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午前一時、二十五分。
アパートに戻った俺は、一度着替えてから腕時計の箱をそっと棚の上に置き、その足で近所にある小さな児童公園へ向かった。
鈴虫の声がする。
空には月。少しだけ雲に隠れている。
誰もいない深夜の公園。街灯に照らされたベンチに座り、俺は翔宇を待った。
翔宇が来たなら、全て伝えよう。
俺が七年間抱いてきた想いの全て。翔宇はたぶんそれに応えてくれる。さっきの電話で、おぼろげな予感が確信に変わった。
きっと、翔宇も俺が好きだ。
「響希」
小声で俺を呼ぶ声がして、顔を上げた。
公園の入り口から翔宇がこちらに歩いて来る。
「お待たせ」
左手にはコンビニの袋。右手には水の張ったバケツ。白いTシャツと、ジーンズ姿の翔宇。俺の顔が綻んだ。
「お疲れ」
「響希もお疲れ。ジュース買ってきたからどうぞ」
受け取ったペットボトルを火照った頬にあてた。
翔宇は俺の目の前でしゃがみ込み、買ってきた手持ち花火の封を開けている。
「翔宇、珍しく今日は酒飲まされなかったんだな」
「今日は飲めません! って、ビシッと断ってきた」
「そうなんだ。偉いじゃん」
「だって、響希と大事な話するのに酔ってたら失礼だろ?」
「………」
先手を打たれたような気がして、俺はペットボトルの蓋の上に顎を乗せ、下唇を突き出した。
「ほい」
手渡された細長い花火。ライターを取り出した翔宇が、俺の隣に腰を下ろす。
「せーので一緒に着火しようか」
ライターの火に二人で花火の先端を近付ける。するとたちまち、シュッ、と音を立てて花火が火を噴き始めた。
「響希見てろ。これ、途中で色変わるからな」
「じゃあ先に変わった方が勝ちだな」
「え。この場合、先に変わった方が負けなんじゃねえの?」
空いてる方の手で、翔宇が新しい花火を取り出した。まだ火を噴いている花火に先端を寄せて着火し、両手に持ってはしゃいでいる。それを見て笑いながら、俺も次の花火を手に取った。
「誕生日、どうだった? ロマネの風呂入った?」
「いや、普通の風呂だった。でもロマネは飲んだぞ」
「えー。俺は酒我慢してきたのに?」
「だって断れないし、翔宇とここに来ることになるなんて思わなかったから」
「ヘリから見た花火は? 綺麗だった?」
「すっげえ綺麗だった。マジでセレブ気分だった」
「響希、泣いてたな」
「う、うるさい」
「俺も久々に、中学ん時のあの感動を思い出したわ」
「……俺も」
それから翔宇が立ち上がり、色々な種類の花火を五、六本手にして一気に火を点けた。
「見ろ、響希。かっこいい?」
「危ねえよ、気をつけろ」
翔宇の白いTシャツと嬉しそうな顔が、赤や緑の光に照らされている。
「ガキん時って、こうやって一気にやるの夢じゃなかった? なかなか勿体なくてできねえんだよな」
「あと、持ち手が特殊なやつな。これだ、紙でできてるやつ。弟と取り合いしてたもん」
「じゃあ今日はそれ響希に譲ってやる」
俺も立ち上がって、自分のライターで火を点けた。
「喰らえ」
ぎりぎりのところまで、翔宇の方へ花火を向ける。
「うおっ、馬鹿やめろ!」
「やめねえ。そのアホみたいに高いジーンズに穴開けてやる」
「や、やめろってマジで! ちょ、響希っ……やめて!」
「おい、逃げるな!」
俺と翔宇は笑い合い、汗だくになりながら公園中を走り回った。
やがて走り疲れた俺は、まだ警戒して逃げている翔宇を放ってベンチに戻り、さっき翔宇から貰ったペットボトルのサイダーを飲んだ。
喉を刺激する炭酸が熱くなった体に心地良い。
「もう、響希は激しい花火やるの禁止……」
息を切らして戻ってきた翔宇が、どっかりと俺の隣に腰を下ろす。
「これにしよ」
線香花火の束を俺に見せる翔宇。
「二人でやる線香花火って、何かロマンチックだろ」
そう言って腰を上げた翔宇が深くベンチに座り直し、自分の膝をポンポンと叩いた。
「そら、響希くんおいで」
「………」
「早く」
腕を引かれ、半ば強制的に膝の上へ座らされた。後ろから伸びてきた翔宇の腕が、俺の脇の下をくぐって腹の前で固定される。緊張して、でも嬉しくて、俺は身動き一つ取れなくなった。
「響希、汗すごい。シャツ濡れてんじゃん」
「お前もな」
