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第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)2

「なあ、文彦」 「うん」 「文彦にはわからん」  何も言葉を挟まずに、文彦は身じろぎもせずじっと竜野の言葉を待った。 「俺かて、音楽に携わってない間は死んどった。なあ、どうするん? お前には才能がないって、はっきり突き付けられたら。才能なんかみじんもないゴミやって言われたら。俺もアホやないから、薄々はわかってるんやで。でも、人から突き付けられるんは、違う。もう、ここから去るしかなくなる。隣で、誰かが成功するのを心穏やかに送り出すことも、もう出来ひん。才能ある人間を見守ることも、もうきっとつらい。それでも続けていく自信なんかない。今のままなら、ここに居れる。店の人間として」  竜野は面長の顔で、間延びした笑顔を見せた。 「文彦は正直やん。悪くない。それが、俺や。良い、とはならん。同じ土俵には上がらへん。もうオッサンやけど、中身は少年やねんで。わかっていても、ちょっと夢見てたら生きていけんねん」  のんびりと、しかし明け透けに語っていく竜野の言葉に、文彦は何も差し挟まなかった。ただ耳を傾けて聴いている。 「俺には歩かれへん道を、文彦が。そしてまた文彦とも異なる道を、セイが歩いていく。それを見届ける役割もいるやん? そうできる大人でいたいねん」 「でも」  文彦は竜野が話し終えて、しばらくしてから口をひらいた。 「いつかバスが来るかもよ?」 「何や、それ」 「人生でごく一瞬だけ通り過ぎるバス。何年待つかもわからない――でも、もしも、それを見過ごさない目と運があったなら、乗る準備と勇気があったなら。竜野さんは違う景色を見られるかもしれないと俺は思うよ」  竜野は少し間をおいてから、うっそりと笑った。 「まあ、ありがとうな。慰めでも嬉しいわ。そういう文彦はどうしていくねん」 「俺ね。今は、ただ何か足りない。さしていえば、スプリング・ジャズ・コレクションの選抜と監修を依頼されて、受けるか迷ってるかな」  カウンターの上で腕組みし、文彦は珍しく酔いの回ってきた頭を少し傾げた。 「なんで? 受けたらええやん。あれやろ? 学生、社会人、アマプロ問わずでオーディション受けて、合格したのだけが出られるやつ」 「俺がそんなの決めていいんだろうか」 「そんなん、文彦はモードに入ったら容赦ないやん」  竜野は苦笑とも驚きともつかない笑い方で、半ば呆れたように文彦を見た。  どう説明して良いのか文彦はやや逡巡した。 「そう? 何か……こうして現実に生きている自分と、その時の自分は違う気がする。世界より半音高い扉をひらいて、その向こうに行かないと」 「でも、その時になったら、忘れてるやろ?」 「そう……かもね」 「なら、きっとやれるわ」 「こういうのこそ、竜野さんに向いてる。いつもやってることじゃない? 誰をセッティングして、人の配置も曲の傾向もバランス取って」 「ま、俺にはネームバリューはありませんから」 「そんなもの、俺にだってないじゃない」 「アホいうてるわ。そうや、それ、セイも出てみたい言うてたなぁ」 「そうなんだ? へえ……セイが。そうか」  文彦は無意識に指先で唇を引っ張って、しばらく考え込んだ。  もう言葉を発さずに竜野が様子を見守っている中で、グラスの氷だけがカランと回って音を立てた。 (今、セイと演ったらどんな感じだろう)  まだその機会はなく、疑問だけが文彦の周りをぐるぐるとしている。  ミスティを出て帰路につき、文彦は酔いを冷ますように自宅の近くをふらりと歩いた。ポケットに指を引っ掛け、冷たい空気は頬を、髪を、コート越しにも体を冷やしていく。  見上げれば、冬の夜空。冷たさに澄んで何処までも続くような星月夜、ちかり星がまたたいている。文彦はそれを取りたいように、一つ一つ指さしていく。しばらくそうして指遊びをしていたが、ようやく駅前のアパートへと足を向けた。  