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第九章 航海の日(music by Fumihiko Takasawa)7
やわらかな日差しの差し込む白い部屋で、文彦は人差し指をさし示す。
目前から舞うようにすーっと降りて、一つの曲線を描いていく。
それは端正な横顔の、冬の目覚めにまだ冷たい輪郭。すっと黒髪の生え際をたどって、秀でた額、それに続く高い鼻梁、かたちのよい唇、やや鋭角な顎をなぞり、喉仏の山なりな首筋へと続いていく。
半身起き上がって肘をつき、文彦の指先は鎖骨をくすぐって、朝の眠りにまだ閉ざされた睫毛に触れる。
これまでに同じ部屋で過ごしたことも、くちづけを交わしたことも、深く肌をからめたこともあったはずなのに、これほど間近に淳史の顔を眺めたことは初めてのような気がして、不思議な感慨にとらわれながら文彦は指先の動作を繰り返した。
(思っていたより、ずっと――)
静かな呼吸に動かない横顔は彫像のようで、記憶の中よりもいっそ端麗に感じることに、文彦は少し驚いた。それは胸こぼれおちる想いの、てのひら包み切れない愛しさの、想い人だけが目にすることができる生気と光あふれる容貌なのだとは気付かずに。
文彦の頬に立ち昇った微笑はいたずらっぽく、指は続いて首筋から耳朶へとたどる。
淳史は微睡みの中で、くすぐったいのか抗議するようにわずかに声を洩らして、身じろぎした。
そこでようやく重たそうにまぶたを上げて、霞んだような眼差しで目の前の光景をみた。切れ上がった、時に鋭く冷たい光を浮かべるまなじりは、今はまだ半ばまどろみに漂ながら、そこにあった、文彦が同じベッドで窮屈そうに肩肘をついている光景を目にして、何度か瞬いた。
「淳史、起きた?」
「文彦……?」
淳史はゆっくりと手を上げた。
「ん……」
確かめるように文彦の顔にわずかに触れていく。今度は文彦がくすぐったそうにして笑い、軽く咽喉をのけ反らせる。
「本当に……文彦がいるんだな」
「そうだよ」
他の誰がいるの、と問いたかったが、文彦はぐいと引き寄せられて言葉を失った。
「おはよう。先に起きるつもりだったのに」
「俺、あんまり寝ないんだよ」「明日には、発つんだろう? 文彦の行きたい場所をできるだけ足を伸ばそうと思っていたのに」
「そんなこと」
「そんなことじゃないだろう?大切なことだ」
「また、今度にするよ。淳史もずっと疲れていたんじゃないの?どちらかというと考え込むタイプだし」
「それは……まあ。文彦とこうして会えて、かなりホッとした。文彦といると、安心して」
淳史はすぐそばにある白い手へと指を這わすと、すぐにそれは握り返した。
「今回はあまり何処へ行きたいかも考えずに来てしまったから。今度はちゃんと準備して、日程も取って、アメリカ横断!したいな。カリフォルニア、ロサンゼルス、サンフランシスコ、セドナのカセドラルロック――来てみると、ニューヨークだけでも広くて、もっとちゃんと計画しないとなって思った」
文彦は軽く笑ったが、淳史は眉をしかめて複雑そうな表情を浮かべた。
「また、淳史は自分のせいだと思っているだろう?」
「それは――まあ。俺が初めに文彦の話をよく聞いて、一緒に考えれば良かった。俺が勝手に去ってしまったから、考える時間もなかっただろう――」
「いいんだよ。淳史に会いに来たんだ。そう、マンハッタンに立つ淳史を見に来た」
文彦はけぶるような眼差しをして、ベッドの上で隣に座る淳史の顔を見上げた。白い顔は異国の地に射す窓からの光を受けて澄んだ微笑みを浮かべ、栗色のゆるやかに波うつ髪は陽にうっすらと透けて、淳史はまぶしそうに目を細めた。
「だから、いいんだよ。何にだって、時がある――今回は、その時、じゃないんだよ。淳史ともう一度めぐりあって分かり合えた、清忠と年月を越えて再会して音楽を交わした、それだけがすべてだよ。それから、すごくここに来たかったんだっていう、実感。一人で来て、色々と楽しかったよ。淳史と一緒に来ていたら、また違ったと思う」
「……」
「だから、ありがとう」
「どう、して?」
「きっと俺が自分一人で、ここまで旅する必要があったから。そのために淳史は傷ついて一人で行ったのかもしれない。すべては、こうして繋がっていく――誰しもが、宿命があって、時があって」
文彦の瞳は物憂い美しさを湛えていて、長い睫毛は薄紫の影を刷いている。その横顔は無垢な少年のような、それでいて、老成して年齢さえ定かでない隠者のようにさえ見える。淳史は鋭い光を湛えた眼でじっと見つめていたが、やがて吐息をついた。
「文彦は、強いな」
「よく、思うよ――人はどうして、こうも違うのだろう? どうしてここに生まれ落ちたんだろう? 同じような幸運、それとも不運があって、どうして幸福になる人間と、堕ちてしまう人間がいるんだろう? その分岐点は、いったい何なのか――運、環境、自分自身? そして、俺は――いったい誰で、何処を、歩いているんだろう?ずっと、探しているんだ」
文彦は独り言のように呟くと、窓から見渡すマンハッタンの町並みに視線を遠く投げた。
(そう、探しているんだ――明けない夜明けを待つように)
「よろよろと生きているしかないけれど」
あまりにも重く過酷な環境と、過去を背負って、文彦は異国の景色を見つめて顔を上げている。淳史は何も口を挟まず、文彦をただ手を握りしめたままで、静かに見守った。
やがて、文彦は深い物思いから目覚め、ハッとして唇をひらいた。
「ごめん――何だっけ?」
「文彦と、会えてよかった」
それは昨晩会えたことなのか、それとも人生においてなのか、淳史は急に文彦を引き寄せると、強く抱きしめた。渦巻く髪へと顔をうずめ、指先で髪をからめてもてあそぶ。
「くすぐったい」
淳史の胸の中で、文彦の声は不明瞭となり、二人は静かに笑い合った。
「腹が減ったな。外へ出ようか?」
「うん」
「行ける範囲で回ろう。ロウアー・マンハッタンでバッテリー・パークからフェリーでリバティ島に行ってもいいし」
「リバティ島?」
「自由の女神だ。チャイナタウン、ブルックリン・ブリッジも近いな。ソーホーからグリニッジ・ビレッジを上がっても街並みが面白いかもしれない。歴史のある古い街並みと、色んな文化が混じっていて。ハイラインを歩いてもいいな」
「詳しいね」
「まあ、ニューヨークは」
文彦は少し考えた後、ベッドから降りると壁際のキャリーケースから旅行本を取り出して、指先でページをめくった。
「うーん、今日は淳史といるから観光よりも――あ、メトロに乗りたいな。セントラルパークを歩いてみたい。それから、パークの北のデューク・エリントン像と、ウッドローン墓地にはマイルス・デイヴィスとかデューク・エリントンとかが眠ってるんだよね? それからルイ・アームストロング・ハウスと、ニューヨーク近代美術館も。夜はジャズかゴスペルが――」
「考えてないって、結構あるじゃないか」
淳史は驚いてベッドから立ち上がり、文彦から地図を借りて指先で道筋をたどっていく。
「何処まで行けるかわからないな――」
「行けるところまで、ね」
くすりと笑って、文彦は生真面目な表情で地図を睨みだした淳史の頬を、指先で軽くつついた。
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