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第十章 オネスティ(music by Atsushi Hagio)2

 部屋のドアを淳史が開けて出て来た時から、文彦の足取りは重く、視線は遠くを見ている。いつもなら軽い仕草で淳史よりやや低いところに並ぶ肩は、今は淳史の少し後ろをのろのろと歩いている。  白い車が小川を越えて施設「せせらぎ」へと入り、駐車した時に、門扉の付近でこのあたりに似つかわしくない年配の薄汚れた男がうろついていた。老いた姿にいぎたない髭、くたびれた服で、文彦が車から降り立つと近寄ろうとした。  しかし続いて、淳史の上質なコートの襟を立てた長身が降り立ち、何か、と鋭く冷たい眼差し問うように向けると、その老人は立ち止まり、そこから動かなくなった。 「あれは――何だったんだ?」  施設で挨拶と手続きをし、文彦が退所する部屋の荷物を片付けだした時に、淳史は呟いた。 「ああ。ゲートの? あれは父親の昔の友人……ほら、淳史とバーで待ち合わせした時に怪我した時があったじゃない? あれをやった張本人」 「何だって?」  淳史は立ち上がって部屋から飛び出しかけて、文彦が素早くパシリと手首をつかんだ。 「行って、どうする?」 「いや――文彦をあんな目に遭わせたのに、何かしてやらないと気が済まない」  文彦はふっと笑った。 「淳史の手が汚れるよ。淳史を見て、近寄っては来れなかった。もう俺もここへ来ることはなくなったんだし」  それから、文彦はちいさい声で続けた。 「淳史……ここにいて。見えないところへ行かないで。俺を置いて行かないで」 「文彦」  ハッとして淳史はすぐに文彦の隣へと戻った。 「行かない。大丈夫だ」 「あ……俺は、何を、言ってるんだろう? 嫌だな――おかしい」  文彦は混乱したように、片手で栗色の髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。片手で額を押さえてしばらく瞳を閉じた。  いくつか呼吸をくり返した後、文彦は大して数もない荷物を、手荒にゴミ袋に突っ込み始めた。 「全部、捨てるのか?」 「置いておくものなんてある?」  逆に問われて、淳史は言葉を失った。 「業者に頼んで捨ててもらおうかと思ったんだけど、お金をかけるほどの量でもないしね」  淡々とすべてを捨てながら、文彦は呟くように話した。 「もう、これで最後か。Baby,bye-bye. So long, ……too bad you had to drift away……」  囁くように「Bye, Bye Baby」を口ずさんでいたが、最後に残った棚の一段に手を伸ばした。 「本なんか、読んだのか。もう字もよくわからなかっただろうに」  抑揚のない声で言い、立てかけてあった数冊もゴミ袋へと放り込む。奥のほうに押し込まれるようになっていた最後の一冊は、大きい正方形でカバーに入っていた。それを手にしてからタイトルを目にし、どさりと落とした。  淳史が覗き込むようにすると、文彦はつかみ上げて大きな最後の一冊をバサリとゴミ袋へ放り込んだ。 「文彦――」  無言で、文彦はゴミ袋をとじて括ろうとしている。淳史はその手を止めようとしたが、文彦は抵抗して揉み合いになった。 「卒業アルバムじゃなかったか?」  強く言った淳史に、文彦はビクッとして手を止めた。それから、淳史の手がひどく熱いものでもあるかのように、淳史からパッと手を離し、数歩よろめいて後退った。その隙に、淳史は袋を開けて、中から今でははっきりとアルバムとわかる一冊を手に取った。 「あったじゃないか、小学校の卒業アルバム」  表表紙のタイトルを指でなぞって、淳史は喜びと興味を抑えきれずに笑みを浮かべて、声を上げた。 「やっぱり、ないなんてことはなかっただろう? 見てもいいか?可愛いだろうな」  幼少時代の文彦の写真を見られる喜びに、淳史は文彦の心を読みそこなった。誰しもが、アルバムとは懐かしい、好ましい思い出と疑うことがないはずだった――淳史も、また。 「知ら――ない」 「え?」  分厚い表紙をひらくと、中はシミや何かの汚れが付着し、黄ばんでおり、とても保管状態が良かったとは思えなかった。顔が並ぶ個人写真、学級集合写真、それぞれの行事でのスナップ、そんなものが並んでいて、淳史は目を細めた。 「文彦は、どこだろう?」 「知らない」 「知らないって……」  淳史は文彦をページの中で探すことに夢中になっていた。ようやく個人写真が並ぶページで、高澤文彦の名前を見つけ、その上の顔を眺めた。そこには栗色の髪は首筋で切られて渦巻き、ちいさな白い顔は唇をギュッと引き結び、痩せた姿は瞳ばかりが大きい。それでも、それは周りの同級生たちからは離れた容貌で、美しくも陰鬱な影を映している。  どこか育ちそこねたような、ほそい容姿は大人びてはいないのに、子どもらしい表情も明るい笑顔もなくメランコリックだった。私服だった小学校で、写真の中で文彦はよれたTシャツを着ていたが、それを差し引いても小さな絵画のようだった。 「これで――この頃からもうジャズもピアノもやっていたんなら、周りは話しかけにくかったかもしれないな……文彦は、どこだ?」  クラスのきちんと整列した集合写真には、文彦の姿を見つけることができた。しかし、行事のページではなかなか文彦を見つけることはできなかった。 