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第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)3

「そんなことは……あるわけないよ」    文彦は淳史が言い出したことに驚いて、猫のように床を這ってベッドの端まで近づいた。  すとんとベッドを背に座ると、指を耳元でひらめかせ、どう説明するか考えあぐねている。 「淳史の音が頭の中でよく鳴ってた。でも、淳史のアルバムを聴いたところでステージに行ったところで、あの音じゃないじゃない?だから、どうすればいいのか……」  瞳を閉じて、てのひらで耳を覆い、まだ心の中にある音を反芻する。あの時の音を探し、感覚は乱れて、再び突き抜けてみたいと望んで。 (確かに、淳史は人の何かをを乱すな……) 「俺のことは思い出してないと思っていた」  長い脚を床に投げ出し、高い鼻梁の横顔は白い天井を仰いだ。 「そんなことよく言うね?」  文彦は軽い仕草で肩をすくめ、笑いながら再び目を閉じた。 「そんなことあるわけないよ」  淳史は、文彦が座っているそばへと近寄り、じっと顔を見据えて問うた。 「それは、本気で?」  長い指がゆっくりと確かめるように頬に触れて、しばらくしてから両手が頬を包んだ。その顔はいつもより血の色を透かせて、淳史のてのひらのぬくもりの中で、微睡むように睫毛を伏せている。 「――酔ってるな。水でも持って来ようか?」 「え? 大丈夫」  その答えを待たずに、淳史は静かに立ち上がった。  小さなキッチンまで行って、あたりを見回す。備え付けの食器棚をひらくとロックグラスが一つ置かれている。引き出しを開けると、箸とフォークなどのカトラリーが一つずつ、コンパクトな冷蔵庫はガランとしていて、何故あるのかわからないほどだった。コンロの横にウィスキーの瓶が一本、フライパンや鍋は見当たらなかった。  水道には浄水器は設置されておらず、かといってミネラルウォーターもない。  淳史はややあって、仕方なくロックグラスに蛇口から水道水を注いだ。 「皿とか、食器は?」 「え……何? 買ってきてそのまま食べれば要らないでしょ……」  ベッドの端の床に崩れるようにうずくまり、文彦はぼんやりとしている。 「あ、文彦。そこで寝るな」 「なんか……体が熱い。エアコン入れ過ぎだ……」  ふふ、と笑いながら文彦は指先をネクタイにひっかけてするりと解いた後、シャツの一番上のボタンを一つだけ外した。 「暑いのか? 飲み過ぎなのか、どっちだ?」  淳史はうすい肩を腕で抱いて引き起こすと、文彦の乾いた唇にグラスの水を流し込んだ。文彦はむせて咳込み、一筋だけ雫が唇からつたって落ちていく。長い指がそれを丁寧にぬぐって、グラスはローテーブルに置かれてカタンと硬質な音をたてた。 「不思議だ……淳史と、一緒にいた時みたい」 「今、一緒にいるじゃないか。俺は今、ここにいるだろう?」 「あれは……不思議な時間だった。知ることもないはずの、家みたいな……」  文彦の顎はゆっくりと落ちていき、酔いの中で微睡みは深く、微笑みは半分夢へと彷徨っている。淳史はその肩を揺すぶり、起こそうとする。 「文彦、ベッドに入らないと」  ぐったりと脱力しかかっている体を、何とかベッドへと押し上げる。掛け布団をかけようとして、文彦が眉をよせた。 「いいよ、暑い……」  人前で眠ることなどなかったこと――一週間ほどの淳史との生活の間で警戒心がほどけて、文彦自身も気付かないうちに心はひらいてしまっている。 「あの音を、探してた……それから淳史を……」 「俺を? 本当に?」 「ん……」  のばした指を、淳史のてのひらが逃さずにすくいとり、唇へと押し当てる。  そっと静かに、横向きになって眠っていく文彦の背中へと、淳史はぴったりと寄り添い抱きしめた。  