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 六月十七日、土曜日の午前三時過ぎ。  アパートのドアをやかましく叩く音がして目が覚めた。  枕元のスタンドライトだけが煌々と灯る薄暗い部屋の中、俺はのそりと上半身を起こす。まだ頭が回らずぼんやり部屋の壁紙を眺めていると、玄関の方から声が聞こえた。 「帰ったよォー。響希(ひびき)、開けてー!」  周りの部屋や近所の家のことなんて何も考えていない、上機嫌な翔宇の声だ。毎週のことだから慣れているとはいえ、心地良い眠りから突然現実に引き戻されるのは気分が悪い。 「オラー、開けろ響希。八坂響希ー!」 「分かったっつうの……」  うんざりしながらベッドを降りて目を擦り、その手で部屋の明かりを点けてリビングを抜け、玄関に向かう。俺の足取りは重かった。  裸足のまま沓脱ぎに降りて鍵を開け、ドアノブを回すと、 「ただいま響希……。ああ、超疲れたぁ」  外側からドアにもたれていたのか、開くと同時に翔宇が俺の腕の中へ倒れ込んできた。その顔は赤く、また無理矢理飲まされたらしい。出勤前にセットしてやった髪は見事に崩れているし、上等なスーツはよれよれで、酒をこぼしたのか腹の辺りが濡れていた。本当に懲りない奴だ。 「翔宇、酔いすぎ。酒弱いんだから飲むなっていつも言ってんだろ。介抱する俺の身にもなれ」 「響希ありがと、いつも助かる……」  俺は舌打ちをして翔宇の両脇に腕を入れ、ズルズルとリビングまで引きずって行った。翔宇を二人掛け用のカウチソファに座らせてやってから台所へ行き、冷蔵庫で冷やしておいたミネラルウォーターをグラスに注ぐ。 「飲め」 「ありがと。あぁもう、マジで……」  一気に水を飲み干した翔宇が大きな溜息と共に「疲れた」と言った。俺にグラスを差し出して更に水のおかわりをねだる。俺はそれを受け取り、二杯目を注いでやりながら言った。 「そういえば翔宇がこないだ出た雑誌。昼間、店行った時に見たぞ」 「おっ、どうだった?」 「お前にしてはしっかり受け答えしてるなぁって思った。写真はそれなりにエロかったけど、お前のキメ顔で萎えた」 「萎えた?」  俺からグラスを受け取った翔宇が、今度は一口ずつゆっくりと味わうようにして水を飲みながら顔をしかめた。 「これでも撮影の時はすっげぇ褒められたのに。写真集出すかとか言われたんだぞ」 「そりゃ誰にでも言うんだよ。俺だって言われた」  むくれながらネクタイを外す翔宇を尻目に、俺は流し台に寄り掛って煙草を振り出した。 「で、仕事の方はどうだったんだ? それだけ酔ってるってことは、中川さんがまた予約入れてくれたんだろ?」 「おう。一緒にキャバクラ行ってきた!」 「ふうん。楽しかったか?」  翔宇が逆立った黒髪をかきむしる。 「女の子と話すのは別にいいけど、中川さんに見つめられてる中で話すのはかなりプレッシャーだったわ」 「あの人の性癖、変わってるもんな」 「マジで変わってるぜ。なぁ響希、ちょっと今日のこと聞いてくれる?」  咥えた煙草に火を点け、俺も翔宇の隣に腰を下ろす。  翔宇は身振り手振りを加えながら、回らない舌で語り出した。 「まずキャバクラ行くだろ。そこで中川さんは、女の子にチヤホヤされる俺をじっと観察すんの。じゃあ、その後にホテル行くだろ? そんで俺に言うんだよ」 「何て?」 「どうしてお前は女とばっかり話すんだ、って」  意味が分からず、俺は首を傾げて目を細めた。 「どういうこと?」 「嫉妬プレイっていうのかね。俺を申し訳ない気持ちにさせて、自分が優位に立ちたい、みたいな感じ。『女なんか興味ない。俺が好きなのは貴方だけです』って言わせたいわけ」 「面倒くせ」 「だろ? 初めからそういうプレイしたいって言ってくれれば俺も普通にやるのに、わざわざ本当にキャバまで行って本格的に下準備するんだよ、あの人は。変わり者にも程がある」  俺は苦笑しながら、一度だけ見たことがある中川啓太の気難しそうな顔を思い浮かべた。確か俺と翔宇より八つ年上の二十九歳で、既婚者だ。大手企業の会社員で金の羽振りはいい。だけど面倒くさい男。それが彼だった。 「翔宇は色々買ってもらってるし、金落としてくれるから邪険にできないもんな。