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弾む足取りの翔宇を追い、俺は奥田さんに軽く頭を下げてから待機室を出た。
一体どんな客なんだろう。しかも平日のこの時間に。
「響希と3P久々だな、零とのこと思い出す。順番決めといた方がいいか?」
「何も言われなかったら俺が先にヤる。さっきのでかなり溜まったからな」
個室の前まで来て、俺が部屋をノックした。
「失礼します。流星です」
「詩音です、こんちは……」
「こんにちは、光です」
本日二度目の硬直。個室の中でベッドに腰掛けていたのは零だった。
「お、お前っ、なんで来たの?」
翔宇が動揺しながらドアを閉める。
「二人に会いに来たんだよ」
俺はその場に立ち尽くして零の顔を見つめた。きっと何かあるんだと思った。
「お前に金使わせる訳にはいかねえって。馬鹿だな」
翔宇は零の隣に座り、その白い頬をつねっている。
「零、どうした?」
俺も零の隣に腰を下ろした。
「何かあったのか?」
「時間空いたから来たんだ。どっち指名しようか迷ったから、二人ともお願いしてしまった。迷惑だった?」
「そんなことねえよ。零が来てくれてマジ嬉しい。な、響希?」
俺は無言で頷き、零の横顔を見つめた。
何か悩んでいるにせよ、俺が翔宇に惚れているとバレているにせよ、料金を貰った以上は相応のサービスをしないといけない。それが俺なりのプロ意識というやつだ。
「今日はじゃあ、俺と響希で何でもしてやるよ。じゃんじゃん注文してくれ」
「本当に何でも?」
「ああ、何でもだ」
零が悪戯っぽく瞳を輝かせ、翔宇の顎を指で撫でながら言った。
「じゃあ、翔宇くんと響希くんでチューして見せて」
「なっ?」
「れ、零っ!」
「何でもいいんでしょ。お客様の要望だよ」
こいつ楽しんでやがる。主に、俺の反応を見て。
だが残念ながら、俺と翔宇はキスなら先ほど経験済みだ。
「しゃあなしだな。響希、チューしよ」
「ちゃんと舌も入れてよ。愛情込めて、超ディープなやつね」
仕方なく二人で立ち上がった。俺の肩に手を置いた翔宇が、ぎこちなく顔を傾けて目を閉じる。その額には汗の玉が浮かんでいた。
翔宇が目を閉じている隙に俺は零を睨んだ。零は口元に手をあてて笑っている。
「あは」
俺と翔宇の唇がくっついた瞬間、零が嬉しそうな声をあげた。
こうなったら、零にも翔宇にもスペシャルな衝撃を喰らわせてやる。
「んぅっ」
俺は翔宇の後頭部を片手で引き寄せ、勢いよく舌を突っ込んだ。
「ひ、響っ……ん、んっ」
息つぎする暇すら与えてやらない。フェラの要領で翔宇の舌を吸い、翔宇の唇に歯を立てる。
「ん、んぐっ……」
「うわぁ、すげえ……」
一分以上のキスの後。俺は翔宇の後頭部から手を離し、同時に唇を開放した。
「ぷはっ、響希勘弁してよ……」
「満足したか? 零」
「したした、もう大満足。やっぱ響希くんと翔宇くんのコンビは最高だなぁ」
零が手を叩いてベッドに転がった。翔宇がふて腐れた顔でその上に覆いかぶさる。
「じゃ、今度は俺が満足していいんだよな?」
「駄目だよ翔宇くん。今日の俺はお客様なんだから、勝手に手出しするの禁止」
「なんだよ、じゃあ何しに来たんだ」
俺は口元の唾液を手で拭ってそんな二人を見ていた。初めて三人で会った日のことが、頭の中で蘇る。
「響希くんも、こっち来て」
零に手招きされ、俺もベッドの上に膝をついた。
俺と翔宇であぐらをかいて、両隣から零を見つめる。
「実は今日はさ、二人に挨拶しに来たんだ」
「挨拶?」
「お別れの挨拶。俺さっき店辞めてきたんだ。急だけど、引っ越すの」
突然言われて、俺と翔宇は顔を見合わせた。
「どうしたんだよ。マジで急だな」
零が唇を噛みしめて笑う。今にも泣き出しそうなその顔に、俺は嫌な予感を覚えた。
「……何があった。言ってみろ」
「………」
「零。正直に言え」
「まぁまぁ響希、いいじゃん別に。辞めるなら気持ち良く祝ってやろうぜ」
俺のきつい物言いに、翔宇が焦ってフォローを入れる。だけど俺は翔宇を無視して続けた。
「男か? 彼氏に何かされたのか」
「別れただけだよ」
「嘘言え。それだけじゃねえだろ」
「おい、響希なに熱くなってんだよ?」
