リチャードは庁舎ビルを出ると急ぎ足でバス停へ向かう。これからは帰宅ラッシュの時間にあたるので、ロンドン市内も交通渋滞が日中以上に激しくなる。なるべくそうなる前に、出来るだけ待ち合わせのパブ近くまで移動しておきたかった。 　リチャードはバス停の電光掲示板で、次のバスの予定到着時刻をチェックする。幸いな事に、自分が乗りたいバスのナンバーとdue（間もなく到着）サインが出ている。 　ジャケットのポケットからICカードを取り出す。ロンドン市内の公共交通機関、バス、地下鉄、鉄道、水上バスは全てこの一枚で乗降可能である。通称オイスターカード。爽やかなブルーカラーと洒落たデザインのカードで、ロンドナーであれば誰もが持っている必需品である。 　リチャードが身を乗り出して見ると、一つ先の交差点で赤信号に捕まっているダブルデッカーバスが見えた。どうやらあれが目的のバスらしい。 　バスがようやく青信号で動き出したのを見ると、リチャードはホッとした。この時間ならまだ5時半までには到着出来るだろう。彼は5時過ぎにはパブに行く、とメッセージを送ってきた。あまり無駄に待たせたくはない。リチャードはレイに1週間ぶりに会う、と思うと、正直いても立ってもいられなかった。 　到着したバスに乗車して10分。その10分がリチャードには30分にも1時間にも思えて辛く感じる。 　ようやく目的地のバス停に辿り着き、下車すると大通りを反対側に渡り、表通りから裏通りへと足を進める。いつもレイと待ち合わせしているパブは、彼のギャラリーと自分のフラットの丁度中間ぐらいの距離にあり、METの人間なら来ないような場所で、わざとそういう店を選んで会うようにしていた。 　そこは昔ながらのローカルの人間がたむろする古ぼけたパブで、ぱっとしないが、その分遠慮も必要ない。 　リチャードは白い鹿の絵にWhite Hartと文字が入った看板を確認すると、パブのドアを押して中に入る。薄暗い店内はがやがやと騒がしく混雑していた。 　人混みをかき分けるようにして、店の奥まで行くといつもの暖炉前の席に、見知った顔を見つけて安堵する。 　煤けた薄暗い店内で、まるでそこだけにスポットライトが当たっているかのように見える。本当にどこにいても人目を惹くんだな、とリチャードは変に納得してしまう。 　明るい栗色のふわりとカールした髪、榛色の夢を見ているような瞳、鼻筋がすっと通っている端正な顔は、どこかギリシャ彫刻を思わせる。華奢で小柄な体を白いシンプルなシャツで包み、いつものようにボタンは上から二つ目まで開けているので、白い首筋がやけに艶めかしくて、リチャードは他の人間がレイを見て変な気を起こさないか心配になる。ボトムスは黒いタイトなジーンズ。足元は今日は黒い革のスニーカーを履いていた。 「……レイ」 　リチャードは自信なさげに声をかける。まだ彼が怒っているのだろう、と思っていた。 「リチャード、早かったね。もっと遅くなるかと思ってたよ」 　予想外にレイは上機嫌でリチャードは拍子抜けしてしまう。にっこりと笑みを浮かべる彼は、いつも以上に華やかな空気を纏っていた。それはこの薄惚けたようなパブには不似合いで、周囲からは明らかに浮いており一種異様な雰囲気すら漂わせている。 「ああ、ようやく仕事が一段落してね。今日は早く終わったんだ」 「そう。……飲み物どうする？」 　レイの前には小ぶりのタンブラーグラスが二つ置かれている。一つは空、もう一つは半分に減っていた。 「僕、買ってこようか？」 「いや、このラウンドは俺が買うよ。レイは同じのでいい？　いつものシャンディだろう？」 　ラウンド、と言うのはBuying a round（バイイング　ア　ラウンド）の事で、通常パブでは割り勘はせず、複数の人数でお酒を飲む場合、誰か一人が全員分の飲み物を買い、次に買う時にはグループ内の違う人間が全員分を買う、といった具合に支払いを順繰りにしていく方法である。 「そう？　じゃあ、シャンディお願い」 　レイはパブでは、いつも好んでシャンディを飲む。シャンディはビールをジンジャーエールやレモネードで割ったカクテルだ。フランスではパナシェと呼ばれる。 　シャンディは女性が好んで飲むアルコールで、男性が飲むには軽すぎて敬遠されるが、そんなお酒もレイの雰囲気にはぴったりと合っている。 　リチャードはカウンターでシャンディと自分用のラガーをワンパイント買うと、レイが待つ席へと戻った。