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第八章 レフト・アローン(music by Mal Waldron) 3
「あ……」
動揺にあたりを見回し、文彦はてのひらを開き、視線を落とした。
「文彦は、どれくらい仲が良かったん?」
「え――?」
「文彦は、距離が遠い人にほど、優しいやん。近い人間のことは、見えなくなるやろう?」
「な、に?」
「武藤さんより俺に、俺よりもセイに、セイよりもファンの女性たちに、より優しくなるやん。ソツがないくらい、気が付くようになるやん。親しい人間のほうが、相手が何をしているか興味がないやろう?」
「興味……がない、わけじゃ……」
否定しかけてみたものの、文彦はそれ以上言い返せなかった。
(それは……そう――)
竜野に言われてみて、文彦はようやく思い当たるのだ。
武藤が本当のところどうして生活しているのか、竜野の家族や友人も、長年いるわりには知りはしない。セイのほうがまだ知っている。そして、淳史がどんな仕事をして、どう忙しく、あれほど心痛にしていたミチルに対してどうしているのか訊きもしなかった。
幼少に、最も親しい人間とのコミュニケーションが確立できなかった文彦の、悲しい人との距離感だった。
満足な世話もなく、興味も持たれず、何かを尋ねられることも話を聞いてもらえることもなく、他人よりも遠く冷たいものが家族だった。親しくなるほどに、そういうコミュニケーションが滲み出てしまう。
距離が近付けば近付くほど、大切にして愛しているはずなのに、それが現れてしまうのだ。文彦自身が気付かないうちに、悲しいほどに。
あまつさえ、公彦にいたっては、自分と会う時間以外のことを考えてもみはしなかった。侑己の訪れがあるまで、その裏側で何をしていたのか知りはしなかった。
淳史には、クリスマスのメッセージの返事は返していなかった。特に自分の返事など待っていないだろう――そんな思いは文彦の根底にわだかまっている。首にかけていた公彦のシルバーリングはあまりにも当たり前に文彦と一体になっていて、それが指輪を贈った淳史にとって、どう感じるのかも考えることができなかった。
(自分など、取るに足らないと……誰かの心に影響するほどのものじゃないと……)
だが、さっき絶望的に微笑して去った淳史の両眼――それは、違っていた。
文彦の一挙一動で傷つき、悲しみ、踵をひるがえし駆け去っていった。
文彦は雷鳴に打たれたように、立ち尽くしてふるえた。
淳史が教えたもの――文彦は、傷つけるほどに心に影響があるのだということ。
「淳史」
名前を口にして、あたりを見回す。
「俺は、行かないと――淳史を、探して、くる……」
「わかった」
竜野はただ一度うなずいて、文彦がふらりと店外へと歩き出していくのを見送った。
ビートルは道路を抜けて、年末の夜の街を走った。
見覚えのある道、街、マンション――文彦はどれもがもどかしく、焦る気持ちが抑えられなかった。
(調子が、悪かった……?)
そういえば淳史は、初めて二人きりで防音室でセッションしてから、文彦の前では演奏しなかった。
二人で湖に行った帰り、帰宅して作曲した時も、あのセッションした時のような忘我して怒涛に流されるような感覚にはならなかったのではないか――
(そういう曲なんだと……作曲していた時だったし……)
淳史のやさしさに包まれて、文彦はあろうことかふいと見落としていたのだ。竜野の言う通り、それが以前のように淳史と他人だった頃なら、いち早く違和感に気付いていただろう。
(ただの不調じゃなかったんだろう)
文彦はハンドルを切って、横顔は沈痛に沈む。
(悪い精神状態をプレイにまで影響させるような――そんなことはしない。たぶん、ミチルのことを、自分が追い詰めて、壊してしまったと思ったんじゃないか――それなら、たぶん、やすやすと吹けなかったはずだ。たぶんすべて、自分のせいだと一人で背負って。ミチルが断薬できないのも、自分の責任だと思ったに違いない)
淳史の言葉が脳裏をよぎっていく。
(時間がないな)
そう言っていたのは、淳史のスケジュールが忙しいからだと思っていたのだ。
思えば、淳史の性格でミチルをあのまま放っておくことなどあり得なかったし、そして身体的にも薬の影響が見られたミチルが、たやすく抜けられるとは思えなかった。
(俺は……)
淳史は、ずっと当然のように隣にいると思っていなかっただろうか?
