先を、もう一度ゆっくりと静かにてのひらで包み、あたためていく。
淳史は、ふっと気付いた。
「文彦――もしかして、いやだって……言えなかった、のか?」
文彦の瞳は濁り、視線は何処をも見ていない。
「あのキスから……この間のセックスも――文彦の、本心は、どうだったんだ……?」
それは淳史にとっても怖くつらいことだったが、口にした。ここから進まなければ先は見えずに行き止まりはそこにある。
ついさっきの目覚めの「いや」という一回の言葉以外は、嫌だ、とも、止めて、とも言わなかった文彦の本当の心。
あまたの人間を受け止めなくてはならなかった文彦の、無理にかたちづくられた歪み。
「そうだ……文彦は、やめてとは一度も言わなかった……」
淳史は半ば呆然としながら呟いた。
文彦はくり返していたのだ。早く終わって、早くイって、お願いだと。それだけを懇願し、ただ淳史の満足と早く終結することを切願していた。
いつもそれは相手をうかがい、願って頼み、あるいは許しを乞い、早く終わることを哀願し、相手が充足して自分を手放すことを待っている。
「よく、こんな状態で――よく誰にも……」
もしかしてこの状態の文彦につけこむことも、誰かできたかもしれなかった。
「いや、そうか――あの噂が……武藤とのことも――よほど本気の人間でなければ簡単には近付かなかったのか……」
文彦の背後にいつもかすめていくように存在していた、武藤の沈んだ黒い影。
そしてたぶん、そういう真実のはっきりしない噂など気にせず情熱を持ってファンになっていたのは多く女性であり、文彦の物腰のやわらかな対応と微笑みは、純粋な憧れと応援が取り巻いていた。
文彦の傷の深さと、それを音楽にまで昇華する強さ――
大小はあれど男からのジャッジの視線、何らかの傷を受けた女性が、微細に文彦の何かに共鳴していた可能性もあった。
蔑視や妬みを受けても、強い風を切って、音を鳴らし最前を歩いていくバイドパイパー。後ろに続く人々のやわらかな心を守るように。
「文彦は――強い。誰よりも強い。言っていいんだ、文彦」
強く低い声で、淳史ははっきりと文彦に語りかけた。
「嫌だって、言っていいんだ」
淳史は握った手を、熱く強く握りしめた。
「やめて欲しいって拒んでいいんだ。文彦は強い。ちゃんと言える」
うつろな顔をして力を失った文彦の体を、淳史は壊さないように限りなくやさしく、そっと宝物のように抱きすくめた。
「俺を止めるなんて、わけない。ただ一言――文彦が、やめろって言えばいい。それだけで全部が止まる。それくらい、文彦の言葉は大切なんだ」
やさしく、たゆみなく、くり返す声。
「ちゃんと俺は受け止めるから――もう誰も怒らない。文彦の本当の心を聞かせてくれたら、俺はそのほうが嬉しい。何も怖いことは起こらない。嫌いになったりもしない。言っていいんだ。その心を大切にするから。約束する――文彦。俺の大切な文彦」
その声は澄んで静かに広がって、遠く懐かしいあの潮騒のように文彦の耳へと入って沁み渡っていった。消え入りそうなほど、ちいさな声で文彦は囁いた。
「淳、史」
「ここにいる」
「淳史……い、や」
かすかな囁きを、淳史は取りこぼさずに拾いあげた。
「うん」
「いや……」
「うん」
「いやだ……!」
蹂躙された悪夢の最初から、文彦が閉じ込めていた言葉。
言ってもどうにもならないと諦め、言うほどに惨めさに堕ちると、封じ込めていたもの。
淳史に握られた手はふるえ、物狂おしい瞳で、歯を食いしばって文彦は叫びを上げた。
「嫌だ! やめて!」
長年積み重なり、人らしからぬ扱いのむごさの中で、封じられて出口を失っていた言葉は、淳史の抱擁の中でほとばしっていく。
「もう――やめて! 助けて、誰か、助けて……ッ!」
「文彦!」
跳ねて痙攣する細い体を抱きしめて、淳史は泣きながら名前を呼んだ。
絶叫は壊れたように止まらずに、痙攣は淳史の腕の中で続いた。
どれほどの時間が経ったのだろう。淳史はしっかりと文彦を抱きしめて、ベッドの上で突っ伏し、二人は涙の中で溺れて沈んでいる。
はあはあと、どちらともつかない乱れた呼吸が、しんとした夜の部屋に響いていた。
「文彦……文彦」
淳史はそっと両手で青ざめた頬をかこみ、あたためようと撫でた。
「淳史……どこ……?」
ひどくちいさな、稚な子のようなよるべない声。淳史はハッとして起き上がり、真正面から文彦を見つめた。
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