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第八章 レフト・アローン(music by Mal Waldron) 1
日々は年末へと押し迫り、文彦の生活さえもやや慌ただしさに呑まれていた。
(珍しい話だ。俺が人らしく忙しいなんて。ミスティに居るからかな)
近年、年の瀬になると思う感慨を、文彦は今年もまたくり返している。
二十五日が過ぎるとショップや街並みはあっさりとクリスマスを脱ぎ去って、夜に尽力した成果を見せて正月ムード一色に塗り替えられている。クリスマスソングはかき消えて、水面下で進められていた年末年始への装いが一気に現れる。
お飾り、お餅、正月に関わるものが早くも売り切りへと入っていく商品もあり、おせち料理の受け渡し、仕事納め、家では大掃除、冬休みとなって日中に子どもたちの姿も垣間見え、寺社には参拝客を見込んでずらっと屋台の準備がされる。
帰省や旅行のために道路も交通量が増え、電車は乗車率が軒並み上がり、街角やテレビの特別番組からはざわめきが溢れている。
そのどれもが、文彦の周りを行き過ぎ、つるりと滑っては落ちていく。
クリスマスも、正月も、文彦にとってはただの一日にしか過ぎない。
家に帰ってしまえば、過ごして来たどの日とも変わらない。逆にどうして、それほど他の日と違わなければいけないのか、そのほうが疑問だった。
ただ竜野が店内の装いを変えるのを手伝ったり、その季節に合わせたステージスケジュールにするのに入っていくと、おのずと忙しさを増してしまうのだ。
(こういうのが、生活、仕事……なんだろうか)
ふっとした感慨は、竜野を身近に見ていると湧き上がってくる。
竜野を見ていると、自分にはとても店の切り盛りなど出来たものではない、と感嘆をも込めて文彦は思うのだ。客の前に立っていれば良いのではない、煩雑な手続きや仕入れの決定、取引先や多くのプレイヤーたちとの外交的な交流、常連客や新規客を見分けての朗らかなやり取り。
地に足のついた様は、面長の顔で間延びした様子からは想像のつかない、しっかりとしたものだ。独自に情報網も精通しているし、文彦の預り知らぬところで、竜野は色々と動いているのだろう。
(こういうのが、大人なのかもしれない)
だとしたら、自分は何なのだろう――
文彦は、閉店間近のミスティの奥で、鞄からスマホを取りがてら、一緒に放り込んであったパスポートを両手で握った。袖をまくった白いシャツに、黒い細身のベストとスキニーパンツ、タイは奇妙に結び、腕には透かし彫りの金の腕環で、ステージ後の姿のままだ。
パスポートを取るのでさえ、久々に煩雑な手続きに感じてしまった文彦は、人々がこうして当たり前のようにこなしている生活を、ガラスの向こう側のように遠く感じてしまう時がある。
(アメリカに……行くのか)
そんな自分の、何かを探して。
何か見つかるかもしれないし、何も見つからないかもしれない。
未だ見ぬ親、どうやって産まれたかも真実は判然としない、己は何者なのかも奥底では定かではないのだ。
(俺は、誰だ)
何者でもない自分。
それは結局、公彦と出会ったあの日から、大して変わっていないのではないか。
(そんなことを、探してどうする――きっと何も、変わらない。今さら、この俺から、何も変わりようがない。よろよろと生きている以外にどうしようもない)
頭が割れるように痛くなって、片手で髪をかき乱して、文彦はパスポートをまた鞄へと押し込んだ。
(最後まで人生やってればいいんだ)
ふいに武藤が放った言葉が、文彦の脳裏に響く声でよみがえった。
(武藤さん、そうなの? それでいいの――武藤さんも、また)
もしかしたら多くの人たちには理解されない昏い感慨を、文彦とはまた違う重さで武藤は背負っているのかもしれなかった。
「文彦」
