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前編(1~10話まとめ)

足元の苔むした石畳が崩れ落ちたのは、一瞬のことだった。 「カイヤ! 下がれっ」 うす暗い地下に響いた不穏な音に足を止め、あたりを見回した瞬間だった。声とともに胸元を突き飛ばされ、後ろへ倒れこむ。 「隊長っ!」 咄嗟に叫んで手を伸ばしたが、連れを助け出す余裕などとてもなかった。 焦りを滲ませた男の顔が砂埃に隠れ、白い隊服が大量の瓦礫とともに穴の中に呑み込まれる。 駆け寄りたいのを押さえ、袖口で目鼻を庇って、黴と苔の混じった砂埃が落ち着くのを待った。焦って共倒れになっては元も子もない。 石畳に開いた大穴の縁へ近寄ると、慎重に下を覗きこみ、声を張った。 「隊長! 生きてますか?」 崩落の余韻で、砕けた石のかけらがぱらぱらと落ちる。奈落の下の暗闇から、硬い地面にぶつかる音が聞こえた。 「し、っつれーなこと言うなっつの! 生きてるよ、吊られてっ、けど!」 元気そうな声に安堵すると同時に、意味が分からず眉根を寄せる。 「は?」 「あっ、おいッ! っわ、やめっ、この、クソっ!」 「隊長!? 大丈夫ですか!?」 「だいっ、じょぶッ! じゃねえっ……!! っぁ、はやくっ」 しゅっ、しゅるるっ、と鋭い衣擦れのような音とともに、上擦りはじめた声に、ひしひしと嫌な予感がしてくる。 「とりあえず、降りますよ?」 石を落とした音から測っても、下までは大した高さはない。手近な柱に縄を結ぶと、強く引いて強度を確かめてから、端を掴んで飛び降りた。 敵襲を避けるため目が慣れるまでその場にうずくまり、ゆっくりと立ち上がった。 「……隊長?」 上層の階から入り込むわずかな光を頼りにあたりを見回してみたが、先に落ちたはずの連れの姿がない。呼びかけると、 「……ッ、こっちだ、こっち!」 上から、ぎしっ、と軋むような音とともに声が降ってきた。 発光石を収めたランタンに灯りをともし、高く翳す。 くたびれた長靴の爪先が視界に入り、灯りを左右に振る。青白い光の輪の中に、唇を噛んで頬を赤らめた髭面が映った。 「隊長……。なにやってんですか」 一瞬でも心配したのが馬鹿らしくなる。 「ぅ、るっせえ、なあっ……」 呻くように返した男の身体は、アーチを描いた天井から、鞭のような黒い紐で虚空に吊り下げられている。 落ちるときに頭を庇おうとしたのだろう、何本もの紐が頭上にあげた両腕に絡みつき、無防備な姿勢のせいで、胴に巻きついた紐が胸板と、太腿の付け根に食い込んでいる。 砂埃に汚れた白い隊服は、この階層へ来るまでに遭遇した魔物の体液でぬめり、ズボンの一部は融けてさえいる。 隊長を捕らえた紐――十中八九、記録されていない新種の魔物は、獲物を探る蛇のように怪しく艶光りながら、しゅるしゅると身体を這いずって、衣服の切れ目から侵入しようとする。 「っ、この、紐……っ、触手か? 生きてやがる……!」 宙吊りにされたまま、際どい所を掠めるそれに顔を赤らめ身をよじる姿に、 「……卑猥だ…………」 思わず重い溜息が腹の底から漏れた。 「おいっ! 見てないで……っ、はやく、下ろせっ」 「……下ろしてほしいんですか? 随分楽しそうですけど」 こんなありさまでも、この迷宮を管理する衛兵隊の隊長なのだろうか。 咄嗟にこちらを庇ったのはさすがと言えるのだろうが、易々と捕らわれてしまう迂闊さに、つい、見上げた視線に疑いが混じる。 詰襟の制服から覗いている首筋は真っ赤に火照り、何本もの紐に執拗にまさぐられた脚の間は、誰がどう見ても兆しはじめている。 「あたりっ、ひぁ! 当たりまぇ……っ、だろうが……っ!!」 「なら暴れないでください。余計に食い込むだけですよ」 もう一度大きく溜息をつきながら、俺は懐から聖別された銀のナイフを抜き、吊るされた隊長に歩み寄った。 ----- 剣と魔法、冒険の時代は遠く過ぎ去り、英雄たちの苦難の旅路さえ寝物語に変わった時代。 