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それから二日後。七月七日、金曜日の午後五時。
俺は約束通り、昨日から結城さんと一緒に過ごしていた。
翔宇はあの日以来塞ぎ込んでいて、今日も仕事も休んでいる。店から中川啓太の予約だけは行くように言われたらしく、さっきも「行く気がしない」とメールがきたところだ。
俺もできるだけ翔宇と一緒にいてやりたかった。だけど、あの時俺を励ましてくれた結城さんとの約束は破れない。今だけは不安も悲しみも消去して、彼の期待に応えなければならない。
「流星、どうだ?」
ワイングラスに口を付けた俺を見て、結城さんが優しく微笑んだ。
「美味しい」
目の前には、最高級和牛のヒレ肉。
この日のために用意してもらったスーツに身を包み、静かで広く明るいホテルのレストランでワインを飲む俺。何一つ似合ってなくて、グラスに映った自分を見るたびに何だか恥ずかしくなった。
「誕生日おめでとう」
結城さんが小さな箱を俺に差し出した。
「………」
結城さんとお揃いの、大ぶりなプラチナの腕時計。
「い、頂けないですよ。こんな高いの」
お決まりの遠慮でも何でもなく、素直にこれは受け取る訳にはいかないと思った。
「流星のために選んだのに、貰ってくれないのか?」
「お、俺にはとても似合いません」
「似合わなくてもいいんだよ」
「でもっ……」
「いつか似合う時が来たら、つけてほしい」
俺の手を取り、結城さんが甲にキスをする。
「何年後でも、何十年後でも。流星が自分で決めた時で構わないよ」
そんな気障な台詞を真剣に言われると、俺の方が照れてしまう。俺は腕時計の箱にそっと触れながら、一つ息を飲んで言った。
「結城さん、今お幾つでしたっけ」
「三十五だよ」
「……じゃあ、俺も三十五歳になったらつけることにします。結城さんみたいに魅力的な男になってることを願って」
恥ずかしかったが、ありったけの勇気を振り絞って俺が言うと、結城さんは目を細めて微笑んでくれた。
「成長したお前を見てみたいけど、その頃にはもう流星に会えないんだろうな」
「じゃあ、その時は本当に俺が成長できたかどうか会って確かめて下さい」
「十四年後の今日か、遠い約束だな。その間俺も頑張って、今よりもっと流星に褒めてもらえるような男にならないと」
「そしたら俺もまたそれを目指しますよ」
「あはは」
ひとしきり笑って料理を食べた後、結城さんが自分の時計をちらりと見て言った。
「流星、行こうか」
「はい」
貰った腕時計の箱を落とさないようにしっかりと持ち、俺は結城さんと腕を組んでホテルを出た。
「わ……」
目の前にリムジンが停まっている。何から何までスケールがすごくて、俺は生まれて初めて乗ったリムジンのシートを思わず手で撫でた。
「まだ飲めるか?」
華奢なグラスに金色のシャンパンが注がれる。俺はそれを受け取ってから結城さんの頬に口付けた。
「ありがとう、結城さん」
揺れひとつ無くリムジンが走り出した。時刻は午後六時を過ぎたところだ。七月の空はまだいくらか明るくて、日傘をさして歩く女性もいる。
翔宇、ちゃんと洗濯物しまってくれたかな。
暑そうに顔を顰める人達を見て、ふとそんなことを思った。
「まだ明るいですね。いつ頃から暗くなるんだろう」
「あと一時間もすれば真っ暗になるよ」
口元だけで笑った結城さんが、指の背で俺の頬を撫でる。
「流星のために、夜の帳が降りてくるんだ」
「え?」
意味深な言葉にドキッとした。結城さんが言うと、何でもその通りに思えてくるから不思議だ。
それから約三十分が過ぎた頃、リムジンが走り出した時と同じように静かに停車した。
「ここは……」
国際線ターミナル。
結城さんに手を引かれて歩く俺の目が、次第に大きくなり、輝き出す。これから何が起こるのかを理解してしまったからだ。
「ゆ、結城さんっ」
「行くよ、流星!」
導かれた先にあったのは大きなヘリコプターだった。近くで見るのも初めてなのに、まさか俺は今からこれに乗って空を飛ぶのか。とても信じられなくて、心臓がバクバク鳴っている。
「ほ、本当に? 俺でも乗れるんですか?」
「当然だよ。どうした?」
「だって、すごい……。こんなの、生まれて初めてだ」
「初めてか。それは良かった」
七時少し前。
俺達は空高く舞い上がり、豆粒のようになった都会の光を一緒に見下ろした。地上で見上げるネオンはあんなにも安っぽくいかがわしいのに、こうして空から見るとまるで無造作に散りばめられたダイヤモンドのように幻想的で、言葉を失うほど美しかった。
点々と光が連なっているのはレインボーブリッジ。それからあれはスカイツリーだ。俺と結城さんの眼下に、人工的なこの世の宇宙が広がっている。
「綺麗だな」
「ちょっと感動して……泣きそうです」
窓の外を食い入るように見つめていると、結城さんの手が俺の髪に触れた。
「泣くのはまだ早いよ、流星。俺がお前のために用意したのは、こんなありふれた景色じゃないんだ」
「ありふれてなんかないですって。もう充分に……」
はにかんで結城さんを振り返ると、彼は意味ありげに笑って窓の外を指さした。
「見てろ、これからだ」
「え?」
その瞬間――。
「あっ……!」
縦横無尽に散らばるダイヤの中で咲いた、大輪の花。
「嘘……」
例えるならそれは、紫陽花のような紫。向日葵のような黄色。薔薇のような赤。
