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第十章 オネスティ(music by Atsushi Hagio)4

 二人で片づけ終わったダイニングテーブルで、ノートパソコンを開き出した淳史の背を、文彦は部屋のドアの前に佇んでじっと見た。うなじからすらりと流れていく背中のライン、しっかりとした肩、ブルーのカットソーをまとった黒髪の後ろ姿は、文彦の心へと甘くあたたかなもの――愛しさを込み上げさせた。  向けられた背中へとてのひらを這わせたいような、指先でなぞりたいような、そんな衝動に駆られて、文彦は息を呑んだ。  そのまま淳史が作業する音だけが響き、部屋は、しん、としている。文彦は衝撃を受けたまま、自分の胸に込み上げ、覆い尽くした甘い疼痛に、シャツの胸元をぎゅっとつかんだ。  唇を舌先で湿し、わずかに顔を上げた。 「あの――今日、する?」  発した声はかすれていて、淳史に届いたかも不明なちいささだった。何の応えもないのに、文彦は改めて言い直した。 「今日なら、できそうな気がする。その――セックス……」  その声は淳史に届いたのか、届かなかったのか、淳史は振り返らない。沈黙だけが長く続き、文彦は無性に気まずさに心覆われ、言葉を継いだ。 「あの……またヘンなことを言った? ああ……俺とはその、したくないかもしれないな。色々あったし――ごめん、忘れて」  何も言わなかった淳史が急に振り向き、急に大股に近寄ってきて、文彦はビクッと身をすくませた。淳史の眼差しは鋭く、文彦を真正面から見据えていたからだ。 しかし、次の瞬間にやわらかく抱きしめられ、文彦はふわりと淳史の腕の中へと囲われた。淳史の横顔は文彦の肩へと伏せられ、そのまましばらく動かない。文彦はやや戸惑いの中で、そっと淳史の背をやさしく撫でた。 やがて、文彦の肩から上げられた淳史の顔を見上げると、頬に白い涙がゆっくりと一筋伝って落ちていった。文彦は驚いて瞳を見ひらき、淳史の肩を思わずつかんだ。 「俺は――何か、言った?」 「文彦――」 「ごめん」  うつむいていた淳史は静かに首を横に振り、かすかにふるえた唇で微笑んで言葉を告げた。 「ありがとう」  文彦は心底驚いて、瞳を見ひらいたまま、淳史の肩をさらに強くつかんだ。 「ありがとう――文彦」  くり返された言葉は、二人の間にゆっくりと落ちて沁みわたっていく。 「どう、して」 「俺に、心も体もひらこうと思ってくれて」 「そんな……こと」 「嬉しい」 「本当に?」 「うん。すごく文彦と、したい」  真正面から向き合ったまま、甘く視線が絡まり合って、微熱が体も部屋をも満たしていく。  文彦は淳史の肩に手をかけて爪先立ちすると、そっとその頬から額へと口寄せて、キスをした。そうすると、心の中にあたたかな満たされた想いが湧き上がって、そのことに文彦自身が少し驚いた。 「淳史に……触りたい」  独り言のように呟いて、軽く手を上げる。その先には、文彦がいとしいと想う体と魂があって、何処にも行かずに目の前で佇んでいる。安心感と恋慕のないまぜになる中で、文彦は指先で高い鼻梁をなぞり、頬を撫でて、首筋へとたどっていく。無心な瞳はただ淳史一人へと向かっている。 世界にはただ二人きり、そんな夜が落ちている。 「もしも、文彦ができたらでいい――俺のことを全部受け入れて欲しい」  ややためらった表情で、淳史は低くちいさな声で囁いた。  文彦は澄んだ眼差しで、ただ一度だけ静かに頷いた。  淳史はやや見返してから、両手で白い頬をつつむと、手放したくないように強くくちづけた。  

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