ある真夜中の時間の一点で、時の針は奇妙にぐるりと回る。回り回って、ある一点で、また止まる。それは何度もくり返した動きで、慣性なのか揺らがない。  背中側に、文彦は人の重みを感じた。  頬にはシーツが当たって、ややうつ伏せになって背面をさらしている。その苦手な体勢とかけられた重みは、非常な不快感と嫌悪感を文彦に呼び起こした。腰回りは涼しく、素肌の腰をつかまれた感触、そこへとかけられた動きようのない重さ、すべてが不快さになって身じろぎする。  文彦の体は少しずつこわばり、顔は色を失っていく。 この後に起きることがたいてい決まっていたからだ。背中をさらして、腰をつかまれる。定まりに尻を割りひらかれ、激しい情欲を叩きつけられて、性のゴミ箱にされるのだ。  文彦は顔を歪めて、聞き取れないほどのかすかな声で呻いた。 「い……や……」  そう言ってしまったことに自分でビクッとして、文彦はようやく重たいまぶたを上げた。  背後には照明の影になった黒い人影、うつ伏せになって服をめくられてさらされている背中と腰、そこに触れられていることに文彦はぐうっと咽喉を鳴らした。この体勢になった過去の記憶に、文彦はふり戻され、もみくちゃにされて、低く呻いた。 「ウ……ッ」  霞む目でようやく認識したのは、その人影が淳史だということだった。 「あ……」  ウトウトとして眠ってしまったこと、そして今この部屋には淳史がいるのだということを思い出す。  それから、文彦は自らの有り様を目にした。シャツはボタンを外され、はだけてめくられて、なだらかな背中をさらしていた。胸も素肌を見せて、そこには銀色のチェーンとリングがあらわになっていた。ずらされたズボンはひんやりとした空気に腰から尻の半ばまでをさらし、淳史がそれを見下ろしている。 「淳、史。どうして」  その声に感情はなかった。  淳史もまた、声を失って、二人の時間は止まり、何をも発さない。  言葉にするすべを、淳史は完全に失ってしまっていた。文彦の肌の上にあったものの衝撃に、動きも思考も停止してしまったようだった。  文彦の顔が歪み、堕ちていく――ひた隠しにして、決して見せなかったもの。  さらされた素肌にあった、それ。尻の割れ目の左側に、てのひらほどの大きさに青く彫られた「×」印。  刺青、と言えるほどの精緻なものでもない。  乱雑に、青くにじんで、荒く肌に彫られ染め上げている。  それは思いつきのように、いたずらのように、からかい半分に、冗談半分に。まるで面白がって揶揄して、文彦の肌を傷つけ、マークしている。 「う……わ……ッ」  かすれて行方を失った、弱々しい声。ただ目をみひらいて、淳史を凝視し、そして光を失っていく。  恐らく、この尻を背後から割りひらいて、欲望を挿入して動かせば、このバツ印も全貌が見えて一緒に動くのだ。文彦を征服して、蹂躙して、そうすれば一緒に揺れて。 「う……」  淳史は、てのひらで口を覆った。あまりに、むごかった。  そこに、人の尊厳も、人格の尊重も、何もありはしなかった。  ただ性の対象として、文彦の音楽性も精神性も、何もありはしない。 「これで――だから、ずっと……脱がなかったのか」  どうして文彦がシャツを脱がなかったのか。傷の手当てをした時は、医師に任せていたし、下着に隠れてみえなかった。その後の二人の時間に、たとえ性交しようと、どう意識があろうとも巧妙に淳史には見せなかった。終わればシャツを握りしめて、すぐに足早に去って。  だが、過去にはそうできずに、ずっとさらし続けていただろうことは容易に想像できた。文彦を想う相手のやさしい気遣いがあって、初めて隠せるものだった。  淳史が青ざめながら、吐き気を抑えて腰へと手を伸ばして触れると、文彦は正気を失ってバネ仕掛けのように跳ねた。 「う……あ、あぁッ!」

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