その裏では、どんな生活をして、仕事をして、ミチルのことを知ろうとしなかったのは自分ではないだろうか――文彦は思った。
初めて文彦のアパートへとやって来たあの冬の、「会いたかった」とちいさく呟いていた夜、淳史はどれくらいドアの前で待っていたのか。
自分が原因だと思っていた淳史が、日々どのようにミチルと対応していたのだろう。
どんな状態で文彦に会いに来ていたのか――ほんの短い時間の隙間で、文彦の演奏を聴きに来た時、文彦の隣でケーブルカーに乗っていた時、湖での抱擁、そして指輪を用意して贈った時。
キーを渡した時、どんな表情をしていただろう。
(いつでも来てほしいと、そう言っていた)
淳史はひそかに文彦を待っていたのではないだろうか。
ミチルのことで遣る瀬ない思いを抱き、不調のままに時は過ぎて、何も語らずにじっと一人で。
(何も、してやれなかった。俺は、いつも――)
淳史から渡されたキーは、あの日からずっと鞄に仕舞われている。それをふるえる手でつかんで、初めて一人で淳史の部屋の扉をひらく。
淳史が消えてから、その姿を探すためにキーで部屋を開けた。そんなことになってから、ようやく初めて。
室内は真っ暗で、文彦は落胆を隠せないままに、焦燥した表情でパチンと灯りを点けた。
淳史が立っていたキッチン、二人で食事をしたダイニング、文彦が本を読んでいたリビング、グランドピアノの置かれた防音室、何度か入ったベッドルーム――
そのどれもに、人影一つありはしなかった。
「淳史」
どこにもいない。
部屋のあちこちを足早に回って思い出す――いくつもの淳史の顔、過ごした時間、触れ合ったぬくもりが駆け抜けて、なのに文彦は今ここに一人で立っている。
文彦は急いでスマホを取り出し、淳史の電話番号へとコールした。しかし、電話はつながらず、「電源が入っていないか電波の届かないところに……」をくり返すばかりだった。
文彦は嘆息しながら、思い出す。
淳史が文彦に見せた多くの景色、連れだしていった場所、少しずつ語っていた淳史の心。
(俺のせいでいい)
そう文彦にも言っていた、ふっと孤独な眼差し。
(違うんだよ、淳史――そうじゃないんだ)
想えば、気遣い過ぎるほど文彦に気を遣っていた。
ミチルのことで過敏になっていたのに違いなかった。それは、ミチルの状態が思わしくなく、うまくはいっておらず、淳史が自分を責めていたからだ。
「淳史――自分に引き寄せて、背負って、一人で生きていくのか」
よるべない寂寥に襲われて、文彦はキッチンのほうへとよろめくように歩いた。
キッチンは一見綺麗だったが、シンクには、淳史らしくもなく汚れた皿が重ねられたままだった。汚れはまだ料理の後を残していて、乾いていもいない。
(ついさっきまで、いた……?)
ゴミ箱から何かがはみ出ていて、文彦は不審に思った。いつもの淳史なら、そんなことはしないはずだった。
文彦は、ペダルを踏んで銀色のゴミ箱を開けてみた。
それから、言葉を失って、立ち尽くした。
様々な色合いの料理が混ざり、投げ落としたように、乱雑に盛り上がって捨てられている。
「淳、史」
文彦はゆっくりと屈みこむと、ふるえる手で、確かめるように寄り分けて見ていった。
ローストされたチキン、広がる赤い色のトマトソース、様々な色合いの細かな野菜、マッシュポテト、いつしか文彦へと用意してくれたのと同じパン、トマトとモッツアレラチーズのスライス、緑色のバジルソース、それから――
汚れるのもかまわず、料理を一つ一つ確かめながらかき分けていく。それから最後に、一番下にあった箱を、手を突っ込んで取り出した。
本来は白いはずの箱の中にあったのは、綺麗に飾られていたはずの、白く丸いホールケーキだった。くるりと絞られた純白のクリーム、ナパージュされてきらきらとしたピオーネやメロン、ベリーなどのフルーツが重ねられて、箱の横にはキャンドルがついている。
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