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第八章 レフト・アローン(music by Mal Waldron) 4
(やってみればわかるかもな)
この三十日に、どう見てもクリスマスのメニューを、用意して。
文彦は白いケーキを、呆然として両手に抱えたまま、しばらく見つめていた。それは、文彦に用意された初めてのケーキだった。
ゴミ箱に、ソースに汚れた破られた封筒を見た。ゆっくりとケーキの箱を置き、文彦は指先で紺地にゴールドで縁取られた封筒の中身を引き出した。中にはやり破られた、ニューヨーク行きのチケット。
すべてが、初めて文彦にもたらされたものだった。クリスマスの豪華な料理、ケーキ、キャンドル、プレゼント。
文彦は、長い間、動かなかった。
文彦は、やがてふっとあたりを見回した。この部屋には、淳史のやさしい思い出しかなかった。
ざっと手を洗い流し、文彦はゆらゆらと立って、あたりを歩き出した。そこかしこに淳史のぬくもりが残っているのに、部屋の主はどこにも居はしない。
ふらりと防音室に行って確かめると、淳史が愛器としているアルトサックスはなかった。ふと、テーブルの横の小さなゴミ箱に、文彦はそれを見つけた。
書類などの間に埋もれて、捨てられている深く青いびろうどのリングケース。
文彦はゆっくりとそれを手に取った。ひらいたケースの中には、金の透かし彫りの指輪――百合の紋章は燦然と変わらず金色に輝いている。
「淳史」
文彦はそれを拾い、両手で握りしめた。つよく額に押しあて、そして泣いた。
(ここで用意して――それからきっと、ミチルの検挙があって――ミスティに来たんだ。俺を迎えに……そう、三十日に迎えに行くと、約束していたから……)
そして、淳史が見た光景は。
この指輪を手放し、押しやった、文彦の姿だった。
淳史は、ミチルにも、文彦にも、救われなかった。
(たぶん、普通の状態じゃなかっただろう……きっと、俺にすがるように会いに来ただろう)
そこには自分へのやさしい愛があるのではないかと思って。淳史は救いを求めて。
淳史の責任感の強さ、そして繊細さ、激しいほどに豊かに傷つきやすい感受性――そのすべてを、文彦は隣で、そして演奏を共にして、知っているはずだった。
文彦は、登っていた階段が、ふいにすべて足元からなくなってしまったような、墜落を感じた。それはどこまでも落ちていって、文彦はよろめいた。
やさしい眼差し、静かな微笑み、いつもここには愛があったのだ。
身近に、手を伸ばせば、顔を上げれば、すぐそこに。
どこかで、淳史は近くにいて当たり前だと思ってしまっていたのだ。いつでも自分を許してくれそうな、そんなあたたかさで。
ただ公彦のためだけの「レフトアローン」に、淳史の指輪を持っているわけにいかなかったのだ、あの時。
そして、文彦は恐れていたのだ。
(淳史――だって、怖かったんだよ)
ずっと指輪を嵌めずに、リングケースに仕舞ったままだったのは。
文彦は、贈られた指輪を嵌めると、また大切な人と道を別たねばならないのではないか――そんな懸念に襲われていたのだ。自分が指輪をすれば、贈った相手が死ぬのではないかと。
また公彦と同じように、くり返してしまうのではないかと。
(だけど――そんな暗い予感に一人で恐れている間に、淳史は本当に姿を消してしまったじゃないか……)
文彦は、金色の指輪を握りしめたまま、壁際へとずるずると座った。
「会いたい」
初めてはっきりと、文彦は心の奥底から願った。
「会いたいよ、淳史」
あのやさしい眼差しで、どうかしたのかと尋ねられて、何でもないよと答えたかった。
「愛してる」
淳史へと、一度も言わなかった言葉。何度もかけられ、囁かれたのに、一度も応えなかった言葉。
文彦は薄暗い部屋の隅で、一人で膝を抱えて嗚咽した。
文彦は、それでも淳史が帰って来るのではないかと、しばらく待った。
それは一日となり、一人きりのカウントダウンで年は開けて、待つ日は二日となり、時間だけが過ぎた。
誰もいない淳史の部屋は、がらんと広く、うすら寒く、文彦は壁際にうずくまって膝を抱えた。淳史の置いていった皿を洗い、覚束ないながら掃除をし、それから、淳史は帰って来ないことを知った。
(俺は……いつも)
失ってから、気付くのだ。その人の存在に、自分の心に。
(あまりに遅い)
そうして、また失うのだ。
どこか心当たりを探そうとして、文彦は立ち止まった。
淳史の今している仕事の予定も、実家も、淳史が訪れていないか尋ねられる先も、文彦は知らなかった。
(知らない――ままに過ごしていた)
愛している、と囁いた淳史の両眼の中にあった光。
(おれは、ばかだ)
FOOL TO CRY――両手をひらいて見つめる文彦の頭に一つの旋律がリフレインする。
運命なんてやつはおまえの気分しだいさ――FOOL TO CRY, FOOL TO CRY……
(おれは――ばかだ)
こうしていつもへまをして、この手からこぼしてしまう。
(行ってしまった。戻らない、淳史までも。俺から)
文彦は自分の首を手で強く締めつけた。
レフトアローン――そうして、一人で行ってしまった。
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