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第九章 航海の日(music by Fumihiko Takasawa)1

 文彦は、海遥か見渡す埠頭に立った。  十重に二十重に打ち寄せ、返す波の行く先は、黎明。  白く限りない飛沫の反復を、何処までもこまやかな純白に変えて。  いつの日かこの場所に立っていた――今と同じ早朝に、海風が吹き過ぎる中を。  しかし今は、冬の空は重なって曇り、海は暗い色に広がっている。ついた吐息は冷たく、かすかに白く煙っていく。  文彦はじっと立ったまま、己の胸の中へと降りていく。片手には心、もう片手には追想、それらを抱きしめて、自分へと問う。  あの青年は、いったい何処へ行った?  じっと底の見えないような眼で、文彦を真正面から見据えていた、あの端正な姿は?  埠頭のギリギリ端に立って、文彦の白い横顔は、ただ間近に広がる夜の海を見ている。 (俺の心もいっそ連れていけ――)  黒い海に弾ける白い飛沫を眺めて、独りごちる。  そう、運命の歯車が一つ、二つ、ぐるりと回って、この愛が何処かでかけ違ってしまったのなら。 「But beautiful……」  愛は静謐なようでいて狂おしく、それでもなお、美しい。  そのうすい色の唇は、ゆるやかに低く、そして柔らかな声で口ずさんだ。 (淳史)  すべては回り続けていたのだ。止まっていたと思っていた時間も、実は気付かぬところで動いていて、誰しもにそれは平等に過ぎていっていた。  今、金色の指輪をてのひらに握りしめて、文彦は一人で立っている。 (公彦、忘れるんじゃないんだよ)  遠い在りし日、駆け抜けた青春であった貴方。 (『Time waits for no one』――私は、公彦に自由にしてもらったの)  そうして公彦は、文彦をも救いはしなかったか。  貧しいその日暮らしの、友もいない生活から、公彦とカルテットと過ごした日々。公彦と出会わなければ、地獄へ落ちて、そこから激しく逃げたいとは思わなかった。そこから這い出せたのは、武藤とのつながりがあったからだ。すべては公彦と出会い、導かれた道。  文彦をも自由に羽ばたきを取り戻させて――  このてのひらには、音楽以外は何もない、そう思っていた。  風の吹きすぎる中、文彦は両手をひらいた。  そこには、ふわりと槐色の光がやさしく乗っている。またたき、虹色にくるめき、輝きを失わないもの。  てのひらの上にある、いくつかのあわい光――音楽と、愛と、自由。 公彦が守り、残してくれたもの。 (貴方がくれた)  心にはいつまでも、残っている。  それは何処までも広がり、大きくなり、文彦をも超えて羽ばたいていく。 「愛は、たった一つじゃないんだね」    つぶやきは海へと落ちて、どこまでも打ち寄せていく。 (貴方はそれを知っていたのだろうか?)  だからあんなにもやさしく、しっかりと立って、人を愛していた、愛することを恐れなかった。それは恋であれ、友情であれ、誠意であれ――  愛の向こうにあるもの。それをもう公彦は見ていたのだろうか。あまりに早く駆け抜けた人生で。 「俺は……人を愛している」  そう呟いてから、文彦は不思議な感慨にとらわれた。一つの答は胸に深く満ちていく。  人は、愛されるよりも、愛する者こそが救われるのだ――  いつも幸福なのは、愛得て、愛した側なのだ。  その真実に至って、文彦は風に吹かれて立っている。在りし日のひとのように。  その心は、今は海の向こうにいる愛しく繊細な心へと向かっている。 「今日が、航海の日だ」  メイデン・ヴォヤージ――処女航海。初めて海を渡り、空へと舞い上がって、この心ごと。 「淳史を、愛している」  それが自分に赦されるならば――  左手には百合の紋章。金色の輝きは傷一つなく、純潔と無垢を誇っている。 二羽の鳥の寄りそうシルバーリングは、部屋の引き出しへと仕舞ってきた。それは文彦の心の奥底で永遠に形づくられて、二度と失うことはない。 (公彦の愛を受け取ったから)  ずっと続けていくのだ。この愛の連鎖を。どれほど闇に落ちても、夜に彷徨っても、光さすまで、くり返し、くり返し。 「ありがとう」  その声はふわりとやさしく、空へと溶けていく。 「俺は生きていく。俺はまだ――人を愛していける。この先に、得たい心があるんだ。赦されるのならばそばにいて、もしも俺を選んでくれるのなら――人生を歩んでいきたいひとが。