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第九章 航海の日(music by Fumihiko Takasawa)5

「別に、淳史が愛してくれるから、愛したんじゃないよ」  淳史は鈍い衝撃を受けたように、ゆっくりと文彦を見た。 「淳史が俺を愛そうと、愛さなかろうと、別に変わらない。一番に淳史の人生の幸せを、祈っている。だから、音楽仲間として俺といることが必要なら、そばにいるよ。でも、恋人でいることで淳史を苦しめて悲しませるなら、俺はいやだなって……思った」 「文、彦」  すぐには言葉を返せずに、淳史は浅く呼吸した。 「それで……文彦は、どうするんだ……」 「どうも、しないよ。淳史と出会う前と同じ。ううん、同じじゃないな――淳史がくれた、たくさんのやさしい思い出があるから。それを胸に生きていける。淳史、苦しい思いをさせて、ごめんね。俺が至らなくて、悲しい思いをさせてたんだね。一人で行かせてしまって、ごめん」 「文彦、俺は――」 「明後日の昼まで、ここにいるから。考えてみて……まあ、別に返事はいつでもいいけれど」 「明後日の昼? そんなに早く帰るのか?」 「今回はね。滞在すればするほどお金かかるから。まだ親父の施設代もあるし――」 「文彦の父親って……前に聞いた借金の? そんな人間の――いや、すまない。色々あるだろう」  眉をよせて複雑そうな表情を浮かべて、淳史は文彦を見つめた。 「淳史をきっかけに、アメリカへ来れて良かった。俺のルーツをたどる旅……」  淳史は、ふと顔を上げた。 「ルーツ? 清忠も言ってたな」 「ああ。俺の母親がね、クォーターなんだって。アメリカとの。何か、見つかるものがあるかなって。ニューヨークに来たらね、すごくここに来たかったんだなぁって思いがしたんだよ。だから、また来るよ。今度はちゃんと観光とかしようと思って。自由の女神!とかさ」 「知らなかった――だから、文彦はちょっと見た目が日本人離れしてるのか……」  淳史がやや息を呑むと、文彦はふっと笑って、置き放しだった鞄を引き寄せて、中から細長いケースを取り出した。それを両手で、淳史の前へと差し出した。 「あのね、指輪のお返しに。はい、誕生日プレゼント」  受け取った淳史がそっとひらくと、中にはオロビアンコの紺色の万年筆が入っていた。金字でネームが刻まれていて、ボディの光沢が美しく上品だった。 「色々と探したんだけど、プレゼントって難しいね。相手を知らないと。何が良いのか全然わからなかった。まだ少し早いけど、こうして会えた日に渡したかった」 「文彦――ありがとう……大事にする」  淳史はケースをひらいたまま、いつまでも握りしめている。 「淳史。もしも――俺がピアノを辞めたら、それでも一緒にいたい? もしも、この顔が変わったら、ピアノがなくなったら、その後に残るのは、どうしようもなく何でもない俺自身なんだよ……?」 「ピアノの、ない、文彦――」  それを初めて考えたように、淳史は眼を見ひらいた。誰しもが文彦とピアノを強く結びつけて、そんなことを考えた人間はいなかっただろう。 淳史はおののくように止まっていたが、やがて顔を歪め、伏せて、何かを堪えるように眼をぎゅっと閉じた。 「文彦、俺は――」 「今、返事しないで」  文彦はうつむいて、両手で耳を塞ぎ、口早に言った。 「淳史にも考えて欲しい。返事がないのなら――それを、返事とするから……考えて、みて。返事はいつでもいいよ」  いつでもいい、と言いながら、それはまるで聞きたくはないかのようだった。 「俺は淳史自身が好きだよ。几帳面で心配性で責任感が強くて、繊細なんだ。いつも、やさしかった。ずっと――ありがとう」  ふう、と文彦は息を吐くと、淳史にかすかに笑いかけた。 「俺は、もう寝ようかな。長時間フライトに、時差ボケと、ハードセッションでくたくたで眠い」  軽い仕草で肩をすくめ、ベッドから立ち上がり、鞄を片付けていく。 「文彦! 答えなんか決まってるじゃないか」  背中を向けたまま振り返らない文彦へと、淳史は大股に近寄った。 「何度も言った、文彦を愛しているって――それは、文彦の全部なんだ」 「そんなわけ……ないじゃない」 「どうして?」 「だって、苦しいから、一人でアメリカへ来たんだろう? 連絡も断って、それくらい、傷ついただろう? 俺にはわからないことが多すぎて、どうしたら正解なのかわからないんだ!」  両手で強く頭を抱えると、文彦は床に座り込んだ。 「愛しているよ。でも、愛し方が、わからない! 公彦の時も、淳史の時も、俺は――」 「文彦……」  淳史はそっと近寄ると、うずくまった背中を、ゆっくりと擦った。ふっと瞬間的に思いついて、淳史は上を見上げて思考し、それからまた文彦を見下ろす。文彦の栗色の髪が渦巻く、白い首筋に指先をあててしばらく考えている。  ようやく考えがまとまったかのように一息ついて、そっと文彦のうすい肩を両手で撫でて、静かに話しかけた。 「文彦。その――さっきの文彦の家庭や、育ってきた状況を聞いて思い当たったんだが、文彦のは愛着障害とか……アダルトチルドレンっていうんじゃないのかな」 「愛……?」  突拍子もなく、突然に降って沸いたトピックに、文彦は何を話し出したのか戸惑って、大きな瞳で振り返った。何度かまばたきをくり返し、自分の思考の中に入っている淳史を、理解しようと見上げている。 「俺もあまり詳しくはないけれど、機能不全家庭で」  そこまで言って、文彦が表情を固めて困惑していることに気付いて、淳史は自分の思いついた思考をどう説明するか考えて、それからやや言い直した。てのひらは文彦の首筋から肩をそっと撫でている。 「つまり、乳幼児期に親から適切な養育を受けられないと、人間関係の基礎が作られずに、大人になってもずっと影響するって。確か――何だったかな。人に甘えられなかったり、自己評価が低い、何度も試し行動をする、見捨てられ不安に陥る、とか」 「養育って……俺は今、生きてるし。乳児院では、きっとちゃんと……」 「文彦。ごめん、きっとそうじゃない。たとえば」  淳史は文彦を立たせると、ベッドへと引っ張って連れて行く。淳史が腰かけた太腿の上に、向かい合わせに文彦を上に乗せて座らせ、やさしく手を握った。 「こうして、やさしく触れたり、抱きしめたり。文彦がお腹が空いたって泣いたら、すぐに飛んできてくれて、料理を作ったり食べさせてくれる。文彦の話すことにちゃんと返事をしたり、本を読んであげて、一緒に遊んで。文彦の好きなものが何か、嫌いなものは何か、やりたいことを応援したり――たぶん、そんな色んなことなんだ。文彦の写真を撮ると嬉しくて、手をつないで一緒に水族館へ行くと幸福で、笑顔が見たいから頑張れる」  文彦は、淳史の膝の上で向き合って、その肩へと手をかけたまま、ぎこちなく身じろいだ。てのひらから、触れ合った脚から、少しずつ熱が広がっていく。 「文彦は、親から、そういうやさしさを得られなかったから。だから、今、苦しんでいるんだと思う。そう、文彦は……」

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