国や世界の命運をかけて磨かれた武術はスポーツに、この世の神秘に迫った魔法は競技や手品に姿を変え、ささやかな娯楽として人々の間に生きながらえた。 軍馬行き交った街道は観光ツアーの定番に、いにしえの戦いや奇跡の足跡(そくせき)は観光名所に変わり、多くの犠牲者を出した魔物の巣窟や迷宮の踏破でさえ、ダンジョン攻略という名の遊興(あそび)となった。 俺の住む、アドレキアの街といえば――。 「お兄さん! そこの素敵な衛兵さんたち、お仕事の前に祝福はいかがぁ?」 大通りを足早に進むこちらへ向けて、ベールをつけた修道女が、甘い声をあげて手を伸ばしてくる。 衛兵隊の白い詰襟の制服は、こういうときに目立っていけない。 漂ってくる甘ったるい香水と、おしろいの匂いに眉を顰める。 女が着ているのは形だけは貞淑な修道服だが、布地は肌の色が透けるほど薄い。豊満な身体を締め上げた黒いコルセットから、はち切れそうな乳房が覗いているのが分かる。 吸い寄せられるようにふらふら道を逸れた連れの襟首を掴み、強引に引き止めた。 「ジルド隊長。どこへ行くんですか」 少々勢いがつきすぎたか、ぐえっ、と馬に踏まれた蛙のような声があがった。 恨みがましく振り返って口を開こうとするのを制して、 「そろそろ査定に響きますよ」 と言ってやれば、たちまち苦虫を噛み潰したような顔をした。 絵物語のような金髪碧眼も、少し陰のある甘い顔立ちも、それを引き立てる制服も形無しだ。 白けた顔をした女に向きなおると取り繕うように咳をして、肩を竦めて(うそぶ)く。 「いやなに、斡旋(あっせん)神官の能力査察も衛兵隊の仕事のうち、ってな?」 「生憎ですが、俺たちの組は今日から夜勤週で、割り当ては保全当番です」 俺はきっぱりと首を振り、手を振っていかがわしい修道女を追い払った。 遊興施設であるダンジョンには、その安全を保障するため、冒険者ギルドから衛兵隊が配備されるのが常だ。 衛兵隊は挑戦者の補助や救助を主な任務とし、中の魔物が強大化すれば適正値まで討伐を行い、未探査部が発見されれば学者を伴って調査する。 ダンジョン内のギミックやトラップが破損していないかを確認し、補修するのが保全当番だ。 隊長は肩越しに振り返って、また新たな客を呼び込む女をちらりと見やると、つまらなそうに大きく伸びをした。 「あーあ、退屈なんだよなあ、保全当番。魔物の魅了にあてられて、矢も盾もたまらなくなってる冒険者にも会えねえし、なあ?」 と言って、下世話な笑みを隠しもせずに振り返る。 返事の代わりにあきれ返った顔をして鼻で息をついてみせると、ちえ、と舌打ちして、拗ねた子どものように下唇を突きだした。 南方砂漠に名高い不夜の街、アドレキア。 その(いしずえ)は、淫らなる邪神、両性具有の蛇アドレキアを(まつ)った、古代の都だ。 城壁に囲まれた中心に、壮麗な楼閣型のダンジョンを抱くオアシス都市だ。 勇者によって蛇神が倒れ、姦淫をそそのかす教えが滅んだ今も、地下二層、地上五層に及ぶ白亜の楼閣には、いかがわしい力を授けられた眷属たちが蠢いている。 この街のダンジョン提供される娯楽は、他のダンジョンにあるような、剣と魔法の勇者ごっこではない。 挑戦者の条件に、成年であること、健康であることを課す、極めて不埒なダンジョンだ。 冒険者ギルドは性娯楽を提供する同行者を斡旋し、治癒者ギルドは意図せぬ妊娠や病を避ける処置を施す。 不夜城の名はそのとおり、街全体が巨大な歓楽街なのだ。 歓楽都市はちょうど薄暮(はくぼ)を迎え、目覚めたばかりだ。 大通りに軒を連ねる妓楼(ぎろう)では、裸体に薄絹と宝石を纏った男女がしなを作って並び、道行く人に流し目を送ってくる。 「見ろ、あの店。お前とおんなじラズばっかりあんなに集めてる」 隊長に言われてつい指さす方に目をやれば、砂漠地方の先住民、ラズ人の浅黒い肌と黒髪、紫水晶の瞳が並んでいる。 