お前が今着てる何十万もするスーツだって、中川さんがくれたんだろ?」 「そうなんだよ。それに面倒だけど、そこまで嫌なプレイってわけでもねえし」  その中川啓太にえらく気に入られている翔宇は、毎週金曜になると彼からの予約が入り、こうして酔っ払って帰ってくる。介抱するのが面倒臭い俺としてはそのまま泊まってきてもらえると助かるのだが、中川啓太の方が朝までには妻の元に帰りたいと言っているそうなのだ。  まぁ、その気持ちは分からないでもない。ネオンが光っているうちは夜の魔力に取り憑かれて男遊びができるものの、朝の眩しい太陽の元で魔力の効果が無くなった時、隣には金で買った男ではなく、愛する妻がいてほしいんだろう。 「響希が金曜は仕事休んでくれるから、俺は大助かりだ」 「俺は困ってるってば。稼ぎ時の金曜の夜を、お前の面倒見るためだけに使うなんてすげえ損してる気分」 「ごめんごめん。今度焼き肉奢るから」 「そう言って、結局一度も奢ってもらってねえけどな」 「必ず。約束する」  赤ら顔の翔宇が、普段は見せないような真剣な表情で俺を見つめる。 「絶対だ」  とは言いながらも、どうせ寝て起きた時にはすっかり忘れている。毎回毎回そうなのだ。翔宇の約束が守られたことは殆どない。いつものことだから気にしてないが、真剣な顔で言われるとつい期待してしまう。  俺が適当に頷くと、翔宇の顔が途端にデレデレとした表情に変化した。 「響希に焼き肉いっぱい食わせて、酒もガンガン飲ませて、潰れたところを襲ってやるぜ」  俺の方へ体を倒してくる翔宇をうんざりしながら片腕で押し返す。ついでに今にも翔宇の手から滑り落ちそうになっているグラスを慌てて奪い取り、テーブルに置いた。 「なぁ響希、俺相当我慢したよ? そろそろいいだろ」  ソファの上であぐらをかいた翔宇が、お預けを喰らった犬のように肩を落として上目に俺を見つめる……が、その手には乗らない。 「いいから早く着替えて寝ろ、酔っ払い」 「酔ってねえよぉ。響希とエッチしたい」  何よりもそんな台詞を吐くのが酔っている証拠だというのに。 「散々ヤッてきたんだろうが。それに明日どっか出かけるんだろ? 起きれなくなるぞ」  そうだ、と言って翔宇が俺の膝に手を置き、そのまま内股を撫で回してきた。とんでもなく嬉しそうな顔をしているが、その理由はだいたい予想がつく。 「響希も明日、仕事終わったら俺と一緒に来いよ」 「どこへ?」 「最近仲良くなった、他の店の子の家。超可愛いんだぜ。それも十八歳」  俺は少しの間沈黙してから翔宇の手を払いのけ、灰皿に煙草を押し付けながら首を横に振った。 「行かね」 「なんでよ。たまには響希も若い子と遊ばねえと。オッサンばっかり相手してたら、あっという間に老けちまうぞ」 「………」 「若くて健康な時なんてすぐ終わるんだ。この仕事始めてから改めて思うようになったけど、若さには期限があるんだぜ、響希。しかもかなり短い期限だ」  こいつは分かったようなことを言いながら、実は何も分かってない。  若かろうが老いてようが、俺は翔宇と一緒にいられればそれで満足なのに。 「とにかく考えといてくれ。マジで俺のお勧めの子だから、響希も絶対気に入るって」 「気に入ったところでどうしようもねえだろ、そんなの」  翔宇がソファから立ち上がり、シャツのボタンを外しながら歯を見せて笑う。 「いいから楽しみにしとけ。そんじゃ明日、仕事頑張ってな」  リビングに一人残され、俺はソファの上で膝を抱えて目を閉じた。  俺達はいつからこんな関係になってしまったのだろう。初めはもっと、普通の友達として互いに接していた。それなのに、いつの間にか同じ男を抱くこともできるようになってしまったし、それに対して俺も何も思わなくなってしまっていた。  さっき翔宇が嬉しそうに言っていたのだって、早い話が3Pの誘いだ。それ自体は今どき珍しいことじゃないのかもしれない。だけど俺は、思わずにはいられなかった。  ――セックスってそんなに軽いものだったか。  あの頃は、俺達がこんな関係になるだなんて考えたことすらなかった。

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