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第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)1

 カウントダウンで始める――「テイク・ファイブ」  五拍子は曲名にも絡んで、エキゾチックさも秘めて進んでいく。  ミスティで定期的に開催される、恒例の飛び込みライブで、文彦は今日は足りていないピアノのパートを担った。最近、名前の上がりつつある高澤文彦と演奏できるかもしれない――それもミスティの飛び込みライブの売りでもある。  ピアノの前に座って、文彦は袖をまくり上げた白いシャツ、黒いスキニーパンツに地模様の細かな黒いシルクタイ――テイルノットに風変わりに結んで――幅広の金の透かし彫りの腕環を嵌め、次々とコードをつけていく。  今夜はサックスとベースが女性、ドラムはロマンスグレーの男性客で構成されている。文彦の影響もあってか、ミスティの客層は比較的に女性が多い。 (ここはタンギングで止めて――安定したアンブシュアで)  指はひらめくように音を紡ぎ出していく奥底で、心は無意識にサックスを追っている。  今日限りのメンバーで、誰もが基本的に押さえているスタンダード・ナンバーで曲は構成されていく。 (足りない……前よりもっと) 「クレオパトラの夢」  宣言のようにそう告げて、文彦は曲移りに準備する三人の姿をちらりと見やる。  そのまま間合いを取らずに最初のピアノのイントロを引っ張って、「クレオパトラの夢」へと展開していってしまう。他の楽器は引きずられるようにして、文彦に続き、その後を追っていく。 (足りない)  圧倒的なピアノが激しくくり出し、広げられ、文彦がピアノのアドリブを担ったところで、他はバーンアウトしてしまい、音は相当に乱れた。 (しまった)  ハッとして顔を上げて、曲の終息に向けてピアノでまとめて弾き上げた。  しかも「クレオパトラの夢」はピアノ、ベース、ドラムのトリオ曲なのだ。それなりに経験と腕があればサックスが入って音をつけることは出来ただろうが、今日はそういう場ではない。  ちゃんと相手を見て、相手のレベルや調子に合わせてやるべき場なのだ。自分の演奏だけをするのでも、腕を見せるのでもない。基本的な音楽の楽しさと、誰かと演り合う喜びを知ってもらう時間――調和して、足りない部分を補足して引き上げるのが文彦の役割と言ってもいい。 「『セイ・イット』、大丈夫?」  今度は顔を見て確認してから、微笑を投げかけ、ラスト曲をスタートさせていった。 (アタマが、もつれるな……)  すでに深更の、店も閉店へと向かっていく夜の時間の中で、カウンターの上でバーボンの氷がカランと溶けた。  先程まで取り巻くようにいた女性客たちも、軽やかに物腰やさしく文彦が会話を返しているうちに、夜も深くなって少しずつ帰っていった。  演奏では、途中に気を取られて、全体のレベルを見失って音を乱したが、それでも、客席からは文彦の熱気に打たれてワッと拍手があがったのを思い出す。  以前はまだここまで苛々と自失するほどのことでもなかった―― 「文彦」  足音もなく近付いて、黒い影のように隣のスツールへと音もたてずに座ったのは、サングラスにオールバックの黒髪、三つ揃えのダークスーツをまとった武藤だった。 「武藤さん」  文彦は少し疲れた様相で、気まぐれにふらりと現れた隣の武藤を見た。 「怪我したと聞いたが」 「それはもう大丈夫だよ。ありがとう」  そう言えばもう何も聞かない武藤の、横顔は引き締まって厳しい。 「変わったな」  変わったんじゃない――文彦は何も答えずに睫毛を伏せた。物足りなくなったのだ。  糠に釘とでも言いたいような物足りなさが、文彦の指には未だに残っている。 「清忠みたいには、やれないな。誰かを導くようには、俺には」 「それは誰相手にもできるわけじゃないだろう」 「そういう――もんかな」  静かに沈黙が落ちた。  文彦の体に残る物足りなさに原因があるのならば、それは確実に淳史のせいだった。  ピアノに向かって均衡を取るべき場で、心の彼方で押し寄せる狂騒を待っていた。あの雷鳴のようなサックスにさらわれ、引き立てられ、争いながら自らのピアノで制御させてみたかった。  だが、その狂騒はやって来なかった。 (それは、そうだ)  淳史の部屋を出て来てからしばらくして、文彦は淳史のマンションを訪れていた。  