邪神と人間の間に生まれた民と呼ばれて栄え、邪教とともに衰退した少数民だ。 男女ともに長身で、目つきの鋭い怜悧な顔立ちをしており、筋肉質で細身の身体は確かに蛇に似たところがある。 「あの髪、いつ見てもすげえよな」 床を這いずるほどの長髪で描かれる彼らの神(アドレキア)になぞらえて、大抵のラズ人は、可能な限り髪を長く伸ばしている。 動きにくさに耐え兼ねて短髪にして久しい俺から見れば、艶めくぬばたまの流れも黄金と紫水晶の髪飾りも煩わしいばかりだ。 屈み込んでも手元に毛先が落ちてこない自由さ、視界に前髪の被さらない身軽さを、彼らにも一度味わわせてやりたいものだ。 じっと見ていると、飾り窓のむこうに立たされている娼妓たちもこちらに気がついて、誘いかけるように首を傾げて微笑した。 「同じじゃないですよ。純血じゃありませんから」 「お前は混血なんだっけか? ま、見た目の話だよ」 どれどれ、などと白々しく言いながら近寄ろうとするのを、再度襟を掴んで引きずる。 「ラズは顔もいいが、あっちのほうも凄いんだろ。一度くらいお相手願いたいもんだ」 「……お断りします」 「馬鹿、お前じゃねえよ」 与太話をしているうちにも陽が傾き、空が赤みを帯びてくる。くっきりと眉間に皺が寄るのを自覚する。 「ふらふらしないでください。ただでさえ交代の時刻に遅れてるんですから」 「硬えこと言うなってぇ。だぁいじょうぶだよ、俺が隊長さんなんだから、さ」 片目を瞑って、にいっと笑ってみせた。 襟足を短く刈った髪は夕日を浴びて、砂丘の稜線のように明るく光る。 少しくすんだ青の瞳が白い詰襟の隊服によく映えた。 左の眉尻から頬にかけての古傷が、表情に歴戦のつわものめいた陰を添える。 顎先の無精髭が印象を損ねているものの、こうして改めて見ると、西方の大国から名を残した勇者の末裔というのも、あながち法螺(ほら)でもないのかも、と思わされた。 「それにしても随分張り切っちまって、そんなにお仕事楽しみかぁ、カイヤ?」 こちらの考えなど知りもしないスケベ中年は、せっかくの顔かたちも台無しにして、にやついた笑みを満面に広げてこちらを覗きこんでくる。 「俺は普通です。隊長が不真面目すぎるんでしょう」 衛兵隊での経験はまだ浅いが、この街に暮らし始めてどれだけ経つと思っているのだ。 いまさらダンジョンごときで喜ぶほど初心(うぶ)ではない。 軽く肩を竦め、賑わう店屋と通りを見渡した。 真っ当なものならば眉を顰めるこの街で、わざわざ衛兵をやっている理由などひとつしかない。 アドレキアは、数あるダンジョンの中で最も早期に差別化と集客に成功し、開闢(かいびゃく)以来賑わい続けている街だ。 宗教界から数世紀にわたって糾弾されつつもこの淫魔の楼閣を訪れる挑戦者は絶えず、その衛兵ともなれば給金は非常にいい。 アドレキアの楼閣は一日で踏破可能な小規模型のダンジョンで、攻略時間帯は日の出から日没までと定められている。 夜間は魔物の強大化のおそれもあり、衛兵以外の進入は禁止だ。 明日も明後日もその先も、欲深な人々を飲み込み、金と欲を吐き出させるためならば、退屈な補修作業などなにほどのことか。 武器屋に薬屋、道具屋が並ぶさまはいかにもダンジョン前の横丁らしいが、そこは邪淫の街アドレキア。扱われるのは薬草や武器防具ばかりではない。 目玉を描いた看板はアドレキアダンジョンの名物とでも言うべき、邪眼避けを専門に扱う店だ。蛇の邪神はその視線で獲物を硬直させ、催淫を掛ける。 ダンジョン内の灯りにもその仕掛けが施されているため、奥へ進みたいのなら着装は必須だ。 薬屋の店先には興奮剤に精力剤、幻覚剤のたぐい、ついでにそれらの中和剤が並び、道具屋では張型に吾妻型、貞操帯、拡張器。装備者の性別や装着箇所を問わず、あらゆるたぐいの淫具が揃う。 防具屋の軒先には、先ほど声をかけてきた修道女の纏っていた、透ける修道服の模造品が堂々と吊るされている。 