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第1話
あの日から一週間が過ぎようとしている。
ロンドン警視庁、通称METのAACU(Art and Antiques Crime Unit/美術&アンティーク犯罪捜査課)所属の警部補リチャード・ジョーンズは、パソコンの画面をぼんやりと見つめながら、一ヶ月半前に付き合いだしたばかりの恋人レイモンド・ハーグリーブスとのやり取りを思い出していた。
あの晩、リチャードはレイに誘われて、メイフェアに出来た新しいフレンチレストランに食事に行った。その前の日に映画を観に行った際にレイから「リチャードのフラット行ってもいい?」と言われ返答に戸惑っていたら、冗談めかした対応で誤魔化され、結局彼の真意を掴むことは出来なかった。
リチャードは自分の気持ちを固めたつもりでいたものの、未だどこか優柔不断な部分があるのも否めなかった。きっとレイにはとっくに見透かされていたのだろう。
だから、翌日レストランに食事に行った時には、きちんとレイの気持ちに答えてあげよう、と決めていた。
なのに。
食事を終え、店を出たところでリチャードはレイに問いかけた。
「これから俺のフラットに来る?」
店の外は薄暗く、レイの表情は陰になっていてはっきりとは見えなかった。少し微笑んだようにも見える。だがリチャードにはよく分からなかった。
数秒の沈黙の後、彼は「今日は止めておく。大人しく家に帰るよ」と言った。
「レイ……?」
レイは突然、リチャードのジャケットの襟を掴んで強引に自分に引き寄せると、顔を近づけて小声でこう言った。
「僕、嫌がる人をベッドに連れ込むような趣味ないから」
呆然と立ちすくむリチャードを尻目に、レイは「タクシー!」と通りかかったブラックキャブを呼び止めると「おやすみ、リチャード」と言って帰ってしまった。
「……な、何なんだよ」
必死の覚悟で誘ったのに呆気なく断られて、リチャードは自分の気持ちの持って行き場をどうしたらいいのか分からなくなる。
その晩は断られた事がショックだったせいか、リチャードはよく眠れなかった。
翌日は約束していた通り、リチャードは朝ギャラリーにレイを迎えに行き、何事もなかったかのようにテイトモダンで現代アートの展覧会を見た。レイは前夜の様子など微塵も感じさせず、絶えず上機嫌でリチャードにアートのレクチャーをしてくれた。こういう時のレイはいつものような皮肉屋の面は形を潜め、やり手のアートディーラーの顔になる。リチャードはそんなプロフェッショナルな態度のレイを見るのが好きだった。
「レイは本当にアートが好きなんだな」
リチャードがそうレイに言うと、彼は当たり前だろ、という表情を作った後、少し考えてからこう返答した。
「リチャードの次ぐらいには好きかな」
どうしてそんな事を臆面もなく言えるんだ、とリチャードは思わず視線を逸らしてしまう。
多分こういう態度がいけないのだろう、とリチャードは自分でもよく分かっていた。だが恥ずかしくなってしまう気持ちをどうにも抑えられない。レイの事は好きだ。だが、自分の好きが彼の好きと同等なのか、と問われるとYesと答えられる自信がなかった。
結局その日もはっきりとした答えを自分自身の中で出せずに、リチャードは夕方レイをギャラリーに送って行く。
レイが「ローリーに会ってけば?」と誘ってくれたので、ギャラリーの中に入った。なんとなくリチャードはレイと別れがたい気持ちになっていた。もう少しだけ一緒の時間を過ごしたかった。
ギャラリーの奥のデスクにレイの6歳年上の従兄弟、ローリー・メイヤーが座っていた。ブルネットの少し長めの髪とブラウンの瞳、黒縁の眼鏡を掛けて、黒いTシャツの上にはモスグリーンのツイードジャケットを羽織っている。彼はどこか雰囲気がレイに似ている。血が繋がっているのだから当然か、といつもリチャードは思う。
「こんにちは、ジョーンズ警部補」
ローリーがリチャードの姿を認めると立ち上がって手を差し出す。リチャードは「どうも、お久しぶりです」と手を握り返した。
ローリーはいつもとても礼儀正しく、物腰がとても穏やかだ。
「今日はお疲れ様でした。どうでした? テイトモダン。あのエキシビション、なかなかいいですよね? 何かお仕事の参考になりましたか?」
そうなのだ。周囲の人間には二人が付き合っているとバレたらまずいので、この日はデートではなく、リチャードは仕事でアートエキシビションへ、コンサルタントであるレイを伴って視察に行った事になっていた。
「はい。レイのお陰で現代アートのなんたるかが、少しは理解出来た気がします。先日こちらに伺った時に見た椅子……」
と、リチャードは言って周囲を見回す。
「ああ、あの作品だったら昨日売れたよ」
レイがリチャードの様子を見て察したらしく口を挟む。
「え? あのIKEAの椅子売れたの?」
「リチャード、本当に失礼だな。あの椅子はれっきとしたアート作品だ、って言ったじゃないか」
「いや、まさか売れるなんて思ってなかったら驚いちゃって」
「もしかして白いプラスティック製の椅子のオブジェの事ですか?」
ローリーがすぐに分かったらしく、苦笑して言う。
「はい、あの椅子が2500ポンドだなんて、今だに信じられないですよ」
「はは、確かに普通の方が見ればIKEAの椅子ですね。ジョーンズ警部補は正直な方だ」
「正直なんじゃなくて、彼はアートが分からないんだよ」
「レイ、ジョーンズ警部補はオフの日も時間を割いてアートの勉強をされてるんだから、そんな言い方をしたらいけないよ」
さすが年嵩の従兄弟である。落ち着き払った態度でそうレイを窘めるローリーを、頼もしくリチャードは見つめる。そんな様子をレイは面白くなさそうに見ていた。
「リチャード、コーヒーか紅茶飲む?」
レイは少しふて腐れた調子でそう言う。
「いや、明日のシフト早番だから、そろそろ帰るよ」
リチャードはむくれたレイの顔を見て立ち上がる。このままここにいたら余計に彼の機嫌を損ねそうだった。
「ジョーンズ警部補、お気を付けて」
ローリーが柔和な笑顔でリチャードに挨拶する。ローリーとレイは雰囲気がそっくりなのに、性格と態度は正反対だな、とリチャードは内心苦笑する。
「どうも、また近々寄らせてもらいます」
そう挨拶したリチャードに、レイは椅子に座ったままで「またね」と素っ気なく言った。そんなレイに笑顔を向けるとリチャードはギャラリーを後にした。
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