両手をポケットに突っ込みながら、見覚えのあるエントランスで部屋番号を探し、萩尾と銘打たれた郵便受けを見つけると、そこへ封筒を押し込んだ。  文彦なりに服の値段などを調べて、多めに札を入れてきた封筒だった。現金書留にするのか迷ったが、結局は郵便受けに突っ込んだ。何かメモなり入れようかと逡巡したが、強い癖字がいやになって文彦は書くのを止めた。はねの長くなりがちな字は、文彦の特徴だ。  それだけで去って、再び行くことはなかった。  しばらくして、ミスティと同じリフレイン・ストリートにある老舗ジャズクラブのキャナルに淳史が出演すると聞いて、足を運んだこともあった。しかし、かすかに洩れ出た音を聴いて、その中へと入ることはできなかった。  結局は、違うのだ。  あの時の、あの嵐に押し流されて、二人で抜けていった、あの音は所詮そこにはないのだ。  ためらいは足を止めた。  日は過ぎて、そして今日もまた、軽い失墜とともに曲は終わってしまった。 「珍しいな、清忠のことを口にしたのは」 「少し、思い出すことがあって」  やや間をあけて武藤は、誰に言うとでもなく呟いた。 「最後まで人生やってればそれでいい」  武藤はブラックカーフレザーの腕時計を見ると、すいと立ち上がった。  恐らくはあまり時間に余裕もないだろう武藤が、去っていくのを文彦は静かに見送った。  しばらくぼんやりしていた文彦は、気が付けばバーボンのグラスも空け、店も閉店間近に客も帰っていっていたのをようやく目にした。 「何杯目? えらい飲んでるやん、今日は」 「ごめん――今日は役立たずで。店のこともしてないし、飛び込みライブもあれじゃ営業妨害だな」  竜野は何を考えているのかわからない間延びした顔で、カウンターの向こうでグラスを拭き上げては吊り下げている。 「そんなん思ってたん? まあセッションも生き物やから、色々あるやん」 「でも俺が一定水準は調整しないとね」 「そうか。それは、ええ心構えやと思うけど。文彦にもそういう立ち位置やと自分を認識できていることが」 「え?」  文彦は意味を問うように眉を寄せ、竜野の笑うとも生真面目だともつかない表情を見つめた。それから、文彦はふいに思いついたように、ゆっくりと言った。 「竜野さんは、さ。いつ、本気になる?」 「えぇ? 何や、それ」 「竜野さんのドラム、悪くないのに。音を聴く耳だって持ってる。セイを引っ張ってきたし、こうして店でセッティングもして好評を得てる」 「さあ、文彦らみたいな土壌では戦わん。俺には分がないやんか。いずれセイも飛び立っていく。そら、俺かて夢見てた頃はあったけど。大学くらいまでは――」 「今は?」  そう問う文彦へ、竜野はふっと遠い目線になって言った。 「就活が始まって気付くんやで。これでは俺は食っていかれへんて」 「食って――? そんなの……」 「文彦みたいな野垂れ死んでもええ変人ばっかりちゃうんやで、ほんま。こっちで就職して、でもなんや一度は関西に帰ったわ。会社も変えて」 「その頃の竜野さんを見たかった。俺にとったら、ちゃんと会社で働けるってすごいことだよ」 「笑うネタにしよ思てるやろ? ほんでも、その間は、俺はなんや死んどったわ。同僚が昇進やら昇給やらしていく中で、入られへんねん。そういうのが嬉しい思われへん。これが天職! いうて、生き甲斐になっとった奴もおったのに。でも俺は違うねん。それだけ、わかった」 「うん」  文彦は遠くを見ている竜野へ、静かに一度だけ頷いた。 「なんでやろう。それがあったからこうして店できてるんやけど。結局は音楽に戻って、またこっちに戻ってきてしもた。その時に、貯金全部はたいてミスティを始めたんや。まあ、その時は、俺かて野垂れ死ぬ覚悟やったわ。店ゆうて、開業資金、当面の運転資金、そらビックリすんで。営業利益は入らんのにどんどん出費だけしていくやん。そんでも仕事しとったんが役立ったんかな。俺にとったら、それからすぐに文彦が来てくれたんが運やった」 「俺が? はは、運の尽き?」 「いいや、看板になってくれたやん。文彦がおってくれたから、他店との差別化になって固定客もすぐについたし」 「それは、俺じゃないよ」  空になったバーボンのグラスを片手で回しながら、文彦は睫毛を伏せて笑った。それから気になっていたことを竜野へ尋ねた。 「竜野さんはドラマーとして、この先には挑戦しないの?」

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