いや、俺を選ばなくてもいい。近くでも、遠くでも、見守っていけたなら」  その人は、今、海の向こうにいる。  愛を識る人はこんな気持ちでいたのだと、文彦は初めて知った。青春から現在まで、いくつもの顔が過ぎっていく――在りし日の公彦、清忠、武藤、竜野。  いつも近く遠く、文彦の人生に存在し、文彦に関わろうとしてくれてはいなかっただろうか。見返りもなく。  そして、淳史――文彦の心が欲しいと求めていたひと。 「淳史」  すとん、と文彦の胸に落ちたのは、寂しさ、だった。  心のどこかで淳史は、いつでもそばにいるのだと思っていた。思い返せば、静かに見守っていた眼差し。それを当然とし、享受していたのは、文彦だったのだ。 (俺は――)  何かを淳史に伝えただろうか。この胸のすべてを。 (また)  同じ過ちを、歳も経たのにくり返しているのだと、文彦は知った。  この手にしていたものを、またハラハラと落としていって。もしかしたら、自分しだいでつかみ続けていられたかもしれないものを。  埠頭に立って、そっと囁く。 「愛は、重なって、広がって、その先にまだあるんだ」  やわらかな声は無限に響き、ザアッと潮の匂いに満ちた海風が吹きわたった。それは幻影のごとく、天使の光の翼のごとく、舞い上がり、舞い降りて。 (文彦、それでいいんだよ。それでこそ、文彦なんだ)  文彦はハッとして後ろを振り返った。  風にシャツの裾はためかせ、直ぐな髪をなびかせ、賢しげな黒く濡れた瞳で、屈託なく白い歯を見せて笑う姿を見た気がしたのだ。  そこには、ただ吹き過ぎていくやわらかな風。ひたすら遠くへと舞い上がり、先をしろしめすように、未だ見知らぬ空へと押し上げて。  ふわりと笑うようにあたたかな風が文彦の頬をくすぐり、文彦は静かに目を閉じて、風音に耳をすましてじっとしている。誰にも聞こえぬ自然の声を聴き取るように。  やがて、うつむいて、透明な微笑をした。  いつしか雲は払われて、雲間から油彩画のように光がさしている。 朝日は空を照らし、海を照らし、文彦をも照らしている。それは平等に降り注ぎ、世界中のどの朝をも祝福している。  文彦はゆっくりと手をひらくと、金色の繊細な細工の指輪を嵌めた。  手をかざせばその先に、指の隙間を抜けて差し込む、黄金色の朝焼け――指輪は日を受けて燦然と輝き、美しく光っている。  文彦の胸を過ぎるのは、巧緻な指使いで、夢幻にたゆたう、あまりにも悲しく美しいゴールデン・サンライト。裸足で走り抜けた砂浜の、一面広がるさざなみ映す湖の、そして重ねたやさしい時間のいくつもの追想。  二人でした約束に、ただ一人で去って行ってしまった。 (いつかの俺のように、道を求めて歩いているんだろうか)  その背中を想って心配になる。 (淳史に伝えたい)  何処かで、もしも淳史の魂が待っているのなら。 「愛は、きっと一つ重なるごとに、過去から未来になって……」  世界へと押し広がり、やさしさを増していく。 「淳史の話を聞きたい」  どんなことを愛して、そして、どんなことに傷ついてきたのか。 (今――)  必ず、約束を果たして。たとえもしも文彦をもう待っていなかったとしても。 「淳史、愛してる」  それだけは伝えよう、と文彦は決めた。  追いかけて、つかまえて、愛していると喚いてやるのだ。その傷つきやすい熱い血潮の噴き出した心を、てのひらに押し包み、その血ゆえに愛していると。 「その後に、淳史が何を選ぼうと。俺は恐れない――ただ淳史の心を、自由に解き放ってやれるのなら。それができるのはきっと今、俺だけだから」  離れた地で、未だ苦しみにあるだろう魂を、てのひらで包んで慰めてやりたかった。 「そう。愛してる」  生を、人を、傷つく心を、喜びにふるえていた心を。  淳史もまた理解されえぬ孤独さをひそめた魂だったのだ。  オール・イズ・ロンリネス――それから逃れようとあがくのか、受け止めて生きるのか。 (どれを選ぼうと、愛しい)  無償の愛を心におさめて、文彦はキャリーケースを引き、踵を返すと歩き出した。  海を越えて遥かその先へと。  文彦は、体の底から何かが胎動し始める音を聴いた。  遠くを見やるように顔を上げ、この夜明け前から、空へと無限につながる白い翼を広げて飛び立つように軽やかに駆け出した。

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