「ていうか、なに? お前香水つけてる? なんか匂うんだけど」
翔宇が俺の首筋に鼻先を近付けて言った。
「たぶん、結城さんの香水の匂い。移ったんだ」
「ヤラシイことしたからか? シャワー浴びてねえのかよ」
「違う、今日はしてねえよ。してねえからこそ移ったんだろ」
首筋からうなじへ、翔宇は犬のように鼻を鳴らしながら俺の匂いを辿っている。
「ん。汗の匂いもするな」
「暑いし走ったからな、汗臭いのはお互い様だ」
「響希、セックスの最中みたいな超エロい匂いする」
「うるさい。早く、花火くれ」
「がっつくなって」
線香花火を受け取ってから俺はライターを点火した。俺の肩に顎を乗せた翔宇が、一緒になってライターに細い先端を近付ける。
小さな音を立てて火花が散り始めた。それはまるで数時間前に見たばかりの大輪がそのままミニチュアになったかのような、可愛らしいオレンジ色の花だった。
翔宇が俺の耳元で囁く。
「今度こそ、先に落ちた方が負けだぞ」
「いいよ」
とは言ったものの、俺の負けは確定したも同然だ。翔宇に抱きしめられて心臓が高鳴り、花火を持つ手は震えている。
「俺が勝ったら響希にチューしてもらおうかな」
余裕のない俺に追い打ちをかけるように、翔宇が言った。
「響希が勝ったら、どうする?」
既に線香花火は最終段階に差し掛かっていた。最後を飾る火花が懸命に大玉の周りでパチパチと弾けている。
「翔宇にキスしてもらう」
「じゃあ、どっちが勝っても同じじゃん。あっ……」
その瞬間、予想に反して翔宇の大玉が先に落ちた。
「クソ、喋ってたら負けた。とんだ誤算だった」
「翔宇見てみろ。俺の、すげえ続いてるんだけど」
「そのままじっとして、動いちゃ駄目だ」
それから残った僅かな力を振り絞るようにしていた火花が次第に消えてゆき、オレンジの玉がふっと地面に吸い込まれていった。
「消えちまったな」
途端に、辺りが静まり返る。
「じゃあ、勝った響希にキスしてやるか」
翔宇の手が俺の頬に触れ、顔をこちらに向けるよう促された。
改めてこうして見つめ合うと、なんだか照れ臭い。急に翔宇が噴き出し、俺は眉根を寄せて翔宇を睨んだ。
「なんで笑う」
「ご、ごめん。つい緊張して」
気を取り直して、翔宇が咳払いをしてから俺の両手を握り、顔を近付けてきた。
軽く弾くようなキス。一瞬のうちに離れた翔宇の唇に、俺からもう一度同じキスをする。それから互いに少しだけ微笑み合って、俺と翔宇は目を閉じた。
「………」
唇を押し付けているだけなのに、こんなにも胸が熱くなるのは何故だろう。翔宇の体が俺を覆い、手をしっかり握られているからか。
「ん……」
違う。それだけじゃない。
翔宇の言葉を借りるなら、触れあった唇に互いの「気持ち」が入っているからだ。
待機室で押し倒してしたキスよりも、零に言われてしたディープキスよりも、ずっとずっと心地良い。俺と翔宇はたぶん今、同じ気持ちでキスをしている。
「……おしまい」
唇を離した翔宇が、最後にもう一度軽く俺の唇に触れた。
「続きは?」
「続きは家でだな」
俺は夜空を見上げて深呼吸した。
「なぁ、翔宇」
いつの間にか雲は晴れ、月が綺麗に輝いている。
「ん?」
「俺さぁ……」
……もう、言ってもいいのだ。
「俺な、ずっとお前が好きだった」
翔宇の指が俺の指に絡み付く。温かくて大きな手。
「でも変なんだ。仕事でもプライベートでも、翔宇が他の男とヤッてても全く気になんねえのに。そうやって今まで過ごしてきたのにさ……」
耳元に翔宇の微かな息遣いを感じた。
「翔宇に零のことが好きだって言われて超ヘコんで。その時から、今までずっと見ないフリしてた自分の気持ちを意識し始めたんだ。ウケやるから手伝えとか馬鹿なこと言ったのも、全部そのせい。殆ど諦めてたから、せめてお前との思い出作ろうと思って自棄になってたんだよな」
「そうだったのか」
「翔宇の知らないところで俺、すっげえお前のこと好きだったんだぜ。これからちゃんと責任取ってくれるんだろうな」
すると、ふぅと息をついた翔宇が俺の両手をぶらぶら揺らしながら笑った。
「響希は一つ、大きな勘違いをしてる」
「ん?」
「俺が零を好きなのは別に、恋してる、って意味じゃないぞ。……ていうか正直言って、俺自分でそんなこと言ったかよく覚えてないんだけど」
