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第九章 航海の日(music by Fumihiko Takasawa)4
あまりの高揚に、ホテルまでの道のりも定かでなかった。
「また会おうぜ。モンストル・サクレ!」
そう言って男らしい顔で笑って清忠は、まるで明日も会うような口ぶりだった。
「またね」
文彦は笑ってそう告げると、紅潮した頬で手を振った。
そのまま、淳史と一緒に出てきて、クラブからほど近かった文彦の宿泊する部屋まで、夜の街を並んで歩いて来た。コートを着込んで信号を待つ人々、冷たい空気を切って走りすぎていく車。鮮やかな屋外広告に色とりどりのネオン、高いビルのまばゆい光があふれ出ていて、文彦の足取りは夢見るようだった。
ホテルの部屋へと入ってようやく、淳史は口をひらいた。
「今夜は、凄かったな……」
ベッドの端へどさりと座った文彦の隣へ、淳史も脱いだコートを畳んで置いてからゆっくりと腰かけた。
文彦は脱力したまま、うっとりと微笑んでいる。
「文彦が、あそこまでなるのを初めて見た気がする」
淳史も心なしか忘我としていて、そばで微睡んでいる文彦を横目で見た。
「ん……あれは、清忠がしつこいから――ああなっちゃうな。ねえ、昔よりしつこくなってたよ。歳のせい? あれ、わかってやってるんだよね」
文彦はくっくっと鳩のように咽喉で笑う。
「清忠とは……長い間、離れていたとは思えない……あんな感じになるなんて」
「え? いや――逆に前はこんな感じじゃ……お互いに変わったんだな、確かに時間は経って。あんなに食ってかかられるとは思わなかった。俺が受けれるようになったのか……」
文彦は首を傾げて、思い馳せるように遠い眼差しになる。
「だって、連絡取れなかったじゃない」
いくつかの時間をおくびにも出さずに、軽く笑って文彦は言った。
「淳史はちょっと過保護なんじゃないかな? 俺だっていい加減一人でやってきたんだから、大丈夫だよ。結構、楽しかった」
話しながら、そのままずるずると沈み、ベッドの端からも落ちかける。
「文彦。ちゃんとベッドで寝ようか? 眠ってしまいそうだ、その顔じゃ」
「んー、寝ない。今日は。話したいから」
淳史は、触れるほど近くにある白い手に指をのばしかけて、つと止めた。それから顔を上げて、静かに問うた。
「文彦。さっき……俺を愛してるって――本当に……?」
「うん。それを伝えに来たよ。それから、淳史の話を聞きたいって思って」
文彦は濡れた縹いろの瞳でふわふわとしていて、微笑している。
「俺の――」
「そうだよ。ねえ、淳史。俺といて、苦しかったろう?」
淳史はぴたりと動きを止めて、眉をよせてゆっくりと文彦の顔を見直した。文彦は遠くを見るように、眼差しは前を向いている。
「淳史がいなくなってから、何日も考えた……色んなこと……淳史はどんな気持ちでいたんだろう?」
淳史は何も応えず、動かない。文彦はゆっくりと言葉を選びながら、とつとつと話し続けた。
「きっと……淳史は疲れてしまったんじゃないかな?俺の過去と付き合うのも、片手落ちの俺といるのも……俺は親しくなると相手を見落としてしまうみたいだから……苦しかったこと、悲しかったこと、淳史の話を聞きたいと思った」
淳史はなかなか口をひらこうとしなかったが、文彦は穏やかに待った。時間は過ぎて、部屋には静かな空気だけが流れている。淳史は片手で前髪を乱し、黒髪が額へと落ちていく。
「文彦に」
ぽつんと呟いた言葉は、静かな夜の部屋に落ちて、文彦はその行方を追うように床を見つめている。
「うん」
「初めて触れた夜――文彦は一人でベッドを出ていって眠ってしまって……寂しかった。その文彦の心を傷を思うと、ただ悲しかった」
「うん……ごめん」
