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第九章 航海の日(music by Fumihiko Takasawa)2
成田空港からニューヨークへのフライトは、およそ十三時間近く。
それほどの長い飛行も移動も初めてだったが、文彦は窓際の席で、離陸の際に車とは違うG――重力加速度がかかることや、角の丸い小さな窓から街が遠くなり、景色は海となり、空となり、一面に雲が広がって美しい白とブルーに変わるのを、しばらくは無心になって眺めていた。
飛行機は雲よりも高く飛行し、その下には積み重ねた綿のような叢雲。
指先はリズムを打って、新鮮な感動に浮かんだ旋律を口ずさみたくなったが、隣に乗客がいるために、さすがに文彦も大人しく唇を閉じていた。
時差は十四時間あり、昼夜が丸々逆転していることから、ほぼ半日のフライトをかけても到着すれば同じ昼間になり、そこから動いていく必要がある。文彦はブランケットをかぶると瞳を閉じた。
「体が、バキバキ……」
入国審査や、荷物の受け取りを終えて、文彦はようやくジョン・F・ケネディ空港のターミナルのロビーへと出た。ニューヨーク第一の空の玄関口ともいわれ、世界から百近くの航空会社が乗り入れているが、ターミナルが七カ所と分散されているために一つずつはコンパクトな造りになっていた。
「さて、どうするかな」
ショップやモニュメントを眺めながら、文彦はキャリーケースを置いて、黒のワークブーツの靴紐を締めて結び直した。カーキ色のコートの上にぐるりとホワイトグレーのチェックのストールを巻いて、黒のジーンズ。淡紅色の唇は、半ばストールの中へと埋もれがちになる。
通り過ぎていく人々は、日本にいるのとまったく違う。周りから聴こえてくる話し声の言語は様々で、人々の様相でさえ、それぞれに異なって見える。
文彦はマンハッタンへと向かうのに、シャトルバス、地下鉄と迷ったが、結局はイエローキャブを選んで乗り場に並んだ。
快晴なのに、冬には氷点下以下にもなるニューヨークの空気は凍てつくほどに冷たい。
「Could you take me to Manhattan? To this address, please.」
乗車前に行き先と、ホテルの地図を広げて見せると、アフリカンアメリカンの運転手は目を通してから頷いた。
「All right.」
やや煤けた車窓からは、まぶしいほどの冬のニューヨーク。高層ビルを遠目に見ながらマンハッタンを目指し、ブルックリン橋を渡り、文彦は圧倒されながらも瞳を輝かせた。
マンハッタンへと入ると、間近に見たビルは思うよりも高層で、道の両脇には積雪している。
「高すぎる……」
文彦が感嘆して見上げている間に、タクシーはメトロにも近いホテルへと到着した。支払ってから降り立てば、赤レンガに外階段というニューヨークらしい建物もあり、何よりも建物の間から、写真で見ていたエンパイアステートビルの美しい超高層の姿が見えた。
街を行き交う人々はしっかりと冬の装いをまとって、様々な髪の色、近付けば瞳の色も違うだろう、そんな光景に、文彦はしばらく微笑を浮かべていた。
文彦は口笛を鳴らしてホテルへと入り、チェックインを済ませる。
入った部屋はコンパクトな室内だったがデザイン性があって、何より窓から先ほど見上げたエンパイアステートビルが見える。
スーツケースを広げながら、文彦はふと、自分があまり言語に困っていないことにようやく気付いた。新鮮な驚き夢中になっていて、どこか自由で音楽が聴こえそうなニューヨークの空気の中で、旅立ち前の懸念など忘れてしまっていた。もちろん、簡単な会話しかしていないが、心の中にせり上げてくるものがある。
(ここへ、来たかった。そうだ――ここだ)
現地の言葉のリズムは引っ掛かりなく流れるようで、文彦の耳には快かった。それは文彦のずば抜けて良い聴覚のせいかもしれなかったし、幼少からジャズナンバーに囲まれてかなり早いうちから英語を聴いて歌っていたせいかもしれない。清忠に指摘されてから勉強も続けていたし、初めて現地に立って、文彦は喜びの中にいた。
文彦はベッドにひっくり返ると、満足した猫のようにうっとりと微笑した。
すっかり夕方となったマンハッタンのミッドタウン――文彦は目的地のジャズクラブへと向かい、軽い仕草で通りを歩いていく。
目当ての店へと早目に到着し、そのあたりをウロウロとしようと思ったが、開店間近のドアの前にはすでに何人かが並んでいるのに驚いて近寄った。
ニューヨークのジャズスポットといって、そのどれもが多くて百名ほどを集客するハコだ。その代わりに演奏を身近で体感でき、ダイナミズムがある。バーとテーブル席にわかれていることが多いが、それも店によってスタイルは違う。
予約はしてあるが席がどこかは早い者勝ち、というのがこのクラブのスタイルなため、文彦は並ぶかどうか逡巡した。
(清忠はともかく――淳史と何も解決していないのに、プレイ時に真ん前にいていいんだろうか……)
事前に店の中に入るすべは、ただの一客である文彦には持ちようもないし、ニューヨークへと来る前に送ったメッセージは既読にもなっていない。
