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第2話
そしてその日から1週間が過ぎた。
この1週間レイからは何の音沙汰もない。
今まで毎日のように何かしら携帯にメッセージが入っていたり、電話が掛かってきたりしていたのに、それが一つもない。
リチャード自身仕事を幾つも抱えていて、この一週間、飛び回っていたので、いつものようにレイのギャラリーを定期連絡で訪れることも出来なかった。くたくたになってフラットに帰るとテイクアウェイを掻き込んでベッドに直行、朝が来て目が覚めるとシャワーを浴びて出勤、という毎日を過ごしていた。
――俺、何かレイを怒らせるような事したかな……
リチャードはこの一週間、何度も同じ事を考えては携帯に手を伸ばし……そしてとどまった。もしもレイを怒らせてしまったのだとしたら、自分から連絡をするのは逆効果ではないか、と思ったのだ。
「リチャード、どうしたの? お疲れみたいだけど、大丈夫?」
リチャードが視線を上げるとセーラ・ホプキンス巡査部長が心配そうな顔で見ていた。小柄でブルネットの髪をボブにして、黒目がちな瞳が魅力的な彼女は、リチャードのヘンドン(METの警察学校の通称名)時代からの親友で、現在では直属の部下だった。
「ああ、もう仕事は一段落したから大丈夫」
「何だか思い悩んでる様子だけど……レイくんと何かあった?」
セーラは唯一リチャードとレイモンドの仲を知っている人間だった。彼女はそういうところは口が固いので、リチャードも彼女を信頼して以前からよく恋愛相談をしていた。リチャードが社会人になってから歴代付き合ってきた女性達は、すべて彼女の紹介によるものだ。それだけに、セーラはリチャードという人間をよく理解していた。リチャードもそんな彼女を頼りにして、レイとのことも最初からセーラに相談し続けていた。
「この一週間、何の連絡もないんだ……」
リチャードの言葉にセーラはぷっ、と吹き出す。
「何? その思い悩んだティーンエイジャーみたいな表情。連絡ないんだったら、自分からすればいいじゃないの。いい年こいた男が何でそんな事で悩んでるの?」
「そんな簡単な訳にはいかないんだよ」
そしてリチャードはセーラに、映画館とフレンチレストランでの出来事を話して聞かせる。
「ふうん、そんな進展具合になってたんだ、お二人さんてば」
セーラはにやにやとして言う。リチャードは苦々しげな顔でそんなセーラを見ると「笑い事じゃないんだけど」と精一杯の反抗を試みる。
「これは、あれね。レイくんとしては早く次の段階まで進みたいけど、リチャードの意思はちゃんと尊重してくれてる、って事だと思うけど?」
「え? そうなの?」
「そうでしょう? 何よ、リチャードってば。フレンチ食べに行った夜に言われた言葉、ちゃんと聞いてなかったの?」
「嫌がる人をベッドに連れ込む趣味はない、ってやつ?」
「そうよ。レイくんって本当にいい子ね。リチャード大事にしなきゃダメよ」
セーラがそう言うのと同時に、AACUのチーフであるアンディ・スペンサー警部が入室して来る。
「悪いがちょっと手を止めて、こちらに集まってくれないか? 今日から一週間、マンチェスター警察から研修で配属されたサスキア・ブルック巡査の紹介をする」
スペンサー警部は中背で痩身、白髪交じりの黒髪を丁寧に撫で付け、鋭い目付きがどこか鷲を思わせる人物だった。
その隣に年の頃は20代前半、長いブラウンの髪を一つに束ね、鳶色のくるくるとよく動く瞳が愛らしい印象を与えるユニフォーム姿の女性が立っていた。第一印象で可愛い、と周囲に思わせるのが得意なタイプの女性だな、とリチャードは彼女を見て思う。レイには色々言われるが、一応リチャードは人を見る目はあるのだ。
