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第八章 レフト・アローン(music by Mal Waldron) 2

 ふいに文彦の前に現れた、人形のような卵なりの顔は、雪がふっと溶けてしまいそうな儚さに似ていて、侑己とはまったく違う、あわく神秘的でひっそりとした立ち姿だった。ともすれば幸の薄そうな、守らなければ壊れてしまう、と思わせるなよやかさがある。 「私が、侑己と公彦に救ってもらったの。あの事件があって、あれから侑己と逃げて、私、ようやく生きられたもの。だから、全部、私のせい」 「涼香」 「私、公彦を撃ったあの組の一人娘でした。自分の環境に生い立ちに反発して、首を突っ込んで、危ない目に遭わせてしまった。侑己も、そして公彦も」 「あ……の……」  文彦は言葉を失った。それは恐らく、文彦を苦境に陥れた男のいた組織のはずだった。  回り回って過去は再び来訪し、点と点はつながり、運命は不可思議にめぐりあう。傷を封印し、苦悩を過去にし、どれほどの瞬間を過ごして来たのか――それでも、閉じ込めることはできずに、目の前にひらいている。  鳥を押し込め、埋め込んでいた錆色の鳥籠は、今扉をひらこうとしている。 「公彦が私にいのちをくれて自由に、してくれたの。侑己がずっと、私といてくれたの。死ぬのなら、私が死ねば良かった。だから侑己のせいじゃない……」  涼香がふっと視線を落とした先を、文彦は無意識に追った。ドアの影の暗がりで、その左手の内側のてのひらから手首へと、おそらくその上部までも走っているだろう、盛り上がった太い傷痕があった。侑己が現れてから、その左腕はだらりと垂らされたままで、一度も動いていないことに文彦は気付いた。文彦はその時になって、ハッと瞳を見ひらいた。 「ピアノは?」 「ピアノは……もう二度と」 「え……」  文彦は衝撃を受けて、瞳を大きく見ひらいて押し黙った。そのままどんな言葉を発することもできずに、ただ侑己を見つめている。  ふっと、侑己は苦笑して、文彦の顔をまじまじと見つめた。 「みんな、あなたみたいなんじゃ、ないですよ」 「え?」  どういう意味なのかを判じかねて、文彦は何度か瞳をまたたいた。侑己はそれを、清忠によく似た大らかな視線で見つめた。 「音楽がないと生きていけないような、そんな人間ばかりじゃないです」 「……」 「私にとって音楽は、演奏しないと生きていけないようなものじゃないです。音楽をやっていた人間が、皆、あなたみたいじゃないですよ。人生を賭けるものでも、才能を賭けるものでもないです。私は違うことをして、人生を生きている。それでも生きていける。多くの人はそうじゃないですか。公彦があなたを愛したのは、何だかわかる――私もそういう人間が好きだから」  侑己は悲しいような、慈愛のような表情を浮かべて、公彦がかつて宿していた大人びた目の光で、文彦を見つめた。侑己にふっと浮かぶ表情は、公彦のそれによく似ていた。 「これをやってないと死んでしまう――そんな危うい狂いそうな情熱が好き。踊り狂って、生き狂って、それがないと生きていけない。だから、あなたも好き。でも私は別にそうじゃない」  文彦はかすかに衝撃を受けたように押し黙った。 「あなたのそういう危うさを、きっと多くの人が愛している。だって、誰しもがそうなれるわけじゃないから。そんなに何もかもを犠牲にして、無欲に突き進めるものじゃないから。公彦もきっとそう思っていたはず」 「公彦は――でもあのサックスは……俺のオルフェだった……」  文彦の途切れ途切れに伝った言葉を、侑己はいつか見たような賢しい瞳で、少し驚いて受け止めた。 「オルフェウスはむしろ、あなたでしょう? 死んだ愛する人を追って黄泉で歌った人。地上には連れて帰れずに失ってしまって――あなたが引き裂かれずに生きているのなら、それは音楽を止めなかったから。あなたはあなたの歌を歌うから生きている。公彦があなたの中に見たもの、それを私も見ている気がする」 「……」  何を返すべきかもわからないままに、沈黙だけが過ぎていく。文彦は混乱したぐらぐらする頭で息を継いだ。 「こんなに、時間がかかってごめんなさい。涼香と逃げて、そして、ようやく片付いた。私がここに来ていいのか、本当に迷いました。でも、伝えなければいけないと、思って」  涼香は侑己の腕を取って組み、するりと寄り添っている。 「公彦は、あなたを愛していた。ずっと、また会える遠い未来を信じていた。あなたが戻ってくると信じていた。いつかあなたの『レフト・アローン』を聴く日を待っていた」 「そのすべてを、奪ってごめんなさい。生命と、未来と、約束を――」  文彦の脳裏では走馬灯のように多くの光景がよみがえり、流れて、過ぎ去っていく。何も発さずに立ち尽くしている文彦を見つめてから、侑己は一礼した。 「高澤さん。ありがとう」  文彦は顔を上げた。  その後を何と答えたのか、文彦は覚えていない。  ただ静かに立ち去った二つの影への思いに耽り、じっと立っている。 「あなたを、あいして……」  くり返した、侑己が告げた言葉。  ずっと、すでに文彦へは向いていないと思っていた心。 (ああ) (道は別つとも――) 「愛している」  心の底から湧きあがった言葉。  もしも、もう一度、公彦に会えたなら。  同じ言葉を、公彦の唇から聞いた、と文彦は思った。想いは一緒で、二つの心は寄り添っていたのに。 (ただ護りたかった)  ――貴方を。そうできる自分になりたかった。ただ、一人の確かな、男になって。 (誰かの自由を……)  愛憐は、公彦のような人間にとって最も高貴なものだった。  無償で人を愛した。いつも人を愛していた。生きることを愛していた。きっとその生の終わりまで。 「俺も、ずっと、愛してた――愛している……」  文彦はシャツの下にある、胸元の細いチェーンを指先で急いでまさぐった。襟元から引き出し、チェーンを外して、リングをゆっくりとと抜き取る。  ステージのピアノへと向かう途中で、太腿に当たる硬い感触に、文彦は眉をつと寄せた。それはズボンのポケットに入れてあった、深い青をしたびろうどのリングケース。文彦はそれを取り出すと、コトンとカウンターへと置いて、すべらすように押しやった。  ピアノの椅子に座り、黒い艶のある蓋を押し上げる。  シルバーリングを左手の薬指へとゆっくり嵌める。それは時を経ても、ぴたりと文彦の指へと納まり、銀色にちいさく輝いている。 「公彦、待っていてくれたのなら。弾いてもいいだろうか……今さらでも……」  それはやわらかに、在りし日にかれにかけていた声色。  リングへと大切に唇を押しあて、愛しさのすべてをもって微笑する。 「聴いて――俺の『レフト・アローン』を。公彦が望むのなら。俺もずっと、愛しているから」  ずっと聴くことも弾くこともできなかった「レフト・アローン」を、文彦はピアニッシモで右手から弾き始めた。  それは鎮魂なのか、愛なのか。  銀色のきらめきは、あの日々のように今も文彦の指に光っている。 (運命――か)  すべてに時があり、愛するに時があり、死ぬに時がある。 (レフト・アローン)  マル・ウォルドロンがビリー・ホリディに捧げたナンバー。死んでしまったジャズ・シンガー。  やるせなく胸に迫る旋律、ピアノは広がりを持って空間を哀切に押し包んだ。 (愛している)  美しく哀愁に満ちたバラード。文彦は瞳をひらいたまま涙を流した。 (逝ってしまったんだよ――)  たった一人で。  すべてを置いて。  文彦はゆるやかにピアノを続けた。それは愛しさを増した悲しい旋律となり、怒涛のように押し寄せた時間に、文彦はすべてを委ねた。  両のかいな広げ、ピアノを抱き込むように鍵盤に指をすべらせていく。音はかれの如く、吹き過ぎる西風となって、白い翼となって。  文彦は瞳を閉じて、弾き終えた。  しん、と静寂が満ちる。  その時、ドアの近くでガタンと音がした。 「――え?」  ドアの人影は、文彦の声に振り返り、瞬間、文彦と視線が交わる。  すらりとした長身、切れ上がったまなじりの端正な顔、よく知っている姿―― 「淳……」  文彦がその名前を呼ぶ前に、かたちのよい唇はゆっくりと微笑みを浮かべた。  それは透明で、どこまでも澄んで、そしていくつもの感情を重ねている。  次の一瞬に、ひらめくように身をひるがえし、扉からすべり出るようにして駆け去っていった。 「淳史!」  文彦が見た、あの両眼にあらわれた果てのない暗闇――悲哀、ととればいいのか、諦念、ととればいいのか、文彦にはわからなかった。 (いったい、いつから)  カウンターを飛び出し、その時にハッとテーブルを見た。 (いつから聴いてた?)  いつ来ていたのかさえ、文彦の記憶にはなかった。 (たぶん全部見た――)  あの侑己との会話、シルバーリングを嵌めた瞬間、それにくちづけて「レフト・アローン」を弾いたことも。文彦のすべてを見たのだ。淳史なら理解しただろう。文彦の音を聴いて、わかっただろう。  むろん、理解したから駆け去ったのだ。あの微笑みを残して。  かつて、文彦自身があの微笑みをしていなかっただろうか――  愛する人は、別の人を愛しているのだと思って。  報われない想いと、やはり自分では駄目なのだという諦念と、そしてかすかな安堵。もう、ここで終わりなのだと。自分のような人間では無理だったのだと。仕方がなかった、それで良かったのだと微笑んで。  カウンターの上に置いたはずの、青いリングケースは何処にも見当たらなかった。 「淳、史……」  公彦へと音を捧げるために、身体から離したもの。淳史が贈った金色の指輪。  走って扉を大きく開け放ち、あたりをぐるりと見回しても、そこには人影も車もない。 「淳史!」  呼んでも何も応えはない。  突然、横合いからバタバタとした足音と、竜野の大きな声が文彦の動揺を引き裂いた。 「文彦、そこでどうしたんや?さっき仲間から電話がかかってきて知ったんやけど――萩尾淳史と最近会ってたやんな?」 「え、何? 淳史が、何?」 「今井ミチルが、ヤクの一斉検挙で捕まったって」 「え――えぇッ?ど、どうして……?」 「出入りしとった店ごと、芋づる式で。ほら、あのルナ・ロッサやった?今井ミチルがおかしいってずっと噂やったやろう? 萩尾淳史がそれを止めようとして揉めとったとか」 「そ……んな……」  文彦は殴られたように、サアッと青ざめた。 「知らん、かった? 最近はルナー・エクリプスとして活動はしてなかったなかったし、サックスのソロ演奏も今一つ浮かない感じやったやん」 「――え、淳史が?」 「ほんまに、何も、知らんかったん?」  竜野は店のドア先で立ったまま、静かに文彦に問うた。その表情は逆光になって、よく見えなかった。

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