「文彦の傷も後から色々と深くわかって、初めてキスした時のことが――俺の独りよがりだったんじゃないかと……自分を責めた」
「うん」
文彦はややうつむいて、頷いた。淳史も文彦を見ずに、視線を落としたままでいる。
「本当はとてもつらいセックスを文彦に強いたんじゃないかと――後悔した。もっと、色々早くに俺が気付いていれば。そう、バーで待ち合わせした時も、怪我に早く気が付いていれば」
「それは――淳史のせいじゃ、ないよ。淳史は、結局は助けてくれたんだし」
淳史はてのひらで額を押さえ、唇を引き結んだ。
「ミチルのことと、文彦の過去と――気が付けば……深みにはまっていた。文彦が過去にあまりに傷つけられていたことが、痛いほど苦しかった。ミチルは結局は、戻らなかった――それでも文彦の心が俺のほうへ向いてくれるなら、それで耐えられた。けれど、十二月三十日、文彦の姿を見て、俺では駄目なんだと。俺ではやはり愛されないんだと――ミチルも、文彦も、俺では救えないんだと……そう、思った」
「ごめんね、淳史」
その時に、淳史のスマホが立て続けに鳴って、会話はやや途切れた。淳史は指先でスマホを取って確認したが、すぐにポケットへと仕舞い直した。
「出ていいよ?」
「いや――母親が写真を送ってきただけだからいい」
「写真?」
「今頃になって昔のアルバム整理を始めて、写メで送りつけてくるんだ」
苦々しそうにそう淳史はいって、顔を少ししかめる。
「子供の時の淳史?知りたいな。ねえ、見せてよ」
淳史はしばらくの間、顔をしかめて嫌がっていたが、文彦が諦めないでいると、ようやくしぶしぶとスマホの画面をタップした。
そこにはピアノホールの前で、折り目正しくシャツのボタンを留め、十歳の淳史がブラックフォーマルで立っている。大人びたすらりとした品の良い立ち姿、涼しい表情でじっとこちらを見ている。
「サックスをする前はピアノをしていたから」
「あ、まあ。サックスはある程度年齢がいかないとね。すごいな、ピアノの王子様みたいだ」
文彦はゆっくりと指先で画面に触れた。その写真には、淳史を撮影した人のやさしい眼差しが、この一瞬を取り置きたい愛情があるようで、文彦はしばらく画面を見つめていた。
「ねえ、淳史。お母さんって、どんな人?」
「え?」
淳史は突然の質問に面食らったが、ややあって話し出した。
「結局は――俺を応援してくれた人、だな。ナツに色々できたのも、母親の影響あってのことだから。復職して忙しくなった時は、支えたいと思った。ナツは特に好みが難しかったし。父親は音楽の道には賛成していなかったから、俺が今こうしているのは色々と衝突もあったけれど、母親の存在は大きいな」
外見からイメージするよりも勤勉であり努力家であった淳史が、その優秀さとストイックさでもって学友の間で、音楽の道で、孤独な時があっただろうことは想像に難くない。理解されにくい感性、そして繊細さ――しかし、淳史の愛情深さは、この写真を見た時に文彦は納得できた。
「きっと、淳史に最初に愛を教えてくれた人は、お母さんなんだね……」
文彦がちいさく言ったのを、淳史は何げない言葉だと聞き落とした。
「帰国してからでも――文彦の子供の頃を見たいな。さぞかし可愛かっただろう?色白で茶色の巻き毛で――天使みたいな。親でなくたってきっと何枚も撮りたくなっただろうな」
淳史は思い馳せるように目を細めた。
「さあ。俺のはいいよ。昔の写真なんか、どこにあるんだか。ねえ、淳史」
「あるだろう? 産まれた時とか、入園、入学、七五三、卒業――置いてない親なんかいないだろう」
話題を変えようとした文彦に、淳史はぐいと手を伸ばして白い手を握り、話し続けた。文彦は、急に指をつかんだ淳史の手の感触に身じろぎした。
「そう、なの? 普通は……」
ふっと暗い声色になった文彦に、淳史は訝しんだ。
「どうか――したか? ごめん。見せたくなかったら、いい」