「マンチェスター警察から研修生として1週間こちらに配属されましたサスキア・ブルック巡査です。よろしく」
はきはきとした物言いが好印象を与える。彼女は挨拶を終えると、部屋の中をぐるり、と見回して、ハッとした顔をした。その視線の先にはリチャードがいた。リチャードは視線を感じて思わず顔を逸らす。
――この展開、何だかあまりいい予感がしないんだけど……
リチャードは、妙にそわそわと落ち着かない気分になる。
「スペンサー警部、チームの紹介をして頂けますか?」
サスキアはスペンサーの方を向くと、にっこりと笑みを浮かべてそう言う。スペンサーは「ああ、そうだな」と同意して、4人しかいないAACUのメンバーを一人ずつ紹介していく。
「彼はパトリック・ブラウン、こちらはクライブ・ジョンソン巡査、そしてセーラ・ホプキンス巡査部長とリチャード・ジョーンズ警部補だ」
サスキアはリチャードの名前を聞くと、他のスタッフは無視して彼に向かってさっと手を出し「サーシャって呼んで下さい」と言った。一瞬周囲が静まりかえる。
リチャードは強ばった笑顔を浮かべながら「いや……流石に愛称で呼ぶのはちょっと馴れ馴れしいから、ブルック巡査って呼ばせて貰うよ」と言って彼女の手を軽く握り返した。
「そうですか? じゃあ私がリチャードって呼ぶのもいけません?」
「へ?」
驚くリチャードを尻目に冷静にセーラが返答する。
「ブルック巡査、ジョーンズ警部補はあなたよりも階級が上なんですから、呼び方はよく考えるように」
「はぁい」
サスキア……サーシャはセーラに面白くなさそうな一瞥をくれると、そう返答する。リチャードがこっそりセーラの顔を盗み見ると、彼女は苦虫を噛みつぶしたような表情をしていた。
――これは長い1週間になりそうだな……
リチャードは心中で溜息をつく。
スペンサー警部が腕時計を見ながら「もうあと5分で終業時間だし、急ぎで取り扱わないといけない事件は何もないから、ブルック巡査の歓迎会でこれから皆でパブに行くか」と提案する。
「いいですね、チームみんなで行くの久しぶりじゃないですか?」
一番年が若いパトリックがはしゃいで言う。赤毛でそばかすが目立つ彼は、いつも陽気でチームのムードメイカーだった。
その時、リチャードのスラックスのポケットに入れていた携帯電話が振動した。取り出して見ると、メッセージが一件着信している。相手は……レイだった。急いでメッセージを開いて中身を確認する。
――仕事終わったらいつものパブで。5時過ぎには行けると思う。
相変わらずの素っ気ない文面。彼はいつも用件のみだ。余計な感情は一切挟まない簡略な文章で、その分誰に見られたとしても何の問題もないので、あえてそうしているのかもしれない。
「あ、あのスペンサー警部、すみません。ちょっと用事があるので、申し訳ないんですが今日はパスします」
慌ててそう言うリチャードに、スペンサー警部はちょっと残念そうな顔をしたが、すぐに「そうか、それなら仕方がないな」と了承の返事をする。
だが一人だけ猛反発する人物がいた。
「え~! ジョーンズ警部補いらっしゃらないんですか? そんなあ、用事なんとかなりません? せっかくなのにぃ」
「ブルック巡査、私達だけでは不満そうだけど、何か文句があるのかしら?」
リチャードの動きを見ていた勘の良いセーラが全てを察したらしく、両腕を組んで怖い顔をしながらサーシャにそう言う。サーシャは一瞬黙った後、不満そうな顔を隠しもせずに「いえ、そんな事ありません……」と答えた。
セーラはリチャードにだけ分かるように目配せして、ほら早く行った行った、と合図する。リチャードはその視線を捉えて、感謝の表情で答えると「それじゃ悪いけど、お先に。お疲れ様」と声を掛けてオフィスを出た。
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