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第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)9
淳史はようやく安心したように、栗色のやわらかな渦巻く髪の中へと顔をうずめ、そのまま静かに目を閉じて呼吸している。
「こうすると、落ち着く」
「可笑しな人だね」
「そうなんだ」
そこで二人はようやく、さざめくように笑い合った。
「これも、文彦に持っていて欲しいんだ」
「え?」
淳史はポケットから、一つのキーを取り出し、それもリングケースとともに文彦の手に握らせた。
「俺の部屋の鍵だ。何かがあっても、何かがなくても――いつでもいい。文彦が来てくれたら嬉しい」
「こんな大切なものを人に渡すなんて、危ないよ。ちゃんと淳史のいる時にしか行かないから」
「いいんだ。俺が持っていて欲しいんだ。文彦のことは信じているし……心配だから」
最後のほうはごくちいさく、ともすれば木々のざわめきにかき消えてしまいそうな囁きだった。
どうすればよいのか、リングケースとキーを手に持ったまま戸惑い、逡巡の中で動きを止めてしまった文彦に、淳史はパッとその手をつかんだ。そのまま贈った二つのものごと、文彦のコートのポケットの中へとぐいと突っ込まさせた。
「淳史」
文彦のその先の言葉を遮るかのように、淳史はふっと体を離し、数歩進んでまったく違う話題を投げかけた。
「年が明けた一月の中旬に、アメリカで演奏するんだ。ニューヨークに日系のジャズクラブがあるだろう」
「ああ、あの――へえ、すごいじゃない」
「すごいと思ってる声か。相変わらず興味がないな」
「そんなことはないよ」
「色んなプレイヤーと混ざって、メインが佐田川清忠。オファーがあって、一緒にプレイする」
「えっ、清忠と?」
文彦は驚いて顔を上げ、淳史の端正な横顔をまじまじと見た。
「清忠……」
すでに過去にした人物が、現在に隣に立っている人物と交わる、図らずに浮かび上がった偶然。文彦は、遠い目をして横を向いた。
「清忠は、どうしているんだろう……もう俺のことは忘れているだろうけど」
ある日、何も言わずに突然に逃げ去ってしまった、昔の短い一時のピアニストなど。清忠の確かで厚い実績の間では。
「まさか、そんなことはないだろう? 文彦がもしも休みさえ何とかなったら見に来ないか? ニューヨークも一緒に少し回って」
「アメリカ……」
それは文彦のルーツの一部でもある。見知らぬ母親の血の一部が縁した地に、文彦は訪れることがあるとは思っていなかった。たった今までは。
ぐるりと歯車は動いて、文彦の背で見えない輪が動き出す。遠くを見つめる瞳の中に、抵抗と誘惑がせめぎ合っていて、やがて誘惑と好奇心に敗けて心折れた。
「アメリカ……見てみたいな……」
「一緒に行こう。パスポートを取っておいてくれたら、旅券は手配しておくし、席の予約も取っておくから」
「ありがとう。こういう時に思い切って貯金下ろさないとね」
文彦は軽く肩をすくめて笑い、淳史はやや複雑そうな顔をした。
「寒いな。もう、行こうか」
踵を返して、それきり話を切り上げて、来た道をいつになく足早に帰ろうとする淳史を、文彦はぼんやりと見つめた。ふっとうつむいて、ポケットの中に手を突っ込む。そうすると、左の指先にはリングケースとキーにぶつかった。
文彦は一瞬、唇を引き結び、それから息を吸い込んだ。
「ねえ、淳史!」
文彦はよく通るテナーで声を上げた。
「こうすると、この景色によく合うね。すごく美しくて。ありがとう」
文彦が左手を大きく空に向かって掲げると、開けられたリングケースの中で、午後の日差しを受けて金色にきらめく指輪。空から湖への映し合うようなブルー、木々の濃茶や葉の色のコントラスト、青空から白い雲を割りひらいて光遥かに広がる下で、金色にくるめいて細やかな輝きを放っている。
伸ばされた文彦の左腕で、ねじり合わされた三本の細い金環は、揺すられてシャランと鳴った。文彦の栗色の髪は日に透けてあわく、瞳は澄んでまたたいている。
淳史は振り返ったまま、衝撃に打たれたように立ち止まった。
金色のちいさな輝きをまとう白い姿は、その景色の中に溶け入って、光に照らされて燦然と地面に立っている。
光は射し、風は過ぎ、水はさざなみを起こして、一面は牧神の午睡のようにいつ果てるともない無限。文彦の腕の金環とともに、かすかな音は律動している。
「行こう」
低く強い声だった。
淳史は文彦の腕をいつになく強い力でつかむと、大股でどんどんと来た道を帰っていく。
下りのケーブルカーの中でさえ、淳史はうわの空で、頬に手をあててじっと考え込んでいる。文彦はその考えを邪魔することなく、大人しく横についていた。
ようやく車に乗り込むと、無言で車をだし、スピードを上げて淳史のマンションへと帰りを急ぐ。玄関に入るなり、靴を脱ぎ捨てて足早に防音室へと直行した。
バサバサと辺りを探し、テーブルの上を払い落とす。それから思い直したように顔を上げて、グランドピアノの横のオーディオを録音にセットし、淳史は手早くサクソフォンをつかみとると、唇にあてた。
文彦が防音室へと追いついた時には、すでに伸びのよく動きのある音が、腹に響く音量で鳴っていた。
後ろ手に閉めた扉にもたれて、文彦は睫毛を伏せて、しばらくそのフリーインプロビゼーションを聴いていた。やがて足音もなくピアノの前へと座り、黒い艶の蓋を押し上げて、鍵盤へと指を落とした。コードをつけていくと、サックスの音に、ゆるやかな変化がある。
(ああ)
それはやがてビックウェーブとなり、押し流そうとするものと、そうされまいとするものの、反発と、ひそかな許容を押し隠したぶつかり合いになった。その音は不協和音になるギリギリですいと浮上し、浮遊して漂い、それからまた緊迫していく。
テーマは突き抜けて響いて、音はこまやかに輝き、奥行きをもって広がった。
ピタリ、と終わってから、淳史はオーディオに手を伸ばした。それから、テーブルの上に持ってきた資料に書き込みながら、舞い降りた神託のようにはっきと告げた。
「ゴールデン・サンライト」
文彦はピアノの椅子から滑り落ちるようにして、部屋の隅へと静かに座った。
淳史は譜面に書きつけ終えて、しばらくしてから、隅で膝を抱えている文彦にようやく気が付いた。
「文彦」
「いるよ――終わったの?」
「とりあえずは」
「そう。じゃあ、もう一度聴かせて」
ひっそりと瞳を閉じた文彦の、初めてのリクエストを、淳史は断らなかった。
淳史がさっきの演奏にさらにアレンジを加えてサックスを吹き出すと、文彦はもう動くことなくゆっくりと微笑を浮かべた。
二人の記憶が多く重なっているこの部屋にも、やわらかな午後の日差しは当たっている。
(そう、ゴールデン・サンライト――)
文彦はその時間を忘れない、と淳史の旋律の中へと身を委ねながら思った。
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