「あれどうだ」 視線の先をさっそく見とめて、隊長がにやつきながら指さした。 このあたりの道具屋や防具屋で売られる装備品は、麻や綿など植物性の繊維、獣毛や絹などの動物性繊維、皮革に金属と、部分ごとにいちいち素材が示されている。 普通なら相手取る魔物との相性を考えて、というところだが、不埒な街では一味違う。 「二層以降なら着てないほうがマシですね」 一瞥し、眉根を寄せてそう言った。 ごくごく薄い綿布の一部を縁どるように、金色の金具と皮革が縫い付けられている。 粘液性の生命体はダンジョンに出没する魔物の定番だが、アドレキアのダンジョン内にはそれぞれ、食性が植物食のもの、動物食のものが階層ごとに縄張りをつくって蔓延(はびこ)っている。 つまり、意図的に粘液を浴びて部分的に溶ける様子を楽しめ、ということだ。 局部を強調する紐に成り下がるのが見てとれる防具から視線を外し、ふと隣の男が着ているものに目をやった。 「そういえばアンタ、今日下制服じゃないですよね」 「こーら、隊長だろうが」 おちょくったような叱責とともに、肩の鎧を小突かれた。 衛兵隊の制服は、詰襟の喉元に金のバックルのついた丈の長い上着と、革鎧を金属板で補強した軽い部分装甲。上着は左右の脇に深いスリットがあり、歩くたび裾がなびく。 下は本来、少しゆとりのある仕立ての黒いスラックスを、膝下で白い仔山羊革のレッグカバーで締めるデザインだ。 隊員の過半数が男だが、女性隊服ではスカートもある。 出版物や芝居でも映えるようにデザインされたというまことしやかな噂が立つ、実用性より見た目重視の装いだ。 転じて隊長は、皺のついた上着の下は、私服らしき黒いカーゴパンツと、使い込んだレザーブーツを履いている。 「すみませんね、隊長。敬意の在庫が切れました」 「早えよ。まだ仕事始まってもいねえのに」 「ええ、本来始まってるはずの時刻なんですけどね」 無秩序で猥雑な看板の連なる通りの先には、もうダンジョンの白い丸屋根と、左右の望楼が見えている。 道はダンジョンから吐き出された冒険者たちで混み合って、人波に逆行するせいで距離が近い。隊長は軽く眉を上げ、ぶつかった肩を竦めた。 「着替えてくんの忘れてた。お前が急かすから」 「女の家で寝過ごしたのは誰でしたっけ?」 「女が離してくれなかったんだよ。モテる男はつらいもんだ」 こんな街で暮らすことを選ぶくらいだ、住人はおろか衛兵隊でさえ淫蕩の気のある者ばかり。余所から赴任してきた者でさえ数年で慣れ、この街に染まる。 ダンジョンから漏れ出す瘴気の影響などとも言うが、なかなかぞっとしない話だ。 顔をしかめる俺を余所に、隊長は顎先の髭を撫でながら、くく、と喉の奥で笑っている。 「お前、扉がぶっ壊れそうな勢いで叩くもんだから、女がびびってたぞ」 「知りませんよ。次からはそこの宿でも取ったらどうです」 通りの突き当たり正面、左右の角に店を構えている宿屋を指した。 ダンジョンの真正面には普通なら宿屋と救護所があるところだが、アドレキアでは宿は宿でも連れ込み宿だ。 「入ったことあるけど、あそこ高えだろ」 「よく入れますね……。職場の真正面ですよ」 「んなこと言うのお前くらいだよ。そのうち気にもならなくなるって」 「そうはならずに居たいものです」 自由な職場と言えなくもないが、こうもあけっぴろげでいい加減なのもどうかと思う。 実際、加工を施してある程度の耐性を持たせた制服と違い、ただの綿布はスライムの消化液で簡単に融ける。 「ズボンの尻を融かされても助けませんからね」 「んなヘマしねえよ。隊長だぞ?」 ダンジョンの門前に立つ、衛兵隊員が見えた。 こちらに気づいて手を振ってくる姿に、隊長が「おーう」と片手を挙げて返す。 「ほら、急ぎますよ。駆け足」 「お前が命令すんのかよ?」 面白そうに唇を突きだして言う隊長の背中を小突き、小走りで駆け寄った。 アドレキアのダンジョンは、白い石材に複雑な彫刻を施した、美しい建築だ。 