一瞬の輝きを求めて、次々と咲いては散ってゆく打ち上げ花火。
上空から見下ろしているために一つ一つは小さいが、夜空全体を揺さぶるような光の力強さは地上で見るそれと少しも変わらない。
「すごい……」
それは、ダイヤの夜景よりもずっとずっと綺麗だった。
「すごいだろ。これを見せたかった」
今咲かないともうこれ以上美しくなれないんだというタイミングで、色とりどりの大輪が夜空に感情を爆発させる。まるで意思を持って輝いているかのような強い光は、最後に見た零の瞳を思い出させた。
「もう泣いてもいいぞ」
言われる前から俺の頬には涙が伝っていた。
「この景色は全部、流星の物だ」
俺は流れる涙をそのままに、いつまでも窓の外を見ていた。
この街のどこかで、翔宇も花火を見ているだろうか。
きっと見ているに違いない。
無意味だと分かっていても、地上にあの頃の俺達の姿を探してしまう。中二の夏、翔宇と一緒に見上げた空。
あの時と同じ純粋な気持ちで目を輝かせながら、翔宇もきっとこの空を見ている。
見下ろす俺と、見上げる翔宇。お互い知らないうちに目が合っていたなら、それはもう奇跡としか言いようがない。
だけど、今夜なら。
今夜だけなら、何億分の一の確率で奇跡も起こる気がする。
こんなにも美しくて儚くて、まるで魔法にかかったような夜だから。
翔宇と俺の大切な思い出が、七年越しに再現された夜だから……。
約一時間の遊覧飛行を終え、俺と結城さんは再び地上に降り立った。
興奮が収まらない。俺は結城さんの腕にしがみつくようにして立ちながら、まだ遠くの空で上がっている花火を見つめた。
「流星、誕生日おめでとう」
「……結城さん。俺……」
「分かってるよ。本当の誕生日じゃないってことくらいはな」
「………」
「でも、俺にとって流星の誕生日は今日だから。そういうことにしといてもいいか?」
「……もちろんです」
その時、俺のポケットの中でスマホが鳴った。マナーモードにしておくのを忘れていたのだ。
「出ろよ」
「いえ。出ませんよ」
「好きな奴からかもしれないぞ」
からかうように言われて、俺は渋々スマホを取り出した。
「馬鹿……」
結城さんの予想が当たった。画面に浮かぶのは今この瞬間、愛しくて堪らない翔宇の名前。
鳴り続けるスマホを手に結城さんの顔を見上げると、彼はいつもの優しい笑みで力強く頷き、俺の頭を軽く叩いてから数メートル先の方へ歩いて行った。
「翔宇」
〈……響希?〉
「馬鹿。俺、仕事中だぞ」
〈分かってる、出ると思わなかったから驚いた。……なぁ、花火綺麗だったぞ。今から動画送るから見てくれる?〉
「……翔宇、見に行ったのか……? 一人で?」
〈行ったよ。だって、響希のためにどうしても行きたかったんだ〉
「え……?」
〈お前が行けないって分かった時から、帰って来た時に話して聞かせてやろうって思ってたんだ。だって俺らの大事な思い出だろ……? 中二の時に見たのと同じくらい、綺麗だったぞ。なぁ響希……本当に綺麗だったんだ……〉
感極まっているのか、翔宇の声は震えていた。
その震えが俺の声にも、そして体にまでも伝染する。
「……見たよ、翔宇。俺もお前と同じ花火、ちゃんと一緒に見た。すげえ綺麗だったよ」
〈え?〉
「結城さんがヘリ乗せてくれて、空から見てたよ。翔宇がいるかもしれないって思いながら見てたよ。翔宇、本当にいたんだ……」
〈マジかよ……すげえ、信じらんねえ。……俺、マジで今すっげえ嬉しい。……ていうか泣いてんの? 響希〉
ぼろぼろとこぼれる涙を拭いながら、俺はしっかりとスマホを握りしめた。
「俺も嬉しい。すげえ幸せな気分だよ。……翔宇、これから仕事だろ? 帰ったらいっぱい話しよ……」
〈分かった。じゃあさ、後で公園かどっか行って、二人だけで花火やろうぜ。俺、コンビニで買って帰るから。一時過ぎになるけど、大丈夫か? 響希起きてられる?〉
涙で声が出ない代わりに何度も頷くが、それでは翔宇には伝わらない。
俺の啜り泣く声を聞いて、電話の向こうで翔宇が笑った。
〈待っててくれるよな? ……こないだの返事、響希にしないといけないしさ。俺の気持ちも、電話じゃなくて直接お前に伝えたい〉
体中が熱くなった。
「待ってる。絶対待ってるから……」
〈じゃあ、泣かないでもうちょっと頑張れ。終わったら連絡する〉
「うん」
〈あっ、あと一つ。零から連絡きたんだ〉
俺は心の中で小さく祈り、覚悟を決めて強く目を閉じた。
〈……陰性だったって。完全に大丈夫だって。安心していいぞ、響希……〉
「う……」
何度涙を拭っても、次から次へ止め処なく涙が溢れてくる。
〈あいつもきっと幸せ。……じゃあ、また後でな、響希〉
「うん……」
通話を切って深呼吸していると、結城さんが戻って来て俺の頭を強く撫でてくれた。
「幸せになれたか!」
「……結城さん」
「何気に今の電話が一番のプレゼントだったんじゃないか?」
「何もかも全部、結城さんのお陰ですよ。結城さんに会えたから、俺は……。だからお礼に何でもします。何でも言ってください」
「お礼か……。それじゃあ」
結城さんの唇が俺の額に押し付けられた。
「流星の本当の名前、聞かせてくれないか……」
花火も終わり、頭上では静かに星が輝いている。
俺は唇の端を緩めて、少しだけ身を屈めた結城さんの耳元へ囁いた。
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