そうだ、翔宇は零が男に貢いでたことを知らないんだ。今ここで零に問いただして良いものかどうか、俺は戸惑った。
「……言いたくないならいいけど、俺はお前が心配だから……できれば理由、聞きたいんだ。本当はお前も、俺と翔宇に言いたいんだろ? だからわざわざ来たんじゃねえの?」
優しく零の肩を抱くと、零は鼻を啜りながら俺の目を見て言った。
「笑わないでね」
「笑わねえよ」
「俺、彼氏に病気移された」
「………」
沈黙した俺と翔宇の表情を伺いながら、零が小首を傾げて付け足した。
「――かも? しれない」
「かも、ってなんだよ? ていうか、え、何の病気? 性病?」
翔宇が混乱した様子で零の肩を揺さぶった。
零が長い睫毛を伏せる。
「HIV」
呟かれた零の言葉に、俺も翔宇も息を飲んだ。一瞬、何も考えられなくなった。
「昨日、響希くんとファミレスで話して……やっぱりこのままじゃ駄目だと思ったから、彼氏にちゃんと別れようって言ったんだ。そしたら、実は……って打ち明けられて。すごい突然だったから、俺もかなり焦っちゃって」
「………」
俺の脳内で、昨日見たばかりの零の切なげな笑顔が蘇った。そして……
――みんなが幸せになれるといいのになぁ。
その言葉を思い返した瞬間、背筋に鳥肌が立ち、今にも嘔吐しそうになった。
「でも、零。俺らって仕事の関係上、毎月そういう検査してるだろ? 今まで一度も引っ掛かってねえんだよな?」
翔宇が問うと、零が頷いて言った。
「だけどこの場合、信憑性のある検査結果が出るのはセックスから十二週経ってからだから。早ければ明後日か明々後日、また病院行ってくる。いくらゴム付けてても、これじゃ不安で売り専なんてできないでしょ? 短い間だったけど、いい機会だから引退するよ」
「ていうか……なんでまた、彼氏から? そういうことしない仲なんじゃなかったのか」
そう訊いた俺の声は震えていた。
「一回だけした、って言ったよね。もちろんゴムもしてたし確率的にはかなり低いとは思うんだけど、やっぱり自分のこととなるとビビっちゃうよね」
「ゴムとか生とか関係ねえだろ……」
今度は両手が震えた。
苛立ち、恐怖、焦り……あらゆる感情が混ざり合い、俺の中で燃え滾る。やがてそれが腹の底から一気にせり上がって来て、声となって吐き出された。
「その男は自分で分かってて、それ隠して零とヤッたのかよ! ふざけんじゃねえ、ブッ飛ばしてやる!」
「響希」
叫んだ俺の腕を翔宇が引き、落ち着くように目で訴えられた。
落ち着いてなんていられない。最低最悪のクズ野郎だ。零にたかり、傷付け、挙句の果てに……。
「いいんだよ響希くん。だから今まで俺とヤんなかったんだなぁ、って思ったら、なんかちょっとだけ嬉しかったから……」
「馬鹿じゃねえの? お前、どんだけお人好しなんだよっ! 回数じゃなくて、隠してヤッたことの方が問題だろうが! おい翔宇っ、今からその男ブッ飛ばしに行くぞ!」
「お、落ち着けよ響希。今の所、確率は低いんだろ? 零、明日以降に病院行けば完璧な検査結果が出るのか?」
「うん、ヤッたのが四月の半ばくらいだったから。明日以降になれば、たぶんちゃんとした結果が出ると思う。ていうか、検査終わってから来れば良かったよね。響希くんに余計な心配かけちゃったみたいだ……」
「取り敢えず、今は結果を待つしかねえな」
翔宇は何故そんなに冷静でいられるのか。俺は立ち上がり、翔宇の顔に向かって思いきり唾を飛ばした。
「そんなの待ってらんねえよ! 俺は今からでもそいつのとこ行って来るぞ!」
慌てた様子でベッドから腰を上げた翔宇が、興奮して呼吸が荒くなっている俺の肩に手を置き、宥めるような口調で言う。
「落ち着けって、響希。怒ったって仕方ねえだろ」
「落ち着いてられっか! 翔宇、お前零が好きなんだろ! 守ってやるって言ったじゃねえか、なんで怒らねえんだよ! もし本当に感染してたら零は――」
瞬間、鈍い音が個室に響いた。
じわ、と左の頬が熱くなる。
「………」
翔宇に殴られたと分かったのは、零が泣き出した後だった。
見開かれた俺の瞳の先で、翔宇は悔しそうに顔を歪めている。
「響希……。お前が冷静になってくんなきゃ困る。俺だってお前と同じ気持ちなんだぞ。でもそいつを俺らが殴ったとして、どうなるって言うんだよ? ましてや今二人で出て行ったら、零が独りになっちまうだろうが……」