「さて、どうする?」
文彦は軽く肩をすくめ、ほそい指先で唇を引っぱった。
その時、ふいに軽く文彦の肩を叩く感触がした。
「もしかして……高澤さん?」
振り返った先にいたのは、ボア付きのチャコールグレーのロングコートに、あの日と同じ白いマフラーを首元に巻いた、ラフなショートヘア。きっぱりとした眉と唇は、情緒あるハスキーボイスによく似あっていて、忘れようもない。
文彦は驚きに声を上げた。
「侑……己……」
ニューヨークの中で見れば、彼女も文彦も異邦人だ。海遥か渡ってまで、こんな場所で二人立ち尽くしてぽかんとお互いの顔を見つめ合っているなどと。
それから、思わず呼び捨てていた気が付いた。
「ごめん――佐田川さん」
「いいです、ユキで。皆、そう呼ぶし。あなたにそう呼んでもらえたら嬉しい。高澤さんも聴きに? 私は今は暇になったから、ちょっと兄貴にくっついてるんです。まあ、ようやく兄貴といる時間も取れるっていうか、単純に面白いっていうか」
「そうだろうね」
文彦は心あらずもくすりと笑う。
「もしかして、兄貴を聴きに来てくれました? それだったら、知らせてきます。きっと喜ぶと思う」
「いや――あの、清忠じゃ……ないんだ」
「?」
文彦がちいさく言った声色に、侑己は怪訝そうに振り返った。
「萩尾淳史に――一緒に出るだろう? 淳史を、聴きに来たんだ。あ、むろん、清忠もだけど。清忠は、もう、俺のことは忘れてると思うよ」
瞳をくるりと回して笑って、文彦は言葉をつけ加えた。
侑己は敏捷な動きで、文彦の腕をつかむと、そのまま大股に歩き出した。女性にしては存外に強い力で、力の入れる方向にも無駄がない。ともすると文彦にも抗えない雰囲気で、侑己ははっきりと言った。
「行こう」
「え? いや――でも、突然」
侑己はスマホから電話をかけると、しばらく会話していた。押し問答のようにやり取りを続けていたが、最後は乱雑に通話をぶつ切りする。
やがてひらいた扉の中へ、文彦の腕をつかんだままするりと入り込んだ。
入った瞬間に、侑己から手を離され、開店準備の薄暗い店内で、文彦は何かにどしんとぶつかって、数歩よろめいた。
どこか懐かしい煙草の匂い、押しても引いても早々に倒れないだろう大柄な体躯、皮のジャンパーにブーツのチャックを鳴らし、相変わらずラフさが漂う自然体な姿は、じろりと文彦を見下ろしていた。
「よう。ヒヨコじゃねえか。今日は侑己の後をくっついてきたのか」
からかうような、ニヒルさもある太い笑い声。
それはあまりにも長い月日を越えて、隔たっていた年数を越えて、一気に渦巻くように文彦へとなだれ込んでいく――出会ったあの日と同じように、文彦を呼ぶ変わらない男らしい顔。
激しい渦へと巻き込まれて、文彦は眩暈の中で、瞬間に懐かしさとその大らかさに包まれた気がした。
「淳史に会いに来たのか、俺じゃなくて? ルーツ探しの旅でもなく?」
「なあ、文彦。お前さんが弾き続けてるってだけで救われるやつもいるんだぜ」
「……?」
文彦は、なぜ、という顔で清忠を見つめたが、何も応えは返って来なかった。文彦はそこでようやく、清忠のペースから自分を取り戻し、淳史を振り返った。
淳史は唇を引き締めたまま、文彦を見つめていたが、ややあって視線を反らした。
「淳史」
文彦は静かに、淳史へと近寄った。もう一歩進めば触れ合う距離で、文彦は立ち止まり、見上げる。淳史は観念した表情で、重い口をひらいた。
「一人で……来たのか」
「来たよ」
文彦は簡潔にきっぱりと言い切って、言葉を続けた。
「だって、約束したじゃないか。一緒に行くって。その約束を、果たしに来たんだ」
「文彦……」
「もう俺に愛想を尽かしたとしまっても」
「そんなわけが……ない」
「淳史」
文彦は手を伸ばすと、伸びあがってぐいと淳史の首筋をつかんだ。迷いもせずに引き寄せると、頭を抱き寄せて、その頬へ頬をすりつけた。
「ずっと、一人で、抱えていたんだろう? 淳史の……せいじゃ、ないんだよ。俺のことも、ミチルのことも。一人で、抱えなくていい。話して欲しい――俺が、頼りなくても」
ほそい指が淳史の冷たい頬を包み、何度も撫でていく。文彦の左手に、金色の透かし彫りの指輪が輝いているのを、淳史の視線がとらえた。それからわずかに顔を歪め、文彦のうすい肩へと顔を伏せた。
「文彦……」
その声は低く、わずかにふるえている。
「愛しているよ、淳史」
「本当に――?」
「うん。淳史がもう一度、俺を選ぼうと選ばなかろうと、どちらでもいい。ただそれだけを、伝えに来たんだ」
清忠も侑己も、一瞬驚いた顔を見せたが、そのまま何も言わなかった。
しばらくして、清忠がにやりと片頬で笑った。
「よう。大人になったじゃねえか。人を迎えに来るなんざ」
「そりゃあ、そうだろう。何年経ったと思ってるんだよ」
「今の文彦は、いいな」
「そりゃそうだよ」
悪戯に視線を投げ合って、清忠と文彦はふっと笑った。
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