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第八章 レフト・アローン(music by Mal Waldron) 5

 アパートの暗い部屋に帰ると、文彦は照明を絞ってつけ、ビデオのリモコンを探した。年明けすぐに、淳史がマンションへは帰って来ないのだと気付いてから、文彦は自分の部屋へとようやく帰ってきた。HDDに録画したうちから、一つのドラマを探して再生する。  部屋の隅の小型のテレビには、深夜ドラマの第一話が流れていき、文彦は頬杖をついてぼんやりと眺めた。淳史のサックスが挿入曲として使用されているドラマの、初回だった。  淳史からの連絡はあの夜以来、一度もない。最後のメッセージは、十二月三十日に「今から迎えにいくから」だった。  文彦はふっと心の渦へと巻き込まれ、知らぬうちに奥底へと引きずり込まれていく。 (もしも――俺から)  離れていくことを今、淳史が選んだのなら。 (それを尊重することも、大切なのかもしれない……)  てのひらの中へと頬を埋め、呼吸はちいさく、エアコンもつけない薄暗い部屋の冷たい空気に頬は白い。 (今は、俺に会いたくないのなら。俺にいったい――何ができるんだろうか。この手で)  文彦の人生は、いつもあまりに無力で、あまりに間が悪かった。  もしも文彦にとっても、淳史にとっても、あの運命の歯車が回る一瞬が重ならなければ、結果はまったく違っていたはずだった。 (起こってしまったことは、どうしようもない)  そんなことは、文彦の今までの経験で痛いほどよくわかっている。  淳史は何処かへと去って、連絡もなく、電話はつながらない。その拒否を、どうするべきなのか、文彦は逡巡している。 (俺の気持ちだけでは……どうしようも、ないだろう……)  そして、ドラマが流れ続けていたテレビの画面から、文彦は覚えのあるサックスの旋律を聴いた。それは淳史が作曲した「オネスティ」だった。  それは以前にアルバムに収録したものとは若干違っていて、改めてドラマ用に録り直したもののようだった。  ふと、文彦はかすかな思いに心をとらわれた。どんな風にタイトルをつけたのだろう――と。  以前にした二人きりのセッションで、流れ込んできた淳史の心の声。  文彦はそれを思い出し、流れる曲に合わせるように指先でトントンとテーブルを叩き、まるでコードをつけて聴こえない演奏を奏でているかのようだった。 (手に入れるのは……)  手に入れるのは困難だから、だからこそあなたから欲しいもの。  この現実で得るのは困難だから、あなたにこそ求めたいもの。 (ねえ、淳史。ずっと求めていたの?)  曲はすぐに途切れてしまい、ドラマは次の場面へと展開されていく。文彦はテレビを消すと、パソコンをひらいて静かに電源を入れた。  文彦は思い立って、ネットで淳史の名前を検索してみた。 (ニューヨークでのライブには、出演するんだろうか……?)  検索画面のトップに、萩尾淳史のホームぺ―ジが上がったことに文彦は驚いた。  黒と深緑を基調としたオフィシャルウェブサイトは、かなり丁寧なつくりで、サックスを手にした淳史が端正な顔でこちらを見ている。  ニュース欄は年明けにも更新されており、ライブ欄はニューヨークでの出演決定で、変更や参加中止にはなっていなかった。ディスコグラフィ、アルバムを販売、配信しているストア、プロフィール、淳史の演奏の動画も短時間だがアップされている。  エージェントがついているのだ、とは竜野からいつか聞いていたが、こうして淳史を支えるスタッフがいることに、文彦は改めて気が付いた。  ディスコグラフィなど淳史の写真や経歴、活動内容がずらりと並んで、すべて読み終わるのにしばらく時間がかかった。その時に初めて、文彦は淳史の誕生日を知った。 (一月二十五日……もうすぐだったのか)  近くにいたはずなのに、本人からではなくネットでそんなことを知って、文彦はほそい指先で自分の唇を引っ張った。 (きっとアメリカには行くんだな……いや、もう行っているのかもしれない……)  出演するはずのジャズクラブのスケジュールも確認してみたが、清忠とともに淳史の名前も上がっており、やはり訂正などはされていない。 (きっと、清忠とプレイする)  淳史は断っていないはずだと、そんな不思議なまでの確信があった。淳史のあの性格から、個人的な事情だけでオファーを断る可能性は限りなく低かった。 「あ」  動画が近い日にちでアップされていることに、文彦は気が付いた。最新の動画の日付けは一月二日――迷いなくクリックしてひらく。  文彦はそのまますべての動きを止めて、呼吸をも止めた。  流れていく動画の中で、長身はサックスをかまえて、黒髪を後ろへと流し、切れ上がったまなじりで、時に身を折ってその旋律を鳴らしている。  その音は文彦だけが知っているもの。こまやかに輝きを映し、緊迫しては浮遊して、あの風景のあの時間の中へと舞い降りていく。 「『ゴールデン・サンライト』」  一分ほどの動画は全編ではなくテーマだけを流して、短く終わっていく。以前に文彦の前で演奏していたものから大幅に改編されていたが、確かにその曲だった。文彦にはどうあっても、聞き間違いようがなかった。  その楽曲をこなすには相変わらず、巧緻な指遣いと、相応の肺活量が必要だったが、それは曲の表現のために必要なものとなっていた。細かな光が舞ってきらめき、途切れることなく降り注ぐ夢幻のような音。  それから驚いたように瞳をまたたいた。 「淳史、そう……なの?」  画面の向こうから響いていたサックスの、時をも距離をも越えて、文彦へと怒涛に押し寄せ流れ込んできたもの。 (まだ……まだひらいてる)  文彦は停止した画面を両手で触れて、それから淳史の姿に触れた。  ゴールデン・サンライト――それは、二人の時間にあったもの。  失望して身をひるがえして去っていった後ろ姿は脳裏に焼き付いていたが、今、文彦の胸に残った音は、切望を込めて、あまりに悲しく美しかった。  

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