「でもっ……!」
「響希くん」
言いかけた俺の手を零が強く握った。大きな目から涙を流し、すがるような目で俺を見ている。
「……嫌だ。二人が喧嘩するなんて、絶対に嫌だ……。響希くん、お願い」
「零、……なんでそんな男に惚れたんだよ……?」
言った途端、俺の目からもどっと涙が溢れてきた。
零の華奢な体を強く抱きしめ、何度も何度も頭を撫でる。失いたくないと思った。俺も翔宇と同じ気持ちだ。
零を守ってやりたい――。
「……ごめんね、響希くん」
「なんでだよ……馬鹿野郎。マジで許せねえよ……」
俺も零も泣きながら互いを抱きしめ合った。翔宇は俯き、額に両手をあてている。
やがて、翔宇の腕が俺の腕に重なった。
「俺は零を許すよ」
「翔宇くん……」
「本気で好きだったんだろ。……だから、許すよ」
それから俺達は一言も発さず、黙って零の体を抱きしめた。
そのまま一時間が過ぎ、自動延長を三十分続けた後、ようやく零が笑顔を取り戻した。
「……ん。もう大丈夫。だいぶ二人に勇気付けられたから、俺、そろそろ行くね。引っ越しの準備しないと」
「ちょっと待ってろ、俺が金払う。財布取ってくるわ」
翔宇が立ち上がり、そのまま個室を出て行く。
俺は零と向かい合い、鼻を啜って少しだけ笑った。
「何かできることあったら何でも言ってくれ。なんなら今日、ウチ泊まってけよ」
「大丈夫。今、実家の兄弟が来てくれてるんだ」
「そうなのか。引っ越し先は決まってんの?」
「俺の実家、沖縄なんだよ」
「お前その肌の白さで沖縄出身だったのか。いい所だけど、滅多に会えなくなるな」
「海行って、アイス食って、しばらくは稼いだお金でのんびり暮らして、落ち着いたら向こうで仕事探して、また好きな人作る。二人が遊びに来る時までには紹介できるようにしないと」
零の瞳は希望に満ちていた。どこまでも前向きで、綺麗で力強く、本当に美しかった。
「知ってた? HIVって、寿命で死ぬまで発症を抑えられる場合もあるんだって。だから感染しててもしてなくても、俺絶対、幸せになるよ」
「うん……」
「響希くんもね。約束して」
「約束する。俺も幸せになる……」
また涙がこぼれてしまわないうちに、俺は差し出された零の小指に自分の小指を絡めた。
「じゃあ、俺行くね。翔宇くんに払わせるわけにいかないから、お金響希くんに渡しておくよ」
「大丈夫だ。延長させたのは俺らのせいだし」
「じゃ、最初の六十分の料金だけでも払わせてよ。俺だって元売り専なんだからさ、筋は通しておきたいじゃん」
「………」
それから店の外まで零を見送り、俺と翔宇は沈んだ気持ちのままで待機室に戻った。
お互い、一言も発することができなかった。
翔宇が煙草を咥え、火を点ける。俺はその横顔を黙って見つめていた。
翔宇の気持ちを考えると、やり切れなくなる。泣き叫び、暴れ出したくなる。あの場では冷静さを保っていたけど、本当は俺よりもずっとショックだったはずだ。
堪えようと思って唇を噛みしめる。だけどそれも、無駄なことだった。
翔宇が俺に気付き、肩に腕を回してきた。
「泣くな」
そのまま引き寄せられ、翔宇の胸に頭を預ける。自分でも、本当のところ何が悲しいのかよく理解できていなかった。零のこと、翔宇のこと、自分のこと。いろんな気持ちが交差し、溶け合い、一つの大きな疑問となって浮かび上がってくる。
――俺達が本当の意味で幸せになれる日なんて、来るのだろうか。
今の俺が知りたいのはただそれだけだった。
「響希、泣くなって」
「翔宇……」
戻りたい。あの夜に。
自分達の輝かしい未来をただひたすら信じていた、七年前のあの夏の夜に。
「翔宇」
瞼を開いた瞬間、スッ、と体が落ちるような感覚があった。
翔宇に頭を抱きしめられた格好のままで、呟く。
「……好きだよ」
翔宇は煙草の煙を細く吐きながら、俺の髪をそっと撫でてくれた。
何も言わなくていい。何も言わないでほしい。
強く祈りながら翔宇のシャツを握り締める。
沈黙のまま時が過ぎ、やがて待機室のドアがノックされた。
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