「……行事には、たぶん俺はいないよ」 「探せばいるかもしれない」 「だって、そもそもどれに出て、どれに居なかったかなんて、思い出せない」 「何処に文彦がいるのかくらい、教えてくれたっていいだろう?」 「知らない。こんなものを初めてみた」 「そんなわけ、ないだろう?」  文彦は何も答えなかった。 「卒業式とかで小学校でもらってきたんだろう?」  言ってしまってから、淳史は顔を上げて後悔の念にとらわれた。いつもは物憂い瞳は、暗い鬼火のように奇妙な光を浮かべていた。 「卒業式なんか、出てないよ」 「え……」 「皆が親と来る中で、どうしてアル中なんかと行けるの。何を着て出れば良かったの」 「その――すまない」 「別に、淳史のせいじゃないってば!」  文彦は苛々として、ひらかれていたアルバムを力任せにひったくった。 「俺は、こんなものがあったのも知らなかった。どうして隠していたんだ、あいつは――だから、今日は一人で来れば良かった! サッサと捨ててしまえば、何も思わない!」  アルバムを閉じてから、文彦は一度だけ体を痙攣させた。 「違う――違う。別に、淳史のせいじゃない。今日……ここに、来てくれていることも……ごめん……ちょっと廊下にいてくれないかな?一人になれば……大丈夫……ごめん……おかしいな。淳史が来てくれたこと、ありがとうって思ってるから」  どうするべきか逡巡する表情を浮かべていたが、やがて淳史は外へと出るべく部屋のドアを開けかけた。かすかな音がして、淳史は振り返った。床に座り込んだ文彦が、最初のページから力を込めて破り始めていた。 「文彦!」  淳史は慌てて駆け寄ると、腕ごとつかんだ。 「馬鹿げてる――」  文彦が抵抗するのへ、淳史は羽交い絞めて何とか止めた。しばらく揉み合っていたが、ウェイトの差もあって文彦のほうが分が悪かった。普段には見られない手荒さと、力任せの抵抗をして、文彦の顔は真っ赤に染まり、白い歯を食いしばっている。 「こんな――こんなもの!」  文彦の体中から一閃するように憤怒が湧き上がり、ほとばしって覆い尽くす。淳史は文彦から感じた、瞬間的な怒りのパワーの大きさに、一瞬息を呑んだ。 「こんなものを持ちやがって、何が言いたいんだ! それで、すべてがチャラになるのか!」  文彦はアルバムをつかみしめると、激しく投げつけた。ひらかれて床に打ちつけられたページはぐしゃりと曲がり、ざらざらとした床を滑っていく。 「文彦! やめてくれ」  淳史は急いで拾うと、それ以上は文彦が手を出せないように、服が汚れるのも構わずに両腕で胸の中に納めた。 「これは俺が欲しい。俺が、もらう」 「淳史には、関係ないだろう?」  冷たいぎらりとした眼差しは、体格を越えて狂えるような危うさに満ちている。 「関係あるよ。この中にいるのは、文彦じゃないか。俺の大事な、文彦なんだ――俺が知らなかった、小さな頃の」  文彦は息を喘がせながら、やや眼差しを淳史へ向けた。 「こんな汚らしいアルバムを、あの部屋のどこに置いておくつもり?」 「汚れは最小限にできないかやってみる。俺がまだ出会わなかった、ちいさくて可愛い文彦が、ここにいる。だからこれは――俺の宝物だ」 「そんなものが?」 「そうだ。ここには俺の知らない文彦がいる」  淳史は静かにページをひらくと、見つめた。 「永遠に見ることはできないと思っていた……良かった」  力を使い尽くしたように、文彦はよろよろと床に座り込んで両手をついた。わずかにふるえて、その表情はゆるやかな髪に隠れて見えない。 「つか、れた……」  声色は完全にいつものトーンに戻っていた。先程の狂乱は嘘のように、そのままうずくまってしまったのへ、淳史がそっと背中を撫でた。 「一人でいると、こんなんじゃないのに……淳史がいると、不安になったり怒ったり――」 「それは、もしかしたら」  文彦は答えを早く聞きたいように、潤んだ瞳を上げて、淳史を見た。それへと、淳史はふっと笑った。 「もしかしたら、俺にはそうしても大丈夫って思ってくれているのかもしれない。そうだったら……いい」 「大変だよ。淳史も、俺も」  文彦は眉を寄せて憮然とした。 「文彦が今まで怒っていなかったぶんを今、怒ったっていいと俺は――思うよ」  ごく生真面目にそう話した淳史を、文彦は初めて見るように、瞳を瞬いて見直した。  淳史は丁寧にアルバムをカバーに入れると、ゴミ袋を片手で持った。 「さあ、帰ろうか」 「淳史――」  文彦は何かを吹っ切るように、軽やかな仕草で駆け寄った。その肩に腕を回して抱きつき、頬をすりつけた。 「一緒にいて、淳史」  淳史はそれへ応えようとしたが、できなかった。文彦が素早く、その首筋をひっつかんで引き寄せると、唇を軽く触れ合わせたからだった。文彦の両手が首筋から耳朶をくすぐり、頬へとすべって囲っていく。淳史は心地よさそうにそれを受けて、微笑みを浮かべた。キスした後に、二人はしばらく額をくっつけて、無言の波に漂っていた。 「今度、二人で写真でも撮ろうか?ちゃんとカメラマンに頼んで。今の文彦も、一番綺麗な表情でずっと残しておきたい。来年も、その先も、ずっと。ナツに相談しようかな」  考え出した淳史に、文彦は笑った。 「淳史は、相変わらず可笑しい人だ」 「知らなかったのか? 文彦にはずっとクレイジーなんだ」  顔を見合わせて笑って、二人は何も残らない部屋を後にした。  窓の外を、冬の梢を鳴らして風が吹き過ぎていった。  

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