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第十章 オネスティ(music by Atsushi Hagio)3

 ぴとん、ぴとん、とくり返される水音に気付いて、文彦は起き上がった。気分はややすっきりしていて、広いベッドから降りた。ぺたりぺたりと素足で歩いて、音の源だったシンクの蛇口まで行き、そこで座り込んだ。  水音を止めるでもなく、雫が一つ一つ落ちていくのを眺めている。  昨晩は何となく淳史の部屋へと流れて、手を繋いで眠りに落ちたのをぼんやりと思い出し、ようやく蛇口を閉めた。  ふらりと防音室まで歩き、指先で置かれているものに触れていく。そこには早朝を練習に充てている淳史の痕跡が色濃く残っている。  ミスティの店休日に、今日は他にさりとてするべきこともない。淳史はすでに仕事へと出ていったが、テーブルには朝食プレートが几帳面に並べられている。 文彦はピアノの前に座ると、しばらくじっとしていた。やがて、ゆっくりと鍵盤に指をあてがうと、ごくゆっくりと音階を弾き出した。指先は時間を忘れて行き来していたが、最後に静かに止まった。 一呼吸置いてから「おいしい水」を弾き出す。軽やかさもありながら、その根底にある物憂さが同時に流れていく。  それから「ワンノートサンバ」へと移り、弾き終えてから、ふっと考えに耽り始めた。  時間は静かに流れて、文彦を一つの思いへと至らせた。  マンションを出たのは昼前だった。  コートを羽織って、ポケットに両手を突っ込み、ふらりと歩いていく。軽い仕草で昼間の街を、行き過ぎていく車を、人々を見やり、歩みの合間に眺めている。  大きな瞳はふと冬の晴れた空を映し、あまり動きのないうっすらと白い雲を映す。  やがて視線は地上へと戻ると、最寄り駅の住宅街の北側にある、深緑色に彩られた瀟洒なスーパーを捉えた。ぐるりとガラス張りの高級な店の看板には、淳史のキッチンにあった袋と同じ店名が記されている。 「ここか……」  入り口はオープンになっていて順々に高さによって管理された鉢植えが並べられ、その奥には切り花が美しく揃えられている。売り子の立っているフラワーカウンターを通り過ぎると、すぐに色とりどりの果実に出会う。  床はしっかりと磨かれ、店内は整然としていて、クラシックが流れている。  文彦は店舗カラーと同じ深緑色のカゴをぶらぶらとしながら、見るともなく歩いている。  何種類ものトマト、物珍しい野菜、地場のもの、それを過ぎれば肉のコーナーになって、ガラスケースの向こうには肉売りの店員が立っている。パックに分けられたものもずらりと並んでいて、そのまま行き過ぎれば魚売り場で、やはり魚売り場にも同じように店員が立っている。美しく誂えられた刺身、パックにされた切り身、一匹ごとは籠に盛られている。  その先には寿司、弁当、お惣菜と続き、そこでは以前に淳史が文彦のために用意していたものも見られた。 「肉……魚……」  文彦は店内をぐるぐる回って、珍しいチーズや各国の調味料のコーナーなどを通り過ぎたが、やがてスマホをタップした。 「淳史は何をどれくらい食べたっけ……」  思い返せば、こうして材料に換算すると文彦にとっては不明なこととなってしまう。 「二人分――」  しばらくスマホをタップしては、見つめている。 「だいたい何円くらいするもの?」  指先はくるりと回り、リズムを取るように動いている。やがて歩き出し、手軽くぽいぽいとカゴに放り込んでいく。やや雑にカゴに盛り上げて、途中で見つけたフランス産の赤ワインのボトルをひょいとつかみ、レジへと向かった。  陽も落ちてから、昼間に買ってきた食材を取り出してキッチンに並べ、スマホで調べたページをひらいている。淳史が丁寧に管理している調理器具を取り出すと、文彦は一人で溜め息をついた。 「何だか……ちょっと疲れるな」  まな板の上で、向いたニンニクをゆっくりと包丁で切りながら、表情はすでにげんなりとしている。  フライパンに火を点けると、文彦はその音に聞き入り始めた。油を入れてから回し、ニンニクを適当に放り込んでいく。色づいてから横に置いていた皿に取り出し、スマホの画面を横目に、フライパンに油を足して強火にする。 強めに塩胡椒をしておいた広げたステーキ肉を投入し、その弾けるような音に耳を澄まし、わずかに微笑する。調べた通りに表裏を焼いて、これも皿へと取り出す。 レタスを洗って千切り、北欧のガラスボウルの中へと盛り上げていく。