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第九章 航海の日(music by Fumihiko Takasawa)6

「あ――そうだ。文彦は、苦しんでるんだ……」 「別に、俺は……」 「どうして、誰が、孤独なんか選びたいだろう……」 「別に、俺は孤独なんかじゃないよ――周りに人もいるし」 「違う、文彦。こうして愛し合うのが難しいのは――」  そこまで言って、淳史は文彦の冷たい頬を両手で包み、鋭い眼差しで見つめ、語気を強めた。 「文彦だって、文彦のせいじゃないじゃないか! 何の問題もなく、人と恋愛できたなら。どんなトラウマも傷痕も恐怖もなく、セックスできたなら」 「それは、もう、仕方ない……そういう、俺の人生はもう終わったことだから……」 「いや――途中まで、文彦は俺に甘えだしてた……それを、俺が――置いてきたから……」  淳史は何度も文彦の頬を指先で撫で、焦燥の中で息を吐いた。 「置いて、なんて――仕方ないじゃないか……淳史だってミチルのことや、俺のことにショックだったろうし。わかってるよ、わかってる――淳史」 「俺が、勝手にいなくなったから――ごめん。文彦、ごめん――」 「そんなふうに、思ってないよ」 「頭でわかっていたって――心は違うだろう。ずっと、俺は大事にしてきたのに――文彦と、話をすればよかった、もっと――ちゃんと聞けば良かった。俺のことも、話せばよかった。自分一人だけで頑張っているつもりになって……文彦はこうして、ここまで来てくれるくらい進んでくれていたのに。このニューヨークで、俺の背中を強く押してくれたのに……」 「いいんだよ……淳史」  淳史は歯を食いしばって文彦を抱き寄せると、頬に白い涙を一筋流した。文彦は淳史の抱擁に、懐かしい感覚をおぼえて、ゆっくりと体の力を抜いていく。 「未来は、まだ終わってない。何も」 「……」 「もしも、文彦と愛し合って苦しいのなら……それを、俺だけが引き受けたい。ここで、文彦の手を離してしまって、もしも未来に出会う誰かになんか、苦しみも悲しみも渡したくない。俺だけが、文彦と苦しんで、悲しんで、泣きたい。世界中の他の誰でもない、俺が。俺は、文彦と、生きたい」  文彦の唇はふるえ、淳史の肩を指先がぎゅっとつかむ。 「幸せに……ならないかもよ?」 「ならなくてもいい。一緒に地獄に堕ちても。文彦といるなら、どんな暗闇でもいい」  大きな瞳は涙で満ちて、幾粒もの雫が白い頬に転がり落ちていく。 「いい――の? それで……」 「文彦がいるところが、俺のたった一つの天国だ。文彦はずっと、俺のミューズだった。俺を、ここまで導いてくれた……もしも、文彦がピアノを辞める日があるなら、その時にこそ、俺が隣で支えたい。文彦がもしも先に死んでしまうことがあったら、その不在の寂しさも、全部俺が、俺だけが引き受けたいんだ。他の誰かに、それは絶対に手渡せない。文彦には俺が探していたものがあるんだ――ただひらすらに、ひたむきに生きてきた清らかな誠実さ……オネスティ。そんな文彦が大切で、好きなんだ」 「淳史……」  文彦は淳史の首筋に顔をうずめ、久しぶりにそのウッディな香に大きく包まれて、嗚咽した。泣き声はかすれ、しゃくりあげる咽喉は止まらず、ふるえる指で淳史の肩をつかみしめている。 「俺のことを、怒ったっていいんだ――勝手に行くなって。そうこれからは、お互いに怒ったり、喜んだり、もっとたくさんしよう」 「言って、いいの……? 何処にも、行かないでって……」  文彦はほそい肩をふるわせた。 「もう、俺を置いていかないでって……」 「文彦、ごめん。もう何処にも行かないから」  淳史はそのちいさな顔をてのひらでそっと押し包み、指先で丁寧に涙をぬぐう。文彦はその手に手を重ね、首を傾けてゆっくりと耳に押し当てた。 「淳史の、手だ」 「うん」  淳史は文彦の手を強く握りしめ、それから手の甲を押しいだくと、誓うようにゆっくりと白い肌へとくちづけた。  文彦が泣き止んで、心が落ち着くまでのしばらくの間、二人は何も言わずに寄り添った。時間は真夜中となり、しんとして二人きり、指をからめて夜のしじまを漂っている。  無言は何より雄弁で、二つの心をやさしく包み込んでいて、静寂は満ち足りている。  漕ぎ出でて凪に止まった帆船のように、ただ揺られて胸は穏やかに波打っている。 「まだ、離れたくないな……」  淳史は自分で困ったように呟いて、文彦の手を握り直した。  淳史の熱は文彦の肌の表面をつたって、その奥までも入っていく。その快さに、文彦はことんと淳史の肩に頭をもたせかけた。  ぎゅっと肩を引き寄せ、やわらかくうねる栗色の髪へと鼻先をうずめ、淳史は目を細めて息を吸い込んだ。 「淳史……」 「どうした?」  いつもそうして、文彦へと問いかけ、窺い、ずっと見つめてくれていた、やさしい眼差し。文彦はうっすらと涙を浮かべると、片手で瞳に満ちた涙をぬぐった。 「どうしたんだ」  淳史は驚いて向き直り、うすい肩を両手でつかむと、正面から白い顔をじっと覗き込んだ。 「そうやって……淳史に、訊いてもらいたいと、思ってた……淳史が、いなくなって……」 「そんなこと、何度でも――」 「うん」  文彦はくり返し頷いて、淳史の手に手を重ねる。 「俺は、文彦とまた部屋で過ごしたかった……」 「ずっと、待ってた?」  