カウンターのほうから竜野が呼ぶ声がして、文彦はスマホの画面を見て、何もメッセージがないのを確認してから立ち上がった。
クリスマスには、淳史からメッセージが届いていた。
ライブ中で、店が終われば真夜中になったため、文彦は何も返さなかったが、「メリークリスマス」と書かれた文字が自分へと送られたことに、文彦は不思議な感覚にとらわれた。
日々の疲れの中で、その不思議さは押し流されて、文彦はただ自分の物思いに深く沈みがちになっていた。
「ちょっと、セイを送ってくるわ」
「あれ、珍しいな」
三十日のミスティの年内の最終日に、いつもより早い時間に閉店にしていて、店内はすでに客の姿はなかった。
カウンターに突っ伏しているのは、いつもは敏捷で生気に溢れているはずの姿――浅黒い肌は冬の装いに覆われ、色褪せたダメージジーンズで、明らかに酔いが回った様子だった。
「セイは人前では酔わないのに」
「まぁ、色々と悩む歳やわなぁ」
「若き青年の日の悩みだね」
軽い仕草で文彦は見守るように微笑し、肩をすくめた。
「竜野さんには気を許してるんだろう。まあ、誰だってそうかもしれないけど」
「どういう意味や、それ」
笑いながら冗談ともつかずに文彦は言うと、竜野は間延びした声で笑い返した。
「あ、文彦」
伸びてしまった長い前髪からのぞく一重のアーモンドアイがひらくと、酔いの中でも野性味は失っていない。
「ん? どうかした?」
文彦は隣のスツールに滑り込み、兄のような眼差しでセイを見つめる。
「何でもない」
そう言いながら伸ばされたセイの手を、文彦はすくい取ってしばらく握っていた。
ややあって、ゆっくりと歌うかのようにセイへと静かに言葉をかけた。
「セイは、セイでいいよ。高く飛ぶために、後ろへと引かないといけない日もあるけれど。それは、必ず次のステージへと行くためだから。それは、誰にも見えないんだ。自分の感性は、自分で守るんだ。誰に何を言われても、自分に恥じないことを。セイは、そうしてるんだろう?」
何度もうなずくセイは、そのままぎゅっと両目を瞑った。
文彦の眼差しはやわらかく、年若いジャズシンガーの友人を見守っている。
「セイ、ほんまに寝てしまう前に帰ろう。そんなでかい子どもは担がれへんで」
「はは、それはそうだな。ここは、閉めておくから。安心して送ってきて」
「いや、また帰ってくるわ。閉店だけ頼むわ」
「うん、わかった」
文彦はカウンターへと回って、セイの前にあったグラスを引き寄せながら、セイに肩を貸して店を出ていく竜野のひょろりとした背を見送った。
間もあけずに、一人きりになった店内に、カラン、と扉がひらく音がした。
顔を上げて、文彦は大きな瞳で来客を真正面から見た。
「もう閉店なんです――」
そこで、文彦の声は途絶えた。カウンター越しに見た、扉の向こうにいる姿。
夜の街のかすかなざわめきを背に、扉に手をかけて、在りし日の幻のように立っている。
――そうして、文彦は幻影の女の訪いを受けた。文彦の記憶の中ではその瞬間にあまりに鮮烈に留まっていて、あまりに現実感を得られなかったのだ。
何のことはない姿だ――そのはずなのに、それが今でも苦く、文彦の舌の奥には痺れるような感覚が広がっていく。目の前の景色は一気に旋回し、眩暈に襲われた。
ジーンズにブーツ、ラフにぐるりと巻いた白いマフラー、ショートヘアは首筋に無造作に渦巻き、きっぱりとした唇はどこかで見覚えさえある。それは恐らく、彼女の兄に似ているのだ。そのはっきりした眉も、何気なく立っている存在感でさえも。
違うとするなら、年齢よりも昏い瞳の光がバランスを欠いていて、困じ果てた子どものように見せてしまう。
「高澤文彦さんですか?」
囁くようなハスキーボイスだった。文彦はややあってから、答えを返した。
「そうです」
「初めまして――突然、不躾に申し訳ありません。ご存知ないと思いますけれど、佐田川侑己と、言います。佐田川清忠の妹と言ったら、おわかりになりますか?」
