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第九章 航海の日(music by Fumihiko Takasawa)8

 地下鉄に乗るついでにグランド・セントラル駅を見ようということになって、淳史と文彦は連れ立ってホテルのロビーを後にした。  日本よりも乾燥した気候は、空気をより冷たく感じさせる。文彦はストールをぐるりと巻いて顔半ばまでうずめ、淳史は黒いロングコートに手袋で、ウールベースの抜け感のあるハットを被っている。  淳史はすぐに近隣のレストランに入るか、グランド・セントラル駅のバルコニー・レベルのレストランにするか迷っていたが、文彦はしばらく歩いて見かけた光景に立ち止まった。 「あそこがいい」  テイクアウトのバーガーショップの前で、この寒空の下にも関わらず、何人かのグループが店外に出された簡易なテーブルで立ったままハンバーガーをほおばっている。 「外なんて寒いだろう? ああいう店なら他に幾らでも」 「あれがやりたい」  文彦はさっさと歩いてメニューパネルを見始めた。 「文彦!」  淳史が駆けて来て、結局はそこでブランチとなった。  文彦がニューヨーカーに混じって一つのテーブルを陣取ると、淳史は後からついて来る。パテのはみ出したかなり大きいハンバーガー、文彦の手にあまるドリンクを実際に手にして、文彦はしげしげと眺めている。 「寒い」  ためらいなく、文彦よりも早くがぶりとハンバーガーを白い歯でかじって、淳史はやや不満気味な声を洩らした。 「寒いの嫌いだもんね」 「知ってるんだろう?」  文彦は声を上げて笑って、ようやく少しずつかじり出した。さすがにすべてを食べ切れずに手持ち無沙汰にしていると、淳史が覗き込んだ。 「もういらないのか?」 「まあ」  ややあって答えると、淳史はひょいと残りを取っていった。 「よく入るね」 「抜いた朝の分だ」  文彦は隣を見て、少し笑った。淳史の立ったままバーガーをほおばる長身は、このニューヨークの中で様になっている。  数々の映画やドラマの舞台となった、巨大なセントラル・パーク駅へと向かい、隣接するメットライフビルやビルの向こうに建つ超高層のクライスラー・ビルを見上げながら、ボザール様式の優美な駅建築に文彦は感嘆の声を上げた。正面にはティファニーの大時計、コンコースに入ればオパール時計、天井の星座図と、人々が行き交う中で文彦は見回した。  地下鉄の移動は短かったが、地下で楽器を演奏するバンドがいたことに、文彦は驚いた。 「演奏場所は決まっていて、オーディションに受かればパフォーマンスできるんだ」  淳史の説明も耳を通り過ぎていって、文彦は心浮き立っていく。  再び地上に出れば、広大に緑織りなすセントラル・パークは目の前だった。  凍てつく寒さに、池も芝生のシープメドウも閉鎖されていたが、ウォールマン・リンクがひらいていた。木々の向こうにはマンハッタンのモダンなビル群、その前で人々はアイススケートを楽しんでいる。  回転木馬は美しいデザインで家族連れでにぎわい、道では公園内を回る馬車がゆっくりと通り過ぎていった。  左手へと抜けて、文彦は地面に埋め込まれた一枚のプレートを遠くに見つけて、歩き寄った。そこは公園内の一画にある、ジョン・レノンの偲ぶ「ストロベリー・フィールズ」という記念碑だ。地面の円形のプレート以外何かあるわけではないが、近くのベンチで年配の男性がギターを弾き、まばらにいる何人かがあわせて口ずさんでいる。 「Imagine there`s no countries. It isn`t hard to do. Nothing kill or die for…..」 文彦もしばらく口ずさんでいたが、淳史に手をひかれてようやく歩き出した。  そこからは淳史の選択で、イエローキャブに乗車し、デューク・エリントン像を見てからクイーンズまで出てルイ・アームストロング・ハウスへと回った。二十世紀を代表するジャズトランぺッターの自宅は博物館となって、トランペットやレコーディング設備などが公開されていた。 「腹が空いた」 「うん。でも美術館が十七時半で閉まっちゃうから。後で淳史の好きなもの食べよう?」 「わかった」  二人してマンハッタン五番街まで帰り、ニューヨーク近代美術館へと滑り込んだ。 「ここの建築は日本人なんだ」 「そうなの? 知らなかったな」  美術館の吹き抜けのアトリウムや、空間を駆使した斬新さを持つ美術館を、文彦は見回した。ゴッホの「星月夜」、ダリの「記憶の固執」、シャガールの「私と村」、ルソーの「夢」の前に特に文彦は立ち止まっていたが、モネの「睡蓮」の前が一番長かった。その瞳は一つずつ夢見るようで、唇はかすかに動いている。  美術館から外に出た時には、すっかり夕刻となって、燃えるような落日がビルの合間に落ちていこうとしていた。 「綺麗」 「うん」  文彦が呟くと、淳史が頷いた。  淳史は近くの、ガラス張りの瀟洒なステーキハウスを選んで、ドライエイジドを注文した。ジューシーな熟成肉や付け合わせの量に圧倒されて、文彦はそれだけで辟易して、手を伸ばすまでにやや時間がかかった。淳史は手早く流麗に切り分けては、ぱくりと口へと運んで、どんどん平らげていく。  文彦は店のざわめきの中で、こうして向き合って食べるのも久しぶりなのだと気付いた。赤ワインを咽喉へと流しこんで、首を傾げてから、淳史と目が合うと微笑んだ。 「さあ、今からどうする?」  すぐ近くに見える超高層のロックフェラー・センターへと引き寄せられるように、二人して肩を並べて歩いている。 「音楽を聴きにいく? ロックフェラーの展望台もあるな」  淳史の声を心地よく聞きながら、文彦はとっぷりと日の暮れたマンハッタンの夜を歩いている。光ころがるビルの谷間で、コートのポケットに両手を突っ込んで、瞳はまどろんでいる。ぶらぶらとしながら、淳史の後についていくと、ロックフェラー・センターへと着いた。 「あ」  文彦と淳史は同時に声を上げた。  ぐるりと旗が囲った内側へ階段から続く白いスケートリンクが広がっている。もう夜だというのにイルミネーションの下で人々はスケートし、歓声を上げている。そのすぐ正面に黄金のプロメテウス像が立っていて、その上に―― 「クリスマスツリーだ……」  色とりどりの光に飾られて、目もくらむほど眩しく輝くのは。細やかな光と立ち昇る輝きに包まれて、白いリンクの向こう側、二人の目の前に煌々と光っている。 「今年は点灯式が遅かったから……まだやっていたのか」  淳史は独り言のように呟き、それからすぐ横にいる文彦を見た。その横顔は夢見るようにふわりと微笑していて、眼差しは目の前に広がる幻想的でさえある光景に心奪われている。淳史は切れ長の眼を一度またたき、かたちのよい唇を引き結んだ。 「綺麗だ」  文彦は感嘆の声を上げた。 「俺には、文彦のほうが……」  淳史は文彦の指先をぎゅっと握り締めながら、そこまで言って、真摯な眼差しでじっと文彦を見つめた。握りしめた左手には、金色の指輪の硬質な感触。それは冴え冴えと冷たく、淳史は無意識に指先でそれをなぞる。  肩を寄せて、頬を寄せ、そして顔を近寄せてから、淳史はハッとして我に返ったように動きを停止した。 「ねえ、淳史。言っておきたいことがあるんだ」  文彦は低い声で囁くと、淳史はやや動揺したように黙って頷いた。  文彦は少し高いところにある淳史の肩に手を乗せると、引き寄せるようにした。片手で唇を囲って耳元へと贈ったのは、ただ一人にだけ伝えたいウィスパーボイス。 「あのね――Merry Christmas and a Happy New Year!」  文彦が微笑むと、二人の間には見つめ合う時間だけが続いていく。  淳史は息を止めてただ黒い両眼をひらいて、光舞う夜に、甘やかな静謐さにわずかにおののいた。 二人の周りですべてはかき消えて、音さえもなくしていく。  文彦は腕を上げて淳史の首筋をつかむと、ぐいと引き寄せた。  あと二センチ、一センチ――   文彦の唇が、淳史の唇をかすめていき、一瞬だけ押し当てられた。技巧もないくちづけは、やや乱暴でさえあって、文彦はじっと黒目を上瞼に引き付けて、淳史を見つめている。  淳史は少し驚きながら、文彦の瞳を見直した。 「文彦」 「ん?」 「何だか、初めてキスしたみたいだ」  淳史は意識しないままに、まだやわらかな感触の残る唇を指でたどり、わずかに首を傾げた。それから向き直ると、文彦の肩に手を置き、覗き込んで囁いた。 「All I want for Christmas is you. Here’s to the New Year, my love――文彦」  指と指をからめて、二人が見つめる先には、いつまでも何処までも続くような輝きの渦。それは白く、青く、オレンジにそれぞれ思い思いに瞬いて、冬の冴えて澄んだ空気を万華鏡のように眩かせていた。  文彦は振り返ると、大きく手を振った。  往路と同じジョン・F・ケネディ航空で、文彦は帰路についた。  振り返った先には、いつまでも片手を上げて、その場を離れないでいる長身。その姿はどの地にいようと、すらりと瀟洒に両脚で確かに立っている。少しずつ離れていけば、文彦の心には愛しさが満ちて、やさしい切なさがあふれていく。  昨晩に二人カウンターに並んで聴いたジャズプレイ、それから手を脚を触れ合って眠った二度目の夜を思い出に、文彦の唇は微笑みにかたちづくられる。うつむいて昨晩聴いた「ディア・オールド・ストックホルム」を口ずさんだ。  想像していたよりも、身近に感じられて喜びに満ちていたニューヨークへの旅路―― (生まれるもっと前に、ここにいた気がする)  今朝も目覚めて隣にいた淳史に、そんなことを言ったのだ。 (もしもそうなら、その時にも俺は文彦に出会っていただろうか? どの時代にどの場所にいても、文彦と出会いたい)  そんなことを言って、淳史は笑っていた。 (見つけて。何度でも、迎えに行くから)  そう応えた文彦の眼差しに、淳史はそれ以上は言葉を失って、ただうすい肩へと顔を伏せた。しっかりとした肩はわずかにふるえて、長い間、文彦に抱きしめられていた。 (すべてはこの地だった。ありがとう)  文彦は海渡る前に、エネルギーを受けた大地に別れを告げるように囁いた。  年月を飛び越えて再び清忠とプレイしたことも、初めて異国の地でのセッションが刺激的に成功したことも、そして愛しい心と寄り添えあえたことも。 (まだ知らない国、これからめぐりあうもの――)  いまだ見ぬ先へと向かうためのトランジット。  海を越えて芽生えた不思議な感覚は、文彦の中でこれからも失われることはないだろう。それは広がって、きっと未来の途中へと続いていく。  もしかすれば、てのひらへと得ることができるかもしれない、己で飛び立つ空えがく未来。  そこにはまだ体感していない音楽と、文彦の知らない律動と、人々の想いがあるに違いなかった。 (許されるのなら知りたい。まだ見ぬ音楽を、プレイヤーを、それを育んだ地を)  文彦は初めて、手にしたい未来を願う。  顔を上げて、淡紅色の唇は律動を刻み、足はくり返し確かなリズムとなって、文彦は再び空を翔んだ。  

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