淳史は黙って頷き、共に過ごした時間、待っていた時間へも思い馳せるように眼を閉じた。 「明日の朝」 「うん」 「目覚めたら」 「うん」 「――目覚めたら……そばにいて」  それは、長い間、文彦が口に出すことは出来なかった言葉だ。  ためらいながらちいさく囁いた文彦は、それきり口を閉ざした。淳史はパッと瞬間に目をひらき、喜びにあふれた眼差しで見つめた。 「いるよ、文彦」  淳史は文彦の手をすくい取り、強く握りしめた。 「俺こそ――俺のそばにいて欲しい。朝まで、俺の隣でずっと――」  その声は喜びに活き活きと満ちていて、文彦を安堵の中へと包んだ。  灯りを落として、寝支度をして、二人で横たわればぎゅうと狭い白いベッドの中で、指を触れ合わせている。淳史の指はずっと文彦の指を撫で、それはいつまでも止みそうになかった。  その夜は、文彦はなかなか寝付けなかった。大きな瞳を見ひらいて、じっと唇を引き結んでいる。  ややあって、淳史は低い声で話し出した。その胸に兆したのは募る想いだった。 「文彦に、聞いて欲しい。俺自身のことを」 「もちろん――いつでも」  文彦はベッドに入ってから、初めて淳史の顔を見た。文彦が、淳史が、目の前に見るのは、他の誰でもない愛しい存在だった。  淳史は少しずつ言葉を紡いでいく。どんな天気に産まれたのか、兄になった日、サックスへと惹かれた少年時代、迷い込んだ青春、どんなことに喜び、惑い、好きなこと、苦しんだことは何だったのか――  それぞれに異なった人生を、運命を、二人はずっと話し続けた。  やがて文彦は心地よい疲れの中で、微笑みながらうとうととし出した。しばらくして、長い旅路に重かったはずのまぶたは穏やかに降りて、ちいさく寝息を立て始めた。  淳史はそれを見守ると、幸福そうに笑って、文彦を腕の中へと抱き込んで眠りについた。 「おやすみ」  それは夜の夢へと誘う、幸福に満ちて安らかな挨拶だった。  文彦が泣き止んで、心が落ち着くまでのしばらくの間、二人は何も言わずに寄り添った。時間は真夜中となり、しんとして二人きり、指をからめて夜のしじまを漂っている。  無言は何より雄弁で、二つの心をやさしく包み込んでいて、静寂は満ち足りている。  漕ぎ出でて凪に止まった帆船のように、ただ揺られて胸は穏やかに波打っている。 「まだ、離れたくないな……」  淳史は自分で困ったように呟いて、文彦の手を握り直した。  淳史の熱は文彦の肌の表面をつたって、その奥までも入っていく。その快さに、文彦はことんと淳史の肩に頭をもたせかけた。  ぎゅっと肩を引き寄せ、やわらかくうねる栗色の髪へと鼻先をうずめ、淳史は目を細めて息を吸い込んだ。 「淳史……」 「どうした?」  いつもそうして、文彦へと問いかけ、窺い、ずっと見つめてくれていた、やさしい眼差し。文彦はうっすらと涙を浮かべると、片手で瞳に満ちた涙をぬぐった。 「どうしたんだ」  淳史は驚いて向き直り、うすい肩を両手でつかむと、正面から白い顔をじっと覗き込んだ。 「そうやって……淳史に、訊いてもらいたいと、思ってた……淳史が、いなくなって……」 「そんなこと、何度でも――」 「うん」  文彦はくり返し頷いて、淳史の手に手を重ねる。 「俺は、文彦とまた部屋で過ごしたかった……」 「ずっと、待ってた?」  淳史は黙って頷き、共に過ごした時間、待っていた時間へも思い馳せるように眼を閉じた。 「明日の朝」 「うん」 「目覚めたら」 「うん」 「――目覚めたら……そばにいて」  それは、長い間、文彦が口に出すことは出来なかった言葉だ。  ためらいながらちいさく囁いた文彦は、それきり口を閉ざした。淳史はパッと瞬間に目をひらき、喜びにあふれた眼差しで見つめた。 「いるよ、文彦」  淳史は文彦の手をすくい取り、強く握りしめた。 「俺こそ――俺のそばにいて欲しい。朝まで、俺の隣でずっと――」  その声は喜びに活き活きと満ちていて、文彦を安堵の中へと包んだ。  灯りを落として、寝支度をして、二人で横たわればぎゅうと狭い白いベッドの中で、指を触れ合わせている。淳史の指はずっと文彦の指を撫で、それはいつまでも止みそうになかった。  その夜は、文彦はなかなか寝付けなかった。大きな瞳を見ひらいて、じっと唇を引き結んでいる。  ややあって、淳史は低い声で話し出した。その胸に兆したのは募る想いだった。 「文彦に、聞いて欲しい。俺自身のことを」 「もちろん――いつでも」  文彦はベッドに入ってから、初めて淳史の顔を見た。文彦が、淳史が、目の前に見るのは、他の誰でもない愛しい存在だった。  淳史は少しずつ言葉を紡いでいく。どんな天気に産まれたのか、兄になった日、サックスへと惹かれた少年時代、迷い込んだ青春、どんなことに喜び、惑い、好きなこと、苦しんだことは何だったのか――  それぞれに異なった人生を、運命を、二人はずっと話し続けた。  やがて文彦は心地よい疲れの中で、微笑みながらうとうととし出した。しばらくして、長い旅路に重かったはずのまぶたは穏やかに降りて、ちいさく寝息を立て始めた。  淳史はそれを見守ると、幸福そうに笑って、文彦を腕の中へと抱き込んで眠りについた。 「おやすみ」  それは夜の夢へと誘う、幸福に満ちて安らかな挨拶だった。

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