このような均質で堅牢な石は近隣のどこからも産出しない。ダンジョンの存在が異界に由来すると言われる理由のひとつだ。 正門からまっすぐ先に、睡蓮の咲き誇る四角い池と、丸屋根を乗せた優美な宮が見通せる。 左右対称の端正な造作だが、よくよく見れば壁や柱に隙間なく刻まれた花や蔓の間に、異形と交わる男女の浮き彫りが施されているのが分かった。 門の内部には衛兵の詰所があるが、俺たちの前の当番の兵士たちは、交代の到着を待ちかねて出てきたようだ。 隊長がひらっと手を挙げ、声をかけた。 「おう、ご苦労さん」 「お疲れさまです、隊長!」 「遅くなって申し訳ありません」 遅刻したくせに悪びれもしない隊長に代わって頭を下げる。 ダンジョンの開放中は二部隊で詰めているはずが、小隊長の腕章をつけた男はひとりしかいない。 「お? ジルバのやつはどうした」 「ジルバ隊は定時で帰還、というか、4層でぐにゃぐにゃになってた挑戦者を救助して、そのまま消えました。なかなか美人の戦士でしたよ」 「マジかよ、惜しいことしたな」 「隊長、埋め合わせにあとで奢ってくださいね」 「酒か? 女か? それとも男か?」 残っていた小隊長がにやりとして不服をあらわすと、隊長もにんまり笑って返す。 「そっちで希望者まとめとけよ?」 と言うと、はい!と高らかに返事が返った。 「裏門の施錠はこちらで終わらせておきました。挑戦者の退去も入場名簿と照らし合わせて確認済みです」 「ん、ご苦労。助かるぜ」 「助かるぜじゃないでしょう。ご迷惑おかけしました」 「他、なにか変わったことなかったかー?」 「それが、ですね……」 小隊長が言うには、不届きものの挑戦者が、ダンジョンに入ってすぐの広間で、床に発破を使ったらしい。 アドレキアの地上部の五層は、宮殿建築に似た比較的単純な作りだ。難所や要所はあるものの、構造に沿って進んでいけば最上階のドームにたどり着く。 変わって地下の二層は複数の仕掛けや隠し通路が張り巡らされ、物理法則を無視した魔術迷路が侵攻を阻む。 地上はあくまで娯楽施設、ダンジョンに挑む者ならば、地下神殿を制覇してはじめて攻略したと言えるのだ。 日没の閉場を前に焦ったか、ずるを試みたらしい。 「出禁にしたか?」 「もちろんです。冒険者ギルドの留置所にぶちこまれてるはずですよ」 「夜勤が明けたら出向かないとですね」 「うぇえ、かったりい……」 隊長は心底面倒くさそうに首を傾け、ぼりぼりと頭を掻いた。 「そういうことなら、気は進まねえがとっとと済ませるか」 頷き返し、胸元の内ポケットを探る。 携帯用の黒いレザーケースから細い銀縁の眼鏡を取り出し、装着した。 度はないが、邪眼除けの魔法を施したレンズはやや厚みがある。 ケースをしまい、さて、と振り向くと、隊長は首を捻りながら、隊服のポケットを叩いていた。 「あ……りゃ?」 「まさか忘れたなんて言いませんよね」 「いや、ある! 昨日使ってから着替えてねえし……。……ほらな!」 胸ポケットの底から少しばかり歪んだ鼈甲の太縁眼鏡を取り出して掲げた。 中指で鼻先に押し上げると、こちらに向けてにやりと笑ってみせる。 くすんだ青の目と鼈甲の色味が調和して、似合わないわけではないのだが、唇の端を上げる笑い方のせいで途端に胡散臭さが増す。 「行きますよ」 白い目を向け、踵を返した。 閉門した正面入り口の脇を回り、隊長の持つ金の鍵で通用門を開けてダンジョンへ踏み込む。 アドレキアが侵入者を最初に出迎えるのは、豪奢な吹き抜けのホールだ。 白い壁面は微妙に色の濃淡の異なる石材が積まれて幾何学的な花模様を描き、壁龕に飾られた淫靡な石絵を引き立てる。 一歩踏み入れるとあたりの照明具に一斉にあかりが灯り、ゆらめく紫を帯びた、薄紅色の光に照らされた。 天井から下がるシャンデリアも壁のくぼみに置かれた魔光石の燭台も、人間の精神を揺さぶる微弱な魔法を放っている。 