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第八章 レフト・アローン(music by Mal Waldron) 6
文彦は翌日から時間の合間に動き出した。国内も、移動、というべきような一人旅ばかりで、旅行もろくに経験して来なかった文彦にとって、突然の海外旅行の手続きは煩雑なものばかりだった。
旅行手続きに加えて、ESTAの申請、ジャズクラブでの予約、事前のドルへの両替、旅行に必要そうな英語に一通り目を通して、さらには、キャリーケースさえ持たない文彦は、トラベル用品から買い出しに行き、とにかく準備にあっという間に時間は費やされた。
本来はアメリカ行きのために取っていた休みの前日まで、文彦はミスティへと出た。年明けすぐで、他にも依頼された仕事の打ち合わせもあったし、その後の休みも合わせるとそうすぐには出発するわけにもいかなかった。竜野に対しては何とかなったとしても。
(何だか……色んなしがらみがあるな)
数年前にはもっとふらりとその日暮らしで、何時ふっと消えてもおかしくはないくらいだったのに、気付けば文彦には文彦なりの生活や仕事ができている。
(責任なんて、そんなものを俺が持つなんて)
その日暮らしでも、誰にも知られず野垂れ死んでもかまわない――
そう思う根なし草の日々の中でも、少しずつ環境は変わり、文彦は確かにピアニストとして生きている。
文彦は深更の、閉店後のミスティの奥で、真剣な面持ちでノートパソコンに向き合っている。
「なんやえらい神妙やなぁ」
閉店支度に通りかかった竜野が、呆れ気味に声をかけた。もう年明けからずっと、開店時間以外はこの状態だが、竜野は文彦を放っている。いずれかここを飛び立ってしまうかもしれない鳥は、竜野にとって大事なピアニストになっていた。過集中しやすい文彦の様子を見守っている。
「俺にでも、責任なんてものが芽生えたんだなって。可笑しいだろう?」
「それは、仕事のこと? 人間関係のことなん?」
「どっちも、かな」
「まあ、文彦は、そのうち音楽の仕事は増えていくやろうと思ってたで。せやけど、自分でつかみに行かんとな、とは思ってたけど。才能があったって、自分が何になりたいかわからんと、周りかってどう声かければええかわからん。手を伸ばせば助けは出てくるやろう、文彦なら」
「ずっと、どこかで恐れていた」
自分が表に出れば、また何か予期せぬ悪事が起こるのではないか。今よりもっと、悪い噂に苛まれるのではないか――
「でも、もう……いいんだ。あの店も……もう、一斉逮捕で潰れた」
文彦はちいさく自分に向かって呟き、それからくるりと竜野を見返った。
「竜野さんは、俺がふらふらしてても、ずっと助けてくれていたんだね――ありがとう」
「何や急に」
竜野は鳩豆の表情で、うろんそうに文彦を見て、それから溜め息をついた。
「気持ち悪いなぁ。明日にでもどっか行きそうや」
「はは、明日に海を越えるけどね」
「結局は、行くんか? ニューヨーク」
「うん、まあね」
「準備はできたんかいな」
「そこそこ?」
「相変わらずの返事やなぁ。代わりに手配もできたのに」
「うん。でも、自分でしないとね」
「なんや、文彦が現実味を帯びてきたなぁ」
「それなら今までの俺は何だったわけよ」
「まあ、ええわ。こっちのことはええから、思い切って行っといで」
竜野は呆れながら言うものの、面長の顔は、文彦のちょっとした変わりようを楽しむように笑っている。
文彦は集中が途切れたのをきっかけに、パソコンを閉じて立ち上がった。
「竜野さん。いつも、ありがとうね」
「文彦」
竜野は少し悲し気な面持ちで、のっそりと笑った。
「ええんやで。俺が賭けたいだけやから。その背中を近くで見せてくれてありがとうな」
文彦は意味を受け止めかねて、何度か大きな瞳を瞬いた.
「なんか――感じ変わったな」
「そうかな」
「そうやで。色々と、あったんやろな」
ふっと笑い返した文彦は、長い睫毛を伏せた。
「さあ。自分でつかみに行こうと思っただけさ」
竜野は相変わらず間延びした顔で笑うと、もう何も言わずにその場を立ち去った。文彦は息を吐くと、帰り支度を始めた。
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