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第九章 航海の日(music by Fumihiko Takasawa)3

 開店して客席へと向かおうとした文彦の手を、淳史はステージ袖まで来ても、握りしめて離さなかった。 「横で――聴いていて欲しい」  囁きは低くちいさく、人いきれのざわめく店内では、ともすれば聞き落としそうだった。 「もちろん、ここにいて良いならステージ袖にいるけれど――」  文彦はややあって、気付いた。 「大丈夫。やれるよ、淳史」  文彦は、淳史の背中をゆっくりと撫でた。 「ミチルが薬へと行ってしまったのは、淳史が吹いていたからじゃないんだよ。それは、今井ミチルの業なんだ。彼が背負って、彼が責任を取って生きて行かないといけないこと。出所してからは手助けも支えもいるかもしれない。その時に、淳史は何かできるかもしれない。それまで、力を蓄えておくんだよ。カルテットは、解散になったの?」 「いや――かたちはそのままにしておこう、と。ミチルが出戻って、もし演りたいと思った時に戻る場所があるように。むろん刑務所で練習もできずにいたら、指は戻らないだろうが……」 「そうか――そうメンバーで決めたのなら。It’s not your business――もう淳史は淳史の人生を。淳史の責任は今、それでもこのステージで、淳史のサックスを届けることだよ」  それはかつての文彦が、よろよろとしながらでも音楽を続けてきたように。 「俺は――公彦との約束をようやく果たせた。ずっと、できなかったこと……それから、シルバーリングは引き出しに置いてきた」  淳史は衝撃を受けて、両目を見ひらいた。 「あんな、大切な……」 「うん。大切だよ。でも今は、淳史がこの指輪を贈ってくれたから」  淳史はじっと文彦を見つめていたが、目を閉ざして黙り込んだ。 「ねえ、せっかく会えたのに難しい顔ばかりだね。そう、最初に俺が見たときもそんな顔をしてた。どこか冷たいような、厳しいような。一緒に過ごしたら全然違うのにね。ほら、笑って、ミロール」  文彦は微笑して、シャンソンの一節を口ずさんだ。 「そうだ、淳史に初めて出会った日、同じシャンソンを思い浮かべたよ。ほら、笑ってミロール。もっと綺麗な笑顔を見せて。あたしにだって慰めてあげることくらいできるよ、ミロール――」  文彦はちいさな声で美しいフランス語で歌った。 「Allez venez! Milord. Vous asseoir à ma table. Il fait si froid dehors……」 (高嶺の花のあなたの噂を聞いたよ、お嬢様に失恋したって。ねえ、泣かないでミロール。あなたにとっちゃあたしはゴミみたいな商売女だけど。元気を出して、綺麗な笑顔を見せて。さあ、今度はあたしと歌って。さあ、微笑んで微笑んで……歌って、ミロール。ブラボー! ミロール)  淳史の頬を両手ではさみ、額と額をくっつける。  間近でちいさく囁かれる文彦の心清らかな調べは、淳史へと振動し、ゆるやかに肌へとやさしく伝わっていく。やがて高く舞うあたたかな歌声は、閉ざしていた淳史の眼をひらかせ、それから、静かに息づかせた。  それは不思議な一瞬――ぱちりと淳史へとなだれて、生命を呼ぶ文彦の音楽。 「できる。できるよ、絶対。俺がここで見ているから。俺に吹いて。俺とセッションしたあの時を思い出して。俺もここで、一緒に鳴らしてる。それを感じて、淳史。大丈夫」  ステージへと行きざま、振り返った淳史の背中を、文彦は力強く押した。 「さあ、行っておいで、高みへと。俺の心も連れて行って」  白い手は夢幻のようにゆらりと振られて、淳史を送り出した。  ウッドベースの清忠と、アメリカで一緒に活動しているドラムのアフリカンアメリカンのジョン・ホーキンズ、赤茶けた金髪のピアノのジェームズ・ハマーのトリオがメインとなって、演奏はスタートした。  そこへ、ゲストの淳史のアルトサックスと、清忠とは馴染みのインド系ハーフのトランペット、スペイン出身のギターと入って、曲によって入れ替わることもあり、ステージは相当に変化と融合に富んで、客席は飽きることなく反応も良かった。  それぞれの出身国の手放せないリズムがあって、それがぶつかっては摩訶不思議な空間を紡ぎ出していく。ステージに上がっても、その精神やバックボーンを背負っていて、音を響かせればすべてが曝け出されてしまう。 (あー……うーん、清忠のパワーがまとめてる)  文彦は心地よく微笑を浮かべて、その地響きのようなベースにいつになく揺られている。  淳史は本調子とは言えなかったが、圧倒的な練習量による基礎の確かさと、もともとの技巧の高さで凌いでいる。 (すぐには無理か。それはそうだな)  恐らくここではアカデミックさもある淳史のカラーが異色になってさえいるが、それも清忠の思うところなのだろう。そういう意味では、今の淳史の演奏は求めれているものでもあったし、このステージにとって必要不可欠なものに違いない。 (ああ、でも、いいな。全部――全部が)  きっと外は光転がすイルミネーションのマンハッタンの夜――この人いきれのジャズクラブで、迫る客席を前にパワーと押し出しのある、ダイナミックなジャズに揺られて。 (もっと感じたい。このまま、もっと――)  何時間でも聴いていたい、と文彦は立ったままに思っていたが、ステージには必ず終了時間がやって来て、熱気も必ずおさまっていく。  文彦が熱を持った頭で気付いた時には、清忠がマイクを引き寄せていた。  最後にはアフタージャムセッションがあって、事前に店に申し出たプレイヤーが参加して演奏できる。すでにその時間になっていた。清忠はそれを告げるのかと思ったが、まったく違うことをアナウンスした。 「Now, this is the last namber,『The day of my voyage』」  ピアニストが立ち上がり、足早に文彦のほうへと歩いてくる。それから清忠がべースを細かく鳴らしていく。  文彦は袖まで来たピアニストに目配せされて、それが文彦の「航海の日」だったことに気付いた。 (来いよ!)  あの日と同じ、清忠のいたずらそうな目――  同時に、横にいるジェームズに肩を大きく叩かれて、文彦は思わず笑った。 周りも気にせずに、人を巻き込んでいたずらを企む子供のようなところは、清忠は相変わらずだった。清忠のベースに合わせて、ドラムはアドリブでリズムをつけていき、ステージには淳史がサックスを構えて待っている。 (いいの? 滅茶苦茶になったって知らないよ)  文彦は笑いながら身体に渦巻く熱気に押されて、迷いもせずに大きく踏み出して飛び込んだ。   清忠が作っていたリズムに、本来はピアノでスタートするはずのイントロを乗せていく。最初はピアニッシモで、港に打ち寄せるさざ波のリズム――それはくり返し、くり返し、浅瀬から遠くなり、やがて水平線へと駆け抜けて、圧倒的に大波となってうねり、フォルテの大海へと漕ぎ題していく。船は大地を離れ、大空の下、大海を切り開いてノットを上げて走っていく。  文彦は海渡る西風となって、背中には快晴の空へと続くはずの白い翼、溜め込んでいた体中の熱を放射するように、指先はアグレッシブささえ見せて精確に転がっていく。  そこへ清忠のベースがかかり、海は深みを増していく。  パワーのあるベースの響きは牡牛のようで、文彦のピアノは音色の線が細くさえ聴こえるのに、不思議と敗けている感じはしない。それは闘牛士のようにひらりと赤い旗はかめかせ、生命とプライドを賭けて舞ってリズムを刻む。  ふいに大波が過ぎて、文彦は甘くさえあるメロウな響きで、凪の海へと進んで行った。  そこで清忠へとソロを投げて、文彦がコードを刻み、ジョンがリズムを支えていく。 (いいな、このまま――)  高みへと投げられてしまいたい。文彦は紅潮した頬で、瞳をきらりと光らせた。  清忠はジョンへとソロを引き渡し、ドラムは水を得たように鮮やかにスティックをさばいた。 (さあ、行って――淳史)  そのまま淳史のサックスが引き受けて、最初の音を雷鳴のような音量で吹き鳴らした。 (あ――もっと。淳史になって。その音を聴かせて)  文彦はピンク色の尖った舌先で唇を湿すと、ピアノで淳史を支えるのでなく、いっそ逃げ場もなく追い上げた。アルトサックスは、ピアノとのトークに押し上げられ、音階を昇っていく。 (まだ、許してやらないよ。さあ、抜けるまで)  微笑みは悪魔的でさえあり、文彦のウェットでありながらアグレッシブな音は蠱惑だった。そのままほとんどピアノとサックスの掛け合いとなり、清忠は笑いながら、それをベースで支える。 (ん……! 抜ける……ッ!)  文彦は見えない扉がひらいていくのを感じた。その先にあるのは白い光――頭の中はバチバチッと弾けて、またカルテットでのテーマへと戻っていく。  そのまま船は到着地へと着いて、今回きりのこの航海は終わっていく。  文彦は忘我したままピアノを弾き終え、ハッとした時には、会場には拍手と口笛が鳴っていた。 「あ……」  文彦はまだ正気付かない顔で立ち上がると、ようよう一礼だけして、その場を立ち上がった。ステージの端で立っていたジェームズへと握手を交わし、礼を言うと、ふらふらと奥へと入って行った。

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