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第十章 オネスティ(music by Atsushi Hagio)8

 幾つかの日にちは過ぎ、季節は安穏に日常を取り戻していく。  手を伸ばせばそこにあるのは、移り変わっていく身近な時間と、今までにはなかった、振り返れば必ず人影のある生活。  ミスティの閉店後にカウンターの端に座って、文彦は気怠く頬付けをついたまま、ぼんやりとしている。  自分の中の何かは移ろい変わっていっている。そう感じていることが、心にどこか輪郭のない水溜まりのように躊躇を落としていて、文彦の意識は遠く陽炎になる。  ゆらりゆらりと心は宙に吊るされたまま、あてどもない。 「いつも通り」 「え?」  店内を回っていた竜野が、文彦の背後から声をかけ、そのまま歩いていく。文彦は振り返って、唇をうすくひらいた。 「いつも通りの演奏、にしてるやろ?そう出来るんが、文彦の腕やろうけどなぁ」 「……」 「何も食べんと、立て続けに酒は体に悪いんちゃう?文彦に言うてもあれやろうけど――何か食べていき」  竜野はカウンターに入ると、顔を下げたままで皿を取り出し始めた。それを眺めながら、文彦は両手で頬杖をついた。独り言のように呟く。 「俺の、音楽とは、何だろう」 「まさか、高澤文彦が、そんなことを問う日が来ようとは、やで。晴天の霹靂っちゅうやつ」  面長な顔にとぼけた表情を乗せて、竜野は返事をした。文彦は夢想の眼差しのままに、行く先ない言葉を重ねていく。 「今まで、それがないと死にそうだった。音楽――ピアノ。それがないと生きていけない。でも今、他のことが心を占めていて、浸食していて、どうしたらいいかわからない。パッショネイト、情動、突き上げるもの、魂の向こう側、それが――あやふやになって。俺は、どうしたら良いんだろう?」 「まぁ、結構皆、もっと早いうちにそんなぶつかりに遭ったんとちゃう? 文彦は、ここまで迷いなくストレートに来過ぎたんかもしらん。それは環境的に幸せやったかどうかは知らんけど」  竜野はのんびりと話した。 「誰かが言うてたやん。才能ではない、苦難の環境が芸術を作ったのだ――なんかあれやで、それがスランプいうやつちゃう」 「スランプ……」  文彦は絶句して、竜野を見た。竜野はカウンターに一皿を出して、間延びした声で話し続ける。 「俺にもあったし。それで止めていく人間もおるやん。最近、萩尾淳史と会ってるんやろ? あのお人にも、そういうのはあったんとちゃう」 「……」  淳史が初めて文彦を見た青年の日に音楽に迷っていたと、話していたのを文彦は思い出した。今井ミチルのことで悩んでいた間、そしてマンハッタンでライブに出る前の逡巡――淳史の色々な様相が浮かんでは消えていく。 「そう……か……」 「プレイがきつかったら、ここはええで」 「え?」 「他の仕事は、しゃあないやろうけど。文彦が生きてきて、このミスティに来るまでのことは知らんけど。それまで、ずっとずっと走って、駆け抜けて、飛び続けて来たんやろうと思うで、文彦は。極限状態の時もあったんちゃう? 初めて立ち止まって、振り返って、休んだってええんちゃうん」 「休むって……何――」  文彦は言葉を失くした。幼少のみぎりから、気が付けば音楽は共に生きるものであり、休むなどという概念もなく、何を答えるべきなのかわからなかった。  竜野は頭を指さして、文彦を見た。 「人間、インプットせなアウトプットできひんやん。少なくとも、俺は、やけど。文彦は環境的に、今まで激動におったんちゃうんかなと思うけど。ずっと心が揺れて、ずっと刺激される何か。だから弾き続けな死にそうやったんちゃう? ずっとハイパー。サバイバル。違ってたら、ごめんやで」 「……」 「今ちょっと落ち着いたんちゃう。大人になって。文彦は、あんまり自分自身は大事にせえへんやん。体も心も。大事にしてきたんは、自分の音楽だけやろう?」 「……」 「そういうところでやるのも、終わり――文彦自身の、何か次のステージに入ってる気もするけどなぁ。文彦自身はガラッと持ってる感じが変わったで」 「そう――なのかな……」 「そうやで。次のステージへと行くための幕間。