「……いやお前、三人で零と会った日に『零のこと守りてえ、好きなんだ』って言ったじゃん。帰りのタクシーの中でだよ。俺に膝枕させてよ、言ったじゃん」
「………」
返事がない。どうやらこの男、本当に覚えてないらしい。
「翔宇、お前な……」
「だ、だってその時の俺、どうせ酔ってたんだろ?」
それならば俺は酔っ払いの戯言にショックを受けていたというのか。そう考えると、なんだか今日までの全てが一気にくだらなく思えてきた。
「まぁ確かに俺も言ったかもしんねえし、実際零のことは守ってやりてえけど、それは別にただ好きだからっていうか……好きっていうのも、友達とか弟みてえな感覚だし」
「そうなんだ……。それは知らんかった」
がっくりと肩を落として太い息を吐いた俺の頭を、翔宇が笑いがなら撫で回す。
「以上を頭に入れてよく考えてみろ。俺が好きなのは誰か、もう分かるな?」
得意げに言われて腹が立った。
「知るか」
「冷てぇ。でも俺、お前のそういうところも好き。もちろんこれは友達以上の意味」
「………」
悔しいが、嬉しい。心の底から嬉しかった。耳まで真っ赤になった俺の顔。今が夜で本当に良かったと思う。
「散々アピールしてたのに、響希ちっとも気付かないんだもん。鈍すぎるぜ」
「……散々ヤらせろって言ってたことか? そんなの気付くはずねえじゃん」
「いやそれもあるけど、例えば……零と響希が二人で会って帰って来た時のこととか、思い出してみ」
つい最近のことだ。あの時は俺の軽率な発言で、確か翔宇と喧嘩の一歩手前までいってしまったんだっけ。
翔宇は怒ってた。怒ってた……
「そ、そうだ。俺が零と会ってた時お前、怒ってたじゃんか。零とヤるなとか言ってたし、その後、俺が零のこと好きな訳じゃないって知って、すげえ喜んで…た、し………」
言ってるうちに気付いてしまった。
あの時の翔宇の言葉の一つ一つに、俺に対する想いが隠れていたこと、そして……
「響希が零を好きなら譲ろうと思った」。あの台詞は、俺のことを零に譲るという意味だったのか――。
体中が熱くなり、顔から火が出そうになる。
「ば、馬鹿か! なんでそんな勘違いさせるような分かりにくいことを言うんだよ!」
「どうせ馬鹿だよ。響希はこんな馬鹿でいいのか」
赤くなった俺の耳を翔宇が鼻先でくすぐる。
毎日もやもやしながら過ごしていた俺の気持ちは一体何だったのか。胸を痛めて涙した日々は何だったのか。
できることなら、胸の痛みと流した涙を利子付きで返してほしい。
「……考えてみたらさ、俺らもう何年くらい一緒にいるっけ?」
「七年だ」
間髪入れずに答えると、翔宇が大袈裟に溜息をついて「もうそんなに経つか」と言った。
「七年も一緒にいると遠慮がなくなってきてさ、一緒にいるだけで満足しちまうんだよな。だから、いくら好きとか抱いてやるとか言っても、全部冗談みてえになっちまうんだ。今さら真剣な話するのって照れるし、下手に告って響希と気まずくなったら、って思うと嫌だったから」
「ん……」
翔宇の言葉に、俺は声を詰まらせる。
それはずっと俺が思っていたことだった。翔宇も俺と同じ気持ちだったのか。嬉しくて、切なくて、何も言葉が出てこない。
「それに俺らってこんな仕事じゃん。恋愛とセックスを全くの別物で考えてただろ。日常の中でセックスが当たり前になってて、ちょっと麻痺してたところもあると思うんだ」
翔宇の腕が、俺の体を強く抱きしめた。
「でも、俺と響希がするのは当たり前じゃない。だから気持ちの入れ方が全然違う」
「………」
「麻痺してるのは詩音と流星で、今セックスしたくて仕方ねえのは俺と響希なんだ」
俺の後頭部に頬を押し付ける翔宇。汗が噴き出て、頭がくらくらする。
「……か、帰ろう……。翔宇、バケツの始末してきて」
「ん。そうだな、もうこんな時間か……明日も仕事だし」
緩んだ翔宇の腕から逃げるようにして立ち上がり、俺は未使用の花火をコンビニの袋に入れた。蛇口のある方へバケツを持って行く翔宇の後ろ姿を見つめながら、心の中で小さく呟く。
――初めて会った時からお前のことが好きだったよ。
――だからこれからもずっと、俺の隣にいてほしいんだ。
それは七年前のあの夜、わざと花火にかぶせた俺の言葉だった。
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