しばらくしてからプチトマトも洗い、その上へと乗せた。  手を拭いてスマホと残っている食材を眺めると、どうするか迷っていたが、やがてぽつりと呟いた。 「もう、いいや。面倒」  調理器具をザブザブと洗い出してから、ハッと気付いて顔を上げた。 「お米がない」  慌ててキッチンを探すと、冷蔵庫の野菜室の中に、きちんと容器に保存されていた。 「冷たい」  米を研ぐ水の冷たさ、手を回す時の音、それらに浸っていたが、満足すると水を量って炊飯器にセットした。 「やっぱり、疲れたな……」  買い物から料理、それから片付けまでをやってみて、文彦はややぐったりとソファにひっくり返った。  テーブルには並べられた幾つかの料理皿、それから、いつも淳史がやっているように銀色のカトラリーレストにフォークやナイフを乗せて、文彦は最後にワイングラスを置いていた。  そのまましばらくうとうととしていたらしかった。  頬に触れるくすぐったさに、文彦は半覚醒の中で手で押しのけた。今度は手の甲にあたたかい感触が押し当てられる。 「文彦」  それがよく聴き慣れた声だと気付いて、文彦はぱちりと目覚めた。目の前すぐに、切れ上がったまなじりの端正な顔があって、文彦の白い手を取ると唇にあてがっている。 「おかえり」  文彦の手にキスしていた淳史は、そのまま覆いかぶさるように頬へとキスを続けていく。 「何?」  くすぐったそうに文彦が問うと、淳史が料理の並んだテーブルを指さした。 「あれは、文彦がしてくれた?」 「まあ……そう、かな」 「本当に?」  淳史は両手で栗色のゆるやかな頬を払うと、頬を優しく包んだ。 「味は不明。量も不明。初めて料理したから簡単なものだけど」  文彦は瞳をくるりと回して、淳史を見た。そこには思うよりも真剣な眼差しがあって、文彦はやや驚いた。それから、ゆっくりと淳史が文彦の額をてのひらで撫でた。 「今日が、俺の誕生日だから?」 「えっ?」  文彦は今度は本当に驚いてガバッと起き上がると、壁際にかけられていたカレンダーを見た。日にちの実感を失っていたが、今日は確かに一月二十五日だった。 「そう――だった!」 「何でもいい。ありがとう」  淳史の眼差しはやさしく、もう一度、両手で頬を囲うと、頬に額にキスを降らしていく。お互いにくすぐったそうに笑い合って、目を見交わし、ゆっくりと腕を回して抱きしめる。 「誕生日――おめでとう。淳史」 「うん。ありがとう」  淳史は、栗色の髪の中に満足そうに鼻先をうずめて、目を閉じるとくぐもった声で応えて微笑んだ。  ライスを白いお皿に盛って、冷やしていた赤ワインを開けて、グラスに注ぐ。 「ワインを開けるのが上手いな」 「まあ、酒関係だけは」  文彦は笑って、意外と器用なまでにワインボトルの底を片手でつかんでラベルを上にし、テーブルの上のワイングラスへと、ごく静かに注いだ。 「そのまま白シャツに黒いエプロンを着たらソムリエに見えそうだ。綺麗で、誰かに口説かれそうだから嫌だな」 「ん、何?」  文彦は最後のほうの淳史の独り言を聞き逃して、大きな瞳を瞬き、淳史の前の席へと着いた。 「今日は良い日だなって」 「本当に?」 「うん。ありがとう。いただきます」 「味は不明だよ」  文彦は再度言って、ドレッシングを回しかけたサラダを、フォークでつついた。淳史は綺麗にステーキを一口分だけ切り分けると、ためらいなくぱくりと口へと入れた。それからゆっくりと咀嚼しているが、じっと目の前の皿を見つめている。 「食べられる? 無理しないで」 「いや――」  淳史は飲み込んでから、呟いた。 「美味しい」 「えっ?」  文彦は驚いて、淳史の顔をまじまじと見返した。 「ステーキの焼き加減が。好きな感じだ」 「本当に? あの、ほら、淳史の料理するリズムがあるじゃない? あとフライパンからの音とか、包丁の音とか」  文彦は記憶の中を探るように、てのひらをひらひらとさせた。 「あれを思い出してた」 「俺のことを?」 「うん、そう。味のつけ方はわからないけど。やってみると、改めて淳史は色々としてくれてたんだなぁって。淳史がしてくれているばっかりだから、してみようと思ったんだけど。なかなか疲れた。食べられるなら良かった」  文彦がにこりと笑うと、淳史は眩しそうに目を細めた。 「美味しいよ。それと――嬉しい。ありがとう」  ゆっくりと言った淳史へと、文彦は笑いながら、首を傾げてグラスの中の赤ワインを飲み干した。

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