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第十章 オネスティ(music by Atsushi Hagio)7

 心地よい香りが鼻先をかすめていって、文彦の意識はふわりと浮上した。  それはウッディな香気と、美味しそうな匂いが入りまじっていて、ひとつの人影へとたどり着く。  文彦のまぶたがひらく前に、やわらかな感触がまぶたに押し当てられて、そのくすぐったさに身じろぐ。キスは頬に額にへと移っていって、文彦はようやく瞳を開けることができた。 「おはよう」  そう言った淳史の、朝日をうけて微笑む端正な眼差し。 「おはよう」  しばらくしてから文彦は返して、両腕を上げて、すぐ上にある淳史の首筋をかき抱いた。腕はいつもよりやや重く、体は気怠さに包まれていたが、文彦にとってそれは決して不快なものではなかった。  甘やかな物憂さに満ちて、服ごしに触れ合うぬくもり。それは昨日よりもさらにやさしく、切望するほどにいとしい記憶の重ねられた感触。 「体は、どうだ?」  心配気な囁きは密やかで、二人だけの秘密を含んでいる。 「ん? んー……大丈夫……」  やや間があってから、ちいさくそう言った文彦を見つめて、淳史はその栗色の髪を撫でた。 「少し、待ってろ」  返事を待たずに立ち上がり、くるりと踵を返すとベッドルームから出て行く。  文彦は広いベッドで一人座っていたが、窓から射す朝日に向かっててのひらをかざし、その白い光を浴びて指先で遊んでいる。鼻歌で「ワン・ノート・サンバ」のリズムを取って、それは指先にまで満ちていく。  やがて淳史はトレーを持って戻って来て、ベッドの上へと滑らすように置いた。  その上からは、起き抜けに文彦が嗅いだ匂いが漂っていて、深くきらめくコーヒーが二つと、白いプレートが乗っていた。大き目のプレートには二人分のトーストサンドが交互に並べられて、挟まれたレタスの緑、卵の黄、ベーコンの赤味が鮮やかだった。 「作ってくれてたの?」 「ああ。一緒に食べようと思って」 「――ありがとう」  文彦はすぐそばに来た淳史の首筋を引き寄せると、ゆっくりと丁寧なキスをした。 「テーブルまで行ったのに」 「せっかく夜を過ごして朝までこうしていたのに――この雰囲気のままでいたい」  淳史はそう言いながら、キスを軽いくり返し、指で文彦の手を弄ぶ。 「食べられないよ」 「ん?」  淳史は文彦の抗議を聞いて、キスの代わりにトーストサンドを指でつまんで淡紅色の唇へと差し出した。 「はい」 文彦は笑って、淳史の手の上に手を重ねると、そのまま白い歯でトーストサンドをかぷりとかじり、それからくるりと回して淳史にも食べさせた。ふふ、と笑い合って、同時に噛んでいく。  ふいに、文彦の動きがぴたり、と止まった。  急に眉はひそめられ、顔色は変わり、唇を引き結ぶ。  気難しい表情をして、視線を遠くに投げた。 「文彦?」  淳史は怪訝そうに心配そうに、急変した文彦を見返した。文彦は氷の彫像のように微動だにせず、硬直している。 「どうした――」  そう淳史が手を伸ばした時だった。 「これ――きらい」  文彦は口の中から、軽くかじられたピクルスをてのひらに吐き出した。 「……酸っぱい――嫌い」  顔をしかめ、心の底から嫌そうに呟く。 「文、彦」  淳史は雷に打たれたような衝撃の中で、息を呑んだ。 「これ――これは?」  手早く新しいサンドイッチの一切れを取ると、中からピクルスだけを器用に取り出す。それを口元へと差し出すと、文彦は両手で受け取って、ゆっくりとかじった。  ちいさな一口を、文彦はいつまでも噛んでいる。  淳史は息を詰めて見守り、固唾をのんだ。  やがて、その一言は文彦の唇から純白の真珠のように転がり落ちた。 「美味しい……」 「文彦!」 「淳史のサンドイッチが――美味しい……」  心のこもった文彦からの初めての賛美を、淳史は驚きながらも、確かに受け取った。 「文彦、味が――」 「淳史は、本当に、料理が上手だったんだね……」  血の色は頬にのぼり、唇はふるえて、さらに次のちいさな一口をかじる。それは稚な子が人生の最初の一口を口に含むように、慣れぬものへのおののきと、好奇心とをひそめている。 「やさしい、味がする――淳史の……味」  うつむいて、栗色の髪がかかった顔からは表情は見えなかったが、囁きと指先はふるえている。 「何か――そうだ、何か食べたいものはないか? 何でも――何でも作るから」  淳史は勢い込んで言い、文彦の顔を覗き込む。 「淳史の――スープは、どんな味だったの……」  かすれた声に、淳史はすぐ反応した。 「すぐ――すぐ戻って来るから。ちょっと待ってろ」  文彦は黙ってゆっくりと頷いた。  それさえ見ずに、淳史はキッチンへと急ぐと、調理器具やまな板、食材を急いで並べて、冷蔵庫の中身を手早く確認していく。すぐにメニューを決めると、バタンバタンと忙しく作業に没頭していく。  ややあってから、淳史は白いスープ皿に金色のスプーンをつけて戻ってきた。 「文彦、この味は?」  受け取ったスープ皿には、オレンジ色の人参や半透明の玉ねぎ、細かなほうれん草と刻んだベーコンの入った、乳白色のとろりとしたクリームスープが静かに揺らいでいる。  金色の一匙を、文彦はそっとゆっくり口元へと運んだ。  唇はわずかにひらかれて、そっとすくった少量を流し込んでいく。それは長い時間のように思えたが、実際には数瞬のことだった。  閉じられた唇はしばらく動かなかったが、やがてちいさく咽喉が動いて飲み込んだ。  深い縹いろの瞳は動かず、ただじっと金色のスプーンのきらめきを見つめている。 「美味しい」  淳史は跳ねるように視線を上げて、さらに文彦の顔を覗き込んだ。 「本当に?」  文彦は一度頷いて、それ以上は言葉を詰まらせた。  それから、大きな瞳には涙が浮かびあがり、みるみる盛り上がった。 「文彦」  淳史は驚いて、慌ててうすい肩を引き寄せて、やさしさのすべてを込めて抱き寄せた。文彦は抗わずに、その腕の中へと崩れて、顔を伏せた。  その肩はふるえ、あふれた涙は淳史のブルーのシャツを濡らしていく。  堪えられずに嗚咽しながら、文彦は言った。 「淳史の料理が……美味しい」 「そう――そうか、良かった」  強く肩を抱きしめながら、淳史は文彦の栗色の髪の中へと唇をうずめる。じっと胸へと込み上げる想いに耐えるように、両眼を閉じた。 「淳史の味が――好きだよ」 「うん。ありがとう」  淳史の閉じられた目からも涙が流れ落ちていって、二人とも寄り添い合ったまま、無言の波間に漂っていく。二人の頬に、涙は後から後からあふれて、いつ止むともなく、それは静かで清らかな流れとなって、いくつもの時間を押し流し、新たな瞬間を紡いでいった。

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