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第十章 オネスティ(music by Atsushi Hagio)9
帰路は淳史の白い車に乗って、夜の中に灯り渦巻く景色を走り過ぎていく。淳史のマンションへと行こうとしたが、文彦は迷った後に首を横に振った。
「何か――浮かびそう。曲? 考え? 手ごたえ――何、だろう。ちょっと今はわからない」
「文彦、一緒に住まないか?」
「住む――って……」
ハンドルを握って前を向いた淳史の横顔は、引き締まっていて内面は推し量れない。文彦は瞬時に意味を量りかねて、首を少し傾げた。
「何か迷っているなら、支えたい。一緒に暮らしたら、色々なことをしてあげられると思う。今よりもっと、そばにいて」
「淳史――でも、何処に?」
文彦は軽い衝撃を受けながら、浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「俺は練習に防音室がいるから、俺のマンションかな。新しく何処か二人で選び直しても良い」
文彦はすぐには答えられず、押し黙った。助手席のフルバケットシートに深く沈み、流れていく夜景をしばらく見つめた。
「怖い」
「え?」
今度は淳史のほうが衝撃を受けて、聞き直した。
「一緒に暮らすのは、怖い。もう後戻りができない気がして。必ず自分が一人で居る、戻れる場所を失くしてしまうみたいで――怖い」
「……文彦」
「一緒に暮らせば、いつか変わってしまうんじゃないか。それとも、淳史がそこから居なくなったら。俺は、どうしたらいいんだろう」
呟いた声はちいさく、視線は助手席の窓から遠くを見ている。
淳史は何かを答えようとしたが、その時にはすでに文彦の白いアパートの前に到着していた。文彦は降車する前に、淳史へとゆっくりとキスをした。
「淳史が好きだよ、本当に。だから、色々と考えたい。自分が変わっていくことに、たぶんついていってない――今は」
「だから、そばにいたいんだ」
淳史は文彦の手を強くつかんだ。
「うん。わかってる。だから、今はこうしてそばにいて」
淳史に抱きつき、その首をかき抱く。
「それだけでも幸せで、奇跡なんだよ、淳史」
「俺は、いつでもここにいるから――俺のほうが奇跡だ。文彦が、こうして手を伸ばせばキスできることも」
淳史は唇をひらくと、文彦の唇を食べるようにしてキスし、舌を割り込ませて吸い上げていく。さようならと、おやすみと、その深きキスを何度もくり返し、過ぎていく時間も感じないままに、二つの影は夜のしじまの中で、しばらく抱きしめ合っていた。
その夜は、文彦は一人の部屋の壁際にもたれ、手脚を投げ出したままに、しばらく考えに耽っていた。
「俺は、どうなりたいんだろう……」
先々のこと、将来のことなど、考えたことなどなかったと、文彦は思う。
ずっとその日を生きていくのに精いっぱいで、淳史が与えてくれたのは今日を未来を考える安心感と希望なのだ――と気付く。
「何かをしてもらう――それで良いんだろうか……俺には何ができるんだろうか……世界を回りたいなら何から始めれば良いんだろう……」
あの青春の終わりに感じた、一つの想いは今も変わらないのだと、文彦は知った。
(対等でありたい。ただ一人の男として――愛するひとを守れる男でありたい)
淳史と生きていくということは、公彦と生きていくということとも、また違う。
そうなるために、どうするべきなのか、文彦は少し考えていた。
「自分で、ちゃんと一人で立てないと――色んなことを……生活、身の回りのことも。英語もちゃんと勉強しに行こうかな――どの場所にどんな音楽があるのか調べて」
その考えは、文彦の中に、すとんと落ちた。文彦は一度頷くと、膝を抱えて、その中へと鼻先をうずめた。それから、可笑しそうにふっと笑った。
「俺が、生活だって。可笑しい。変わったんだな――クレイジーだ」
文彦の耳へと、すぐ隣にはいないはずの淳史の声が聴こえた気がした。
(そう――ずっとクレイジーなんだ。知らなかったのか?)
ふふ、と文彦は笑って、胸のつかえがおりた様子で、頭を振る。栗色のゆるやかな髪が揺れ、そのまま猫のようにしなやかに伸びをした。
軽い仕草で立ち上がって、部屋の照明を消してしまうと、その日はぐっすりと眠った。
そうして文彦はまず、生活することから始めた。
無頓着であった自分へ、成育時には与えられなかった生活へ。
自分のために身の回りを心地よくすること、食べるために料理すること、その中でやりたいことと、やりたくないことを発見し、そして自分を発見していく。行ってみたい土地、聞いてみたい音楽を選り分け、その中でも強く惹かれるものと、そう惹かれないものがあることに、文彦は自分で驚いた。
己のかたちとは何なのか――その輪郭を追って、自分と向き合うこと。一つ一つを拾って、自分の感覚に問いかける。好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、苦手なこと。
手を伸ばせば届くところに淳史はいて、心を支えてくれている。
文彦の感じたことに耳を傾け、一喜一憂してくれる。
その日々の中で、文彦は確かに一歩ずつを進んでいった。それは恐らく、そのまだ見ぬ先へと扉をひらくための、小休止だったのだ。
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