そんなことを言われなくても、文彦はその扉に現れた一瞬から、それが誰かははっきりとわかっていた。
どうしても忘れられない、目にした瞬間はあまりにも短かったはずなのに、年月を越えて一瞬でわかってしまう。
「お伝えしたいことがあって――でも年月が経ちすぎてしまったので、迷ってしまって……どうしたらいいのか……あなたにお尋ねするしかないと思って、今日、ここへ来ました」
紡がれた言葉はエコーのように、文彦の耳の奥で鳴り響く。
「どんな、ことを?」
それは恐らく一つしかないのに、文彦は乾いた唇で問うた。
「伊佐公彦のことを」
侑己の唇からその名前が投げられて、文彦は体のすべてがバラバラに解体されていくような感覚に落ちた。唇を動かそうとしたが、微動することもできなかった。
「お伝えしても、いいですか? 私自身があれから、少し表に出にくかったもので……日本にもあまりいられなくて――日が経ち過ぎて、こんな年月になってしまった。申し訳なくて、なかなか勇気が持てなかった」
とつとつと語る声はためらいがちになり、しかし真剣な眼差しは変わらない。文彦はつと胸をつかれた。
(あれから)
それは、かれの死。
(この人のために、死んだのだ)
そう、演奏の合間に微笑みを交わし合って、その後に庇って死んだ。
文彦は重苦しく黙り込んだ。
「私が、公彦から聞いた言葉を」
文彦は黙って、ゆっくりと頷いた。
だが、その行動に反して、その心は旋回し、恐れ、抵抗していた。
(――聞きたくない。このままそっとしておいてくれ)
「いつかあなたを探して会えたなら、そう思っていました……」
侑己は深く呼吸した。
「久しぶりに日本に帰ってきて、あなたを探して、あなたの演奏をお聴きしました。良かった――と思いました。確かに、彼が愛した人なのだ、と思って。そう、人を愛すること、それを求める人なのだという感じがして」
「何だって?」
「?」
「何を、いま……」
(かれがあいした)
そんな言葉が侑己の口から出るなどと。
そのひらめく唇から出た言葉が、文彦の白く閃けた脳裏でリフレインする。
「公彦は、だって、あなたを……」
「私?」
少し驚いたように侑己は文彦の青白い顔を見直した。
「私は、確かに公彦にとって特別だったと思います。ちいさい頃から一緒で、それだけじゃなくて他の人と違った。兄貴とも違う。私と公彦でしかわからないことも多くあった――二人の時間。私と公彦にも愛はあったと思う。あなたとは、また違うかたちで。私にとっても、そう……」
侑己はそこで言葉を切って、遠くを想い馳せるように煙る眼差しになった。
「私は、公彦が大切だった。でも、公彦の心の真ん中にいたのは――あなただと思う」
おもむろに侑己は頬を引き締めて、唇のはたに力をいれた。唇の両端がえくぼのようにくぼんで、生真面目になる。
「公彦は言っていました。文彦を愛している。道が別れても、これからも」
(あいしている)
文彦は喘ぎ、ちいさくふるえた。
「それで――」
「え?」
「それであなたは、いま」
「生きています」
単純に侑己は答えた。
「あなたが消息を絶ってから、死ぬ前まで公彦は本当はあなたを探していた。私と涼香が事件に巻き込まれたことがあったから、たぶんあまり動けずにいて――本当は、私が、死ねば良かった。私のせいだった。だから、あなたに会うのが――怖かった。死ぬはずだった私が……会うなんて」
「侑己のせいじゃ、ないの」
ちいさな声が聴こえたのは、侑己のすぐ背後からだった。すいと現れて、ローヒールにモーブピンクのすとんとしたワンピース、ドレープのあるコートをまとって、肩で揃えられた絹糸のような細い髪がゆらりと揺れた。
文彦は乾いた唇をうすくひらいて、一度だけ瞳をまたたいた。
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