床の隅や天井には、ぬめぬめとした薄桃色のジェリースライムや、人間の手首から先に似た、小さな魔物が這っていた。 彼らは、挑戦者がダンジョン内に残した残留物を分解して清潔を保つ、天然の掃除屋だ。野山の虫と同じで、よほど数がまとまらなければ害もない。 問題の穴の周りには、ポールを立てて綱を巡らせ、規制線が張られている。 無残に割れたモザイクタイルが痛々しい。穴の下には暗闇が口を開けていた。 「この下ってなんだっけか」 隊長に問われて、腰の道具鞄から地図を取り出し、位置座標を照らし合わせる。 アドレキアの地下部分では人の記憶や感覚は頼りにならないため、専門の地図師が製図し、位置転移の術のかかった箇所には印をつけた、複雑怪奇な図になる。 「待ってくださいね……。たぶん……水牢跡です」 「たまたま壁の厚いとこに当たったってことか。広がらなくてよかったな」 規制線を跨ぎ越え、床に膝をついて覗き込む。穴の底に溜まった液体が、広間の光を反射して揺れている。 「地下水、ですかね」 「怪しいな。試薬くれ」 「自分のはどうしたんですか」 「鞄は忘れた」 と、隊長は肩越しに振り返って、よく言えば茶目っ気たっぷりに、率直に言えば腹の立つ顔で笑う。 盛大に溜息をつき、腰につけた革鞄から油紙の包みを取り出して渡した。 中の細かい粉末は、北海の夜光虫を原料にした蛋白粉だ。 ただの水なら青白く、毒や酸なら緑や紫、ダンジョン内に分布する生命体であれば、体液で分解されて赤く光る。 振り入れた白い粉はしばらく水面をたゆたい、そのうちぼんやりと桃色に光りはじめた。 「やっぱりな、ラブローションか」 「低級スライムですね」 ラブローションというのは、言うまでもなくアドレキアでの俗称だ。 スライムはどこのダンジョンでも必ず目にするが、アドレキアに住むものはたいてい天井近くの隙間や暗がりに潜んでいる。 人間が下を通りがかるとずるりと滴り落ちて、衣服の繊維や体表の老廃物を摂食するのだ。 その消化液は触れると火照りや痒みを覚え、あるいは痛覚の鈍麻を起こさせる。 歴とした魔物であり甘く見るのは危険だが、当たり前のようにいかがわしい用途に使うものが多数いるのがこの街だ。 「気をつけてくださいね、そのあたり滑りますよ」 隊長が跪いているあたりのタイルを指差し、地図を鞄に戻して再度中を探る。 「流石にバカにしてんだろ!?」 スライムは繁殖力は旺盛だが粘体生物の悲しさで、体組織の組成を壊されるとすぐに力尽きてしまう。 高価な聖水に頼るまでもない。塩の小袋を取り出し、一掴み穴の中に投げ込んだ。 塩の粒が溶け出すと同時に、桃色に光る液面がぞわりと波立つ。 水牢の壁や天井に光の波紋を振りまきながら、スライムは沸騰するようにぼこぼこと波立ち、やがて静かになった。 「死んだか?」 隊長が足元の砕けたタイルを拾って投げ込む。瓦礫は、だぽん、と重い音を立てて沈んだ。 頷いて、命を失いただの粘液に変わったスライムに背を向ける。 「な、いっこ提案なんだがーー」 と言ってこちらを見た、その胴回りに音もなく太い触手が巻きついた。 「後ろ!」 叫ぶと同時に隊長が振り返り、腰のナイフを抜く。切り飛ばされた透明な触手が、ぼとりと床に落ちた。 穴の中からゆっくりと、巨大な魔物が這い上がってくる。 「テンタクル……!」 スライムの死骸をまとわりつかせながら姿を現したのは、一抱えもあるイソギンチャクに似た軟体の魔物だ。 筒状の胴体の先には無数の触腕が蠢き、その中央に口がある。 普通は麻痺針と鋭い歯列を持つのだが、アドレキアの変種には歯はなく、吸いついて獲物の体液を吸う。 隊長をとらえようとした腕もただの軟体ではなく、イカやタコのような、強靭な吸盤を備えている。 体色は透明に近く、水やスライムの中に潜んでいると見分けがつかない。 「まだ一層なのに……!?」 「崩落のせい、だろうな……!」

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