オートロックもないアパートの一階、自室になっている奥の角部屋の前を目にして、手の中でチャリンと鍵を軽く転がす。しかし、ふいに文彦は足を止めた。ドアの前で黒い人影が立っているのに気付いたからだ。  文彦は何か言葉を発しようとしたが、舌は貼りついて何も出てこなかった。  何か行動を起こす前に、相手が先に文彦に気がつき、顔を上げた。幾筋か黒髪が落ちた秀でた額がインテリな印象を与えている。長身はサックスのケースを肩からかけたまま、片手で薄い色のサングラスを外した。  二人の数メートルの間の、その距離は短いようで呆然と長かった。  文彦は立ち尽くしたまま、その先へは一歩も動けなった。  求めていた音、それを奏でるひと――  ただの音楽仲間なら、このまま音楽論を交わして、共鳴した感性を語って、文彦にとっても何かを始められたかもしれなかった。かつての清忠のように、あるいはセイのように。  しかし、ここではそれ以上の情熱がからまっていて、その中へと踏み込む恐れは文彦にとってぬぐい難いものだった。 「淳、史――何か……用でも?」  なるべく何でもないように軽く肩をすくめ、かすれた声で言った。  それへ舞い降りた答えは、囁きに似て、これほど真夜中にしんと静かでなければ聴こえなかっただろう。 「会いたかった」  何を言ったのか判じかねて、文彦は瞬時に返す言葉を見つけられなかった。  また沈黙が落ちて、ひんやりと冷たい冬の夜の底へと沈んでいく。紺のコートに同色のズボン、クロムグリーンのなめらかなニットをまとった長身を眺めながら、文彦がふいに思い出したのは、きっと近くに寄れば漂うだろうウッディな香り。  その香りを知るほどに近くにいた姿に、文彦は今はそばに寄ることもためらわれた。 「廊下にいたら、目立つよ」  この誰も通らない夜にくだらないことを言っている――と思いながら、文彦はドアに近寄り、キーを差し込んで回した。すぐ隣に立つ姿を見ることもできずに、文彦はドアの中へと入っていく。  ドアは開け放してあるのに、文彦の後には誰も続かなかった。文彦は怪訝に思って振り返り、廊下に立ったままでいる淳史の、グリーンのニットの胸元あたりを見た。 「淳史、入らない?」 「いいのか?」  切れ上がったまなじりは、真正面から文彦を見据えている。 「それは、もちろん――こんな夜中に」  照明をつけてから文彦が頷いて手招きすると、淳史はようやく部屋へと入ってきた。後ろ様に文彦は鍵をかける。 「ミニマムだな」  淳史は部屋へと入ったところで、コートを片腕にかけて立ち尽くしている。 「そう? ありがとう」  壁際に黒い防音ボードと黒いアップライトピアノを置いた、簡素な一DK。入ってすぐ左側の壁際には簡易キッチン、右手にシングルベッド、後は簡単なクローゼットと立てかけてあるミラー、そして防音ボードの前のピアノ。白い部屋は特に装飾品もなく、全体的に人が使っている生活感がなかった。  自分の部屋であるのに息が詰まるような感じがして、文彦は肩をすくめた。淳史との二人の空間はなんだか狭いように感じられて、確かな存在感がそこにあった。 「ごめん、適当に座って」  淳史はベッドの前の小さいローテーブルの前の床に座り、コートや荷物を静かに下ろした。つと、テーブルの上にあったエアコンのリモコンを手にする。 「エアコンつけようか? 冷えただろう」 「え、うん。ありがとう」  淳史は手早くリモコンを押して、迷わずに温度調節していく。  文彦はコートを脱いでから、何処にいるべきなのか迷い、結局はピアノの前へと座って、所在なさげに膝を抱えた。淳史が部屋の真ん中にいるだけで、すでにここは文彦の部屋ではないような感覚がして、文彦は何度か瞳を瞬いた。 「文彦、部屋に入れてくれてありがとう」 「え、何が?」  急にかけられた言葉に、文彦は面食らって戸惑った。 「いや――もう文彦は俺のことを嫌になったんじゃないかと思って」  淳史はそれ以上言わずに、じっと目の前のローテーブルを見つめていた。    

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