「ないんだ……見せたくても。ごめんね。俺のつまんない話はいいや。そんなことを話しに来たわけじゃないから」
「ないって……どうして――?」
驚いてぎゅっと手を握った淳史に、文彦はしばらくしてから答えた。
「さあ、可愛くなかったんじゃないかな。母親は俺を産んでから知らない男と逃げたし、一緒に住んでいた親父って呼んでいた男は、たぶん本当の父親じゃないんだ。親の顔はわからない。鏡を見れば、これが母親の顔なのかなって思うけど。とても似ているって」
淳史は言葉に詰まりながら、なんとか返事を探した。
「じゃあ……綺麗な、お母さんだったんだろうな……」
「さあ、どうなんだろう。公衆便所ってあだ名だったんだって、周りの大人が教えてくれたよ。まあ、俺も、似たようなものか。乳児院に行ったり……そのまま施設にいるのとどっちが良かったのか、今でもわからない。汚い部屋と、空腹と――中学を出て働き出した時のほうが気楽になった気がする」
淳史は押し黙り、二人の間にはしばらく沈黙が落ちた。
文彦は白い指先をもてあそびながら、ゆっくりと話した。
「俺はずっと、探しているんだ――俺は、一体誰なんだろう? 俺は、何者なんだろう?どうして、産まれてきたんだろう? ――誰にも望まれていなかったのに。その答えを、未だに、探してる。それが俺の、人生なのかもしれない。何者でもない自分」
「何者でもない……」
「俺の心の奥には、いつも同じ心象風景がある。砂浜の波の前で、座っている黒い子ども。それは近寄れないくらい汚くて、荒んでいる。ほら、家の猫って愛されていて表情もあって可愛いじゃない? でも、野良猫って愛されていないのが丸わかりで、毛並みもあせて汚くて触りたくもないじゃない。ああいう感じかな」
「別に――野良猫にそう思ったことはないが」
口を挟むことにためらいながら、淳史は話した。文彦はふっと淳史の両目を真正面から見て、少し首を傾げた。
「そう――なの? 俺はまたちょっと違うのかな。たぶん、わからないんだ。夜に一緒に寝ると、落ち着かなくて居心地が悪かった――子どもの時から一人じゃないと、誰かがいると寝られない。それでも、淳史とは同じ部屋で寝られたんだ。そのことは……嬉しかった」
文彦はそう言って、ちいさく笑った。
淳史が衝撃を受けて黙ってしまったのを、文彦は悲し気に見つめた。
「ねえ、淳史。こういうことなんじゃ……ないかな?」
「え?」
「俺と淳史は、だいぶん違うんだよ。いや、たぶん、俺が多くの人たちときっと違う。だから……俺といると、淳史は繊細だからこうして傷つく」
「そんな、わけじゃ――」
「どう言えばいいのかな……俺が過去を話してしまったから、淳史に何か責任を感じさせてしまったのかもしれない……と思う」
「文彦、そんなことはない」
「俺と恋愛すると、きっとまた傷つくよ。そして、俺はまた気付かない……頑張っても、きっと。俺は片手落ちの人間なんだ。お前はどうして産まれたんだと怒鳴られて――それは、俺自身が一番問いかけているよ。去年、淳史と一緒にいた時間は、やさしかった――ありがとう。だから、考えたんだ。今さらでも。淳史は俺とどういう風にいるのが幸せなのかなって」
「どういう――って……」
文彦はゆるやかに微笑んで、やさしい眼差しで淳史を見つめた。
「俺とこの先も恋愛していたら、淳史は今回みたいに、また自分の音楽を失いかけない?俺に、すごく気遣っていただろう? プレイヤーとして俺と淳史の相性が良いなら、音楽でこれからも淳史のそばにいられるよ。淳史にも、ちゃんと……考えてみて欲しいんだ。自分の幸せを」
「けれど、さっき、文彦は俺を愛しいると――」
「言ったよ」
「それは、それならだって、それは……」
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