ずっと絶間なく駆け続けられる人間なんて、おるんやろうか。今の文彦は、人間らしい。前の文彦も好きやで――純粋で、何か届けへん人間やな、思てた。今は身近に感じて、それでいて芸術家、やな」  文彦はほそい指先で唇を引っぱり、何を見つめているのか、じっと大きな瞳を動かさない。 「幕間の間奏曲は、何にする? そしてそれは、弾かんでもええんやで。観客は待たせても、思い思いの時間になる。離れない人間は、離れない。離れていく人間は、いずれにせよ離れていく。たまたま触れ合って、何か交差して、そして過ぎ去っていく。文彦は、自分に手をかけても、ええんちゃう? そんな休息があってもええんちゃう」 「休、息……」 「まだ、文彦の人生は続いていく。音楽は続いていく。誰も責任は持たへんよ。誰も替わってもくれへんやん。だから、自分で決めてええよ。今、感動したいこと、味わいたいことをやってきて、それでまた還元できるで。文彦なら。そう思わへん?」 「竜野さん……」 「いつにするかも、文彦が決めたらええんやで」 「俺、は――」  ニューヨークで感じたことを思い出した。 (そう、色んな場所で、色んな音楽を感じてみたい)  そんな沸き上がった希望に、どうするべきかも考えてみたことはなかった。その日を暮らし、その日を過ぎて、たわむれのように過ぎていく時間をやり過ごすのは文彦の根深い癖のようなものだった。 「この先を、考える……」 「あ、ええこと言うやん。ねえ?」  竜野が笑いながら顔を上げ、問いかけた先は文彦ではなかった。文彦がパッと振り返ると、閉店の照明のやや落とされた店内で、カウンターのすぐそばに長身の人影が立っていた。 「淳史、いつ来てたの?」  文彦は驚いて、目を見ひらき、唇をひらいたまま見上げる。 「さっき。メッセージを入れただろう? 今夜は迎えに行くって」 「ごめん――見てなかった」  そう言った文彦の隣へ、紺色のコートのまま、するりとスツールに腰かける。額へとはらりと幾筋が落ちた前髪の下、切れ上がったまなじりで、文彦の顔を覗き込む。 「食べたら、帰ろうか?」 「あ……うん」  まだ物思いから覚めない表情で、文彦はゆっくりと頷いた。何かまとまりかけた思考が、また霧散していくような、つかみ切れない想いに文彦は揺らいでいる。  文彦は出された料理を、フォークでプスリと刺した。海老とブロッコリーときのこのアヒージョから、緑色のブロッコリーをかじる。 「うーん……?」  噛みながら曖昧な声を出して、眉を寄せて適当なところで飲み込んでしまう。 「何かなぁ」  少し下がっていた竜野だったが、その文彦の表情を見て、思わず声を出した。 「最近はっきり不味そうな顔すんなぁ。いや美味しそうな顔するようにもなったけど」 「こっちは美味しいよ」  海老を指さし、文彦は言う。 「どの味が嫌だった?」  横合いから淳史が体を乗り出す。 「これ」  文彦がブロッコリーをフォークでつつくと、淳史はその手の上から手を重ねてフォークで刺し、ブロッコリーをぱくりと口へ入れた。 「この味が苦手?」 「うーん、味じゃないよ。だって他のは美味しいから。感触かな」 「ふうん。覚えておく。嫌なら俺が食べておこうか?」  笑ってそう言う淳史へ、竜野が口を挟んだ。 「あのねえ、何かなぁ。甘やかしすぎちゃいます?」  うろんそうに言う竜野へ、淳史は端正な顔を生真面目にして答えた。 「こうやって食べられるようになったんだから、今を大切にしないと」 「いやいや、むしろ好き嫌いないようにせんと」 「好き嫌いを言えるほうが良いし、言ってくれるほうが良い」 「それは文彦のためになりませんやん。甘やかしです」 「そんなことはない。甘えてくれてるんだ」  やや、むっとして黙り合う二人の間で、文彦は心ここにあらずで頬杖をついてぼんやりしながら、口にした海老を噛んでいる。 「俺はさ、今、海のどのあたりを航海しているんだろう――」  遠くへと夢想した胸には、かすかな旋律が兆し、指先はカウンターの上で動いて見えない楽譜を追っている。文彦の脳内を流れていく音楽を邪魔しないように、淳史と竜野はしばらく静けさを保って、その姿を見守った。

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