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第十章 オネスティ(music by Atsushi Hagio)1

 客の引いた店は静かで、ひっそりと沈んでいる。  竜野は閉店支度をしながら、店に流れるピアノの音を満足げに聴いた。少し考えてからグラスに氷を入れ、バーボンを注ぐ。以前よりも深みと艶を増した音は物憂く、たゆたって酔えそうな音が酒を誘ったのだった。  観客一人きりの、それは上質で贅沢な時間だった。時折訪れるその楽しみを、竜野は壊さぬよう見守った。  ピアノはやるせないほどひっそりと静かで、うちふるえるような音色だった。 (疲れた)  帰国してすぐに届いた知らせ、それから一気に起こったことに、文彦はぐったりとしながら呟いた。  それではしかし、いつから疲れていたのか――と問われれば、文彦は答えることができない。人生はひっきりなしに疲れていた気もするし、疲れるほど生きてはいなかった気もする。  黒く磨かれたピアノの前にある横顔は、ちいさく唇がひらかれ、陰鬱、とも言い得る翳りが、紗のようにかかっていた。 (ようやく) 指は絶え間なくひらめき、次は「ジャンゴ」へと移る。呼吸とともに動き、正確に、黒白の鍵盤をとらえていく。 (最期に息子孝行したってわけだ)  帰国してすぐに届いた知らせは、入所させている施設で父親という男が眠りについたまま息を引き取った、という連絡だった。  文彦は手配をし、通夜も葬式も行わず、直接に火葬場へと送った。それが最期にかかった手間と費用だった。  焼却場から出てきたのは、もろもろとした骨ばかりで、文彦はそれを一人で拾った。目の前にあった壁がふいに消え失せたような、そんな不確かな感覚が襲い、文彦は苦々しく顔をしかめて遺骨を見た。  哀しみなのか、安堵なのか、その胸のかたまりを、文彦は名付けることができない。骨壺の中に見たのは、確かにともに暮らしていたはずの男の一部なのだった。涙はなかった。  暗鬱な響きとともに、音は切れた。  竜野は少し前にやってきた来客に、バーボンの水割りを差し出す。長身はグラスに口寄せて、一気に飲み干してしまうと、音が続かないのを見てとって、ピアノへと大股に近付いた。 「文彦」  複雑な吐息をもらした横顔は、どこか打ちのめされている。父親の死が奇怪なかたちでもって、心に影を落としていたのかもしれなかった。  帰国してすぐにその足で、ミスティへと今たどり着いた淳史は、スマホを握りしめたままピアノの前で立ち尽くしていた。  竜野に目線で挨拶し、文彦の腕を取って、淳史は歩き出した。  詳しい事情は知らないまでも、竜野は何かを読み取って二人の背を見送った。 「どうして、すぐに連絡をくれなかったんだ!」  マンションの部屋へと文彦を連れてきて、淳史は思わず叫んだ。  スマホのメッセージで、ついさっき淳史が帰国の連絡をしてからようやく、文彦からその知らせを受けたのだった。 ―今、帰ったよ。明日、会いたい。 ―明日は、父親の施設の遺品整理に行くから、ちょっとわからないな。淳史の次の休みでどう? ―遺品整理って、他界したのか? ―そうね、火葬は終わったんだけど。荷物がまだ。 ―今、何処にいるんだ? ―今日からミスティに出てるよ。  そこで淳史はメッセージを打ち切って、急いで文彦の元へとやって来た。 「すぐに連絡をくれたら、少しでも早く帰って来れたのに!」  語気を強めた淳史に、文彦は戸惑いながら、条件反射で機械的な微笑を浮かべた。 「何か……俺はまた、間違ってた……?」  困惑しながら、顔色をうかがう文彦に、淳史はハッとした。 「あ、いや――怒ってるんじゃないんだ。ごめん。ただ、心配だった」 「帰るのに半日もかかるのに。それに、淳史に関係がある人間が死んだわけでもないだろう?」 「一時間でも早く、文彦のそばにいたかったんだ。何も知らずに――アメリカにいて。それに自分で後悔して」 「淳史のせいじゃないってば」  文彦はやや疲れたように、ソファーの中で脱力すると横を向いた。  投げ出されていた白い手を握り、淳史は自分の膝の上へと引き寄せた。 「うん。でも、文彦がどんな気持ちだったんだろうと思うと――」 「どんなって。何も思わないよ。イレギュラーなことをして疲れただけ。それも、後は明日で終わりだし。心配なんてすることでもないよ」 「すまなかった。何か温かいものでも飲もう」  キッチンへと向かった淳史の姿を、文彦は縹いろの瞳で、じっと追いかけている。  淳史は考えた後にホットワインを選び、それをソファーで隣り合って飲んでいる間は、文彦は大人しかった。  淳史がベッドルームに置き放しにしていた旅行の荷物を片付けようとリビングを出て行くと、文彦もついてきた。  片づけをする淳史の後を追うように、うろうろとしている。やがて洗濯機の前に立った淳史の背中のシャツをつかんだ。 「どうした?」 「……えっ?」  ぼんやりとしていた文彦はそこで初めて顔を上げて、急に振り返った淳史の背中にぶつかった。 「おかしい……?」 「すぐに終わらせるから。明日もあるし、リビングでゆっくりしておいたほうが――」 「ああ、うん」  生返事で答えて、文彦は結局はその場を離れなかった。  淳史は訝しんで、眉を寄せた。 「本当に、どうしたんだ? まるでナツが小さい頃、後追いしていたみたいな……」  淳史はそこでふと気付いて、動きを止めた。 「今日はひどく俺の顔色をうかがっているし……」 「そう……?」  ちいさく呟いた文彦は、不思議そうに少し首を傾げた。  文彦の心の中はないまぜになっていて、本人でさえ何を本当に感じているのか定かでない。公彦の死から、まったく違う意味の谷間で、父親という男の死が存在の影を落としていることだけは間違いなかった。  ふっと真剣な眼差しになって、淳史は文彦に向き直って言った。 「明日、俺も行く」 「でももう、大したこともないし。すぐに、帰って来るよ。淳史が心配ならこの部屋に来るから」 「今日も、一緒にいよう。明日は、ここから一緒に行こう。言ったじゃないか、苦しい時は支えたいって。俺を頼ってくれたら嬉しい」 「別に、苦しくはないよ。疲れた、だけ」 「文彦がそう感じるなら、それでいい。明日は俺が運転していく」  何も言い返しようがないほどに強く